もう、いい。何がどうなったって。

愛の記憶とパラドックス

夜の教室。と言っても、教室の中は真っ昼間よりも明るい。蛍光灯の光が、うるさいくらいに照らしている。そんな教室の教壇に腰掛けて、俺は考え事をしていた。
ここ最近和弘の様子がおかしい。
多分も何もあの事件のせいだとは思うが……何をされたのか分からないから何をしてやれるかが分からない。
アイツは不自然に笑うようになった。前よりずっとまともになった。それが怖いんだ。
元々壊れてるヤツがまともになったということは、それだけの衝撃を受けたということ。
まともなヤツが壊れてしまったのと同じだ。
誰だ。誰が何をした。
せっかく市羽目が戻ってきたんだ。こうなる前の日常が戻りかけていた矢先だった。なぜ今、歯車が狂う。
俺は和弘に、何をしてやればいい?
他の奴らが和弘の変化に気付いている様子はない。あの長髪野郎と優柔不断は、少しおかしいと思い始めてるようだけど。実際、ノイには何かあったのかと聞かれた。
昔から、アイツはひどく動じないヤツだった。何があっても自分自身が揺るがない。それは頑固なのか無関心なのか分からなかったが……だがシツはその反面、ある一点を突けば簡単に壊れてしまいそうな脆さも持ち合わせていたように思う。和弘をおかしくしたのは、その一点を見抜けるヤツ。そして、人の心を壊すことに何の躊躇いも感じない人物。そんなヤツ俺の知り合いにはいない。
あのミサワとかいうテロリストが言ってた、「タチの悪いヤツ」。ソイツが和弘をおかしくしたのか?
俺はまだ知らなかったのだ。和弘をおかしくさせたヤツは、「タチが悪い」なんて言葉じゃ表せないヤツだってことを。


そろそろ帰るか、少し眠たくなってきた。
気付けば時計は11時を指していた。日付が変わる前に帰っとかねーと。
そう思い、腰を上げかけたその時だった。
「邪魔するぞ」
からり。乾いた音を立てて戸があく。
ソイツの着ている軍服は、どことなくテロリストのそれに似ていた。だが、色も形も大きく異なる。格が違う、といった感じ。
それより何より目を引いたのは、その男の容姿の美しさだった。嫌悪感と隣り合わせの美しさ。俺は綺麗なもんにはさして興味もないが、その美しさは、目を引いた。
「こんなところにいたのか。随分と探しまわったが。」
一瞬で嘘だと分かる。俺がここにいることを、初めから分かっていたに違いなかった。
「あんた……誰」
「俺か?俺は柳だ。柳と書いて、リュウ。」
初めまして、輪払虎君。
そう言って彼は微笑した。
身動きが取れなくなる。目を反らしたいのに反らせない。捕まった。そんな気がした。
「………君は勘がいいんだな。俺がどういう人物か、薄々分かっているのだろう?」
彼は笑みを深くして俺に近づいてきた。寄らせちゃいけない、分かっているのに、俺の足はぴくりともしない。
「君は、俺が“この世にいてはいけない存在”だと、察してる。」
彼は俺の真正面に来た。
ゆっくりと彼の腕が伸びてきて、俺の肩を強く押した。抵抗だって出来たはずなのに、俺はあっさりと教壇に肘をつく。
俺の肩を掴んでいた手は俺の首筋へと移動した。同時に、彼は自らの顔も俺に近づける。
その長い指が俺の首筋に触れた。
冷たい。氷か、さもなければ死体のようだ。鳥肌が首筋から爪先まで全身にゾワリと広がる。俺は次第に恐怖に支配され始めた。恐い、だなんて、他人に対して思ったことなど……今までで一度しかないのに。
「君は素直ないい子だが……そういう子にほど不幸は早く訪れるようだな。」
「それは……母さんの、こと、か?」
「そう。君も分かっているのだろう?君は、何一つ悪いことなどしていない。君はただ運が悪かっただけだ。」
彼は微笑を、少しだけ暖かなものに変えた。
「恨みに思ったりはしないのか?この世に対して。」
「いや、俺は……」
「無理をする必要などない。無理に愛さなくたっていいじゃないか。君はこの世から、散々な目に遭わされたんだ。」
どきりとした。ずっと誰かに言って欲しかった言葉だったから。
無理しなくてもいい。
愛さなくても、いい。
コイツに心を許したら終わりだ。そう思って踏みとどまったつもりだった。今思えば、俺は甘かったのだろう。彼の言葉は、俺が思ってるよりもずっと、俺の心に入り込んでいた。
「愛さなくて、いいのか?」
彼に向けていった言葉ではなかった。自分自身に問うたに過ぎない。だがその小さな声を、彼は決して見逃さなかった。
「ああ、愛する必要なんてない。だって君はそもそも、愛し返すことなんて出来ないじゃないか。」
頭の奥がズキリと痛む。傷口が血の流れに共鳴して、痛み出す。心の中の、傷口が。
追い討ちをかけるように彼は俺の耳元に口を寄せた。

「なぁ、虎君。俺が君を……“愛している”と言ったら、どうする?」

ひ、と小さく悲鳴が漏れた。
思い切り彼を突き飛ばし、崩れ落ちる。教壇にすがりついて嘔吐く俺を、彼は楽しそうに見ていた。
「虎君、君は一生、誰のことも愛することは出来ないよ。愛されることも出来やしない。」
彼はしゃがみ込んで、また俺の耳元で続ける。
「だってほら、虎君。君は愛されてしまったら、母さんみたいになってしまうよ?」
「ひ、うぁ、ああ」
「思い出してみろよ。覚えているだろう?君の母さんの最期。君の目の前で君の母さんは死んだのだから。どんな最期だった?つらそうだったか?苦しそうだったか?違うだろ。呆気なかったんだろう。何の前触れもなく突然にぷっつりと、君の母さんは死んでしまった。ああはなりたくないよな?あんな最期は、死んでも迎えたくない……そうだろう?」
封じ込めていた映像が、堰を切ったように流れ出す。無言で倒れていく母、潰れたアイスクリーム、血、大声で笑う男、雨と血の水たまりを照らし出す街灯。美しくも汚くもない最期。味気ない終わり。あんな死に方はしたくない。そんな終わりは、イヤだ。
殺されたくない
死にたくない
愛されたくない
嫌だ。
強烈な吐き気。堪えきれずに、床に胃