ソファーに横たわり、錠剤を舌にのせる。白い錠剤はみるみるうちに唾液に溶かされ滲んでいく。俺は、舌を軽く出して、苦みを味わう。本当なら、今すぐにでも吐き出しているであろうその一錠を。空気に触れて舌の先がひんやりとしていく、苦みで痺れ、唾液も溢れる、だけど液体は俺が横たわっているが故に重力に逆らえず落ちていく、産まれた先から。だらりと伸びた左腕がずるずる滑って床と触れ合う、手の甲がフローリングの継ぎ目を感じてる、多分痕がつく。錠剤は溶けきったらしい。飲み込むと、冥土の土産を嫌なモノを渡されたと喉が訴えた。 そっか。舌は麻痺してたんだ。
 所定の量は二錠。俺は右手に握ってた残り一錠を口に放り込んだ。既にやや溶け始めてたらしい。水無しで嚥下して、手の平を舐める。案の定苦い。自らへの懲罰のような、気がして、少し心地いい。
 いつからか眠れなくなって、こんなモノを飲むようになった。睡眠薬は厭ぁな夢を連れてくる、厭な夢を。俺は必ず魘されて最悪な気分で目を覚ます。これも、罰だ。俺自身への。許されるはずがない。そう思うと途端に夢は覚める。それが答えだとでも言うように。
弟はとっくにベッドの中。今、このだだっ広い家で、起きているのは俺だけだ。明かりの消えたリビングは当然ながら真っ暗で、夜闇に慣れた俺の目が天井の白を捉えるばかり。音はない。カウンターを挟んで、向こう側にはキッチンがあって、そこには稼働中の無数の電子機器があるはずだがそれらの息遣いもここには届かない。時計はあることにはあるが、デジタル表示の新しい物で、古き良き秒針の音が神経質に響くこともない。唯一雑音があるとするなら、俺の呼吸と、鼓動。脈拍。やめちまえ。こんなもの。
 そろそろ起き上がり、ここから立ち去り、自分の定められた寝床へと向かわなければならない、だってこのままソファーなんかで寝てしまったらヤツは心配するだろうから。嗚呼、可愛い俺の弟、お前は何も案じなくていい。お前は罪人なんかじゃない。俺は、罪人。それだけのことだ。薬が効いてきた。微睡み始めてる。『考えること』それ自体が億劫になってきて、俺は起き上がる決意を固めた。あと、3秒で。
 起き上がる直前に、自棄になって、笑った。 今夜はどんな夢を見るだろう。


 彼の声で目を覚まし、彼の部屋へ忍び込み、魘される彼の頭をできうる限り優しく撫でること。それが、最近の俺の日課だ。裸足で廊下を歩き、階段を降り、また廊下を歩いて、ドアを開ける。螺旋階段は落下防止のためのライトが常に点いていて、明るいけれど、廊下は暗い。足下のコンセントがその在処を知らせる小さなランプを点している以外に光らしきものはない。温かく、柔らかく光る白熱灯を背にして、暗い、冷えきった廊下を歩くたび、奥の部屋で魘されている兄を照らす光などここにはないのだと思い知る。だから俺が、代わりになる。
 廊下は湿っている。足を置くと貼り付く、離そうとするとほんの少し、引き止める。温度は高いところから低いところへ流れるけれど、もしかしてあの冷えきった床は、俺の体温が欲しいのだろうか。だから少しだけ引き止めるんだろうか。
 光のないところはどこだって静かで冷たい。だから兄の部屋のドアノブも、いつもぞっとするほどに冷たい。握るたび、なけなしの勇気を取り落としてしまいそうになる。だけど結局はドアを開く。開いて、ごちゃごちゃと散らかった部屋の奥で呻く兄を見つける。
 ドア越しにも、微かに聞こえてはいるけど、やっぱりドアを開けると違うんだ。彼の声は何も通さずに俺の鼓膜を直接揺らす。俺の部屋では益田にいる兄声がよく響くのだけど、ひとたび部屋から出てしまうと、声なんて本当にあったっけと訝しむほどにそこは無音で、階段を降り、物置を横目に、お手洗いを過ぎた辺りでようやっと兄の声が聞こえ、だから俺は兄の部屋のドアを開けるたび思い出すんだ。こんなに、苦しげな声であったかと。
 床に転がったCDやら、ヘッドフォンやら、いかがわしい雑誌やらDVDやらを避けながら、兄の枕元に立つ。そうして、暗さに目が慣れて、兄の顔が見えるようになるまでじっと待つ。俺の視界は沢山の黒い点に覆われて(中には花火かなにかのように鮮やかにちらつくものもある)、…はだんだん立ち去っていく、蟻の群れが巣に帰る様に似て。クリアになったレンズから、俺は兄の表情を眺める。兄は眉根を寄せ、時折、痙攣するように目元をびくりとさせる、口は閉じられているけど、一定の感覚でわずかに開いて息を吐く。呻き声を上げる。
 俺はその場に物がないことを確かめてから跪く。近くで看ると、兄の額には脂汗が浮かんでいる。兄の中にある苦痛が、許容量を越えてしまって漏れだしたかのごとく、それは重い。右の人差し指を折り曲げてそっと汗を拭った。汗は染み込み皮膚を透過する。何度か、そうやって汗を拭った。汗が染み込めば、その分彼の苦痛を背負って和らげることができるんだ。そう言い聞かせて。心なしか兄の呼吸も落ち着いてきたように思える。
 そっと顔を近付けて、手の側面を生え際に沿わせる。ゆっくりと髪を撫で付けた。枕に届いたら、もう一度。また届いたらもう一度。優しく、優しく、いたわるように。慈しむように。年上の兄を。
 たった二歳しか違わないのに、俺は兄を俺よりずっと強い存在だと思っていた。俺と同じく負けず嫌いで、意地を張る節のある彼は、決して弱音を吐かなかったし弱さを見せようともしなかった。だもんで、俺は随分と長いこと勘違いをしていて、している内に俺らの時は止まってしまって、最近やっと動き始めて気がついた。彼は、兄だけど、同様に、弱い部分もあるということ。俺と同様に脆いということ。
 撫でていると、兄の脈が伝わってきた。速い。怯えるように跳ねている。兄の部屋は電化製品が多い。パソコンの音か、それともオーディオ機器化、判別はできなかったけどハム音がうるさくて、それは虫の羽音にも思えた。兄は、蝕まれているのだと、思った。得体の知れない何かに。内側から蝕まれて呻き声を上げている。この“虫”のせいかは知らないが、__俺は、知らず知らず手を止めて、呟いていた。
「……大丈夫、だから」


 何度やめてくれと叫んでも、夢の中の俺は手を止めず、ひたすら、弟を殴り続けた。記憶と寸分違わない、十年前と同じリビングで。弟はさっきから声も出さなくなって身を投げ出してる。お兄ちゃん、お兄ちゃん、と、泣き叫ぶ声が聞こえなくなって、安堵している自分を見つける。吐き気がした。
「お前さぁ、」
 突然、夢の中の俺は弟を放って俺を振り返る。放られた弟は、電池切れのおもちゃみたいにどさりと落ちた。鈍い音がした。
「なんつー顔してんだよ? お前がしてきたことだってのに」
 分かってる。分かってるから、もうやめてくれ、見たくない、大事な弟なんだ、大事な、……懇願しようとしてるのに息が詰まる。喉が塞がってしまう。向こうに見える弟は身じろぎ一つしない。肺が、動いて、柔らかく膨らんだりしぼんだりしてる様子もない。直視できずに俯く。
「何してんだよ。しっかり見ろよ、あれが、お前の仕打ち。お前のしたこと」
 分かってる、
「分かってる? 分かってねぇよ虫のイイヤツだ、“守る”だなんてほざきやがって。アイツを一番傷付けたのは他でもない、お前自身だろ?」
 分かってる、分かってるよやめてくれ、
「やめねーよ。これが、お前の望みなんだから」
 望み? 弟を傷付けることが?
「違ぇっつの。はは、それこそ、お前はよぅく分かってんだろう?」
 そして俺は同じ答えを呟こうとした。毎晩、毎晩、辿り着いてしまう一つの答えを。これも、罰だ。俺自身への、__でもその時、俺の言葉を遮るように声が降ってきた。それは悲しげに、切なげに響き、俺を揺り起こす。
 大丈夫、だから。


「__アーネス、ト?」
 放っておいたら霧散しかねない呼びかけにハッとして、俺は兄の瞳を探した。夜目にも分かる濃いブルーもまた俺を探してた。縋り付くように。
「どうして、……ここに」
「兄貴の声。聞こえたから」
 兄貴は、俺の返答を聞いて天井に目を移し、瞼を閉じて、息をついた。長く。呼気とともに、身体を硬くさせていた余計な力も抜くと兄貴は、再び俺と目を合わせる。今度は普段と変わらない微笑みを浮かべて頬に手を伸ばす。
「そうか。起こして悪かったな」
 変わらない。猫の喉元をいじくるみたいに俺の頬を撫でる。けれど、俺は気付いていた。その手が、細かく震えてることに。
 兄の体を覆う毛布は陥没して深い皺を作り、そのままの形で固まっている。兄の手があまりにも強い力で握りしめたからだ。ぐっと引っ張られ、くすんだ白色の無地の毛布は陰で文様を描き出している。兄の淡い水色の寝巻は汗を吸ってしまい、衿が紺色になっている。春の夜は冷たい。夏の夜だったら、兄はきっと、蒸発に温度を奪われ凍えていくこともなかっただろう。
「無理、しないでよ。兄貴」
「無理って?」
「どんな夢、見てたの。お兄ちゃん」
 兄は一瞬強張って、それからすっと手をどかせた。頬から去った温かさとくすぐったさに、心細くなりながら俺は続ける。
「云え、とは言わないよ。辛いでしょ。だけど、……意地張るのはやめて」
 ため息が聞こえた。それは、見せびらかすような大きなものではなかったけれど、世界中の沈黙を集めたみたいに音のないこの部屋ではとても大きく聞こえた。兄は軽く俯いて、視線を自らの両手に落とす。あまり語彙がないなりに言葉を選び、慎重に、躊躇いがちに唇を開く。
「お前を、……殺す、夢を、……見るんだ。俺が殺すんじゃなくて、夢の、夢の中の俺が、……殺し方は、毎回違うけど、最後には殺してしまう、いつも、……お前を、撲ったり刺したりして、傷付ける、……その内お前は死んじまう、……俺は何度も、やめてくれと、叫んで、でもそのたびに言われるんだ。これはお前のしてきたことだ、と。俺は言い返せなくて、……当然の罰だ、と思う。こんな夢を、見ること自体が。この夢自体が、……そして、」
 兄はそこで口を噤んだ。それきり何も言わなくなった。俺には、兄がどんな一言を飲み込んだのかは分からなかったが、それが薬よりずっとずっと苦い何かであることは分かって、そう思うと、俺の体は、勝手に兄を抱きしめていた。
「っ、アーネスト、」
「お兄ちゃん、__大丈夫だから。兄貴は、苦しまなくても、いいよ」
 兄の手が俺の背中に回って、その仕草はまるで怖がっているように、まるで、下手に抱きしめたら俺を壊してしまうと恐れてるみたいに、たどたどしかった。兄の手が探りながら、俺を抱きしめ直すたびにちょっとずつ力は増して、位置も変わる。兄は何かを求めてる。しばらくして、俺は兄の欲してるものが何であるかに気付き、彼の後頭部に手を当てて俺の胸へと押し付ける。
 心臓の、真上に。
「兄貴、聴こえる?」
 意識すると、鼓動のリズムがはっきりと俺の耳まで届いた。兄は、恐らく無意識なんだろう俺の体にぎゅうとしがみついて、幼子のよう。俺は、兄を、包み込んで囁く。
「心臓の音。分かる?」
 大丈夫。
「兄貴、……俺は、生きてるよ」
 あなたは、
「兄貴は、誰も殺してなんかない」
 あなたは俺を、殺さなかった。
 彼は泣いていた、嗚咽を堪え、ひたすら俺の名前を呼んでいた。アーネスト、アーネスト、アーニー、__俺は黙し、鼓動のリズムを守る。彼の頭をかき抱き、暖めて、愛おしむ。やがて泣き疲れた彼が、睡眠薬の苦味のない安らかな眠りに墜ちていくまで、俺はただただ、鼓動を鳴らした。

Silent Beat

 俺も、あなたを守るからね。 お兄ちゃん。
書きながら、気味悪く感じたお話。

2012/05/13:ソヨゴ
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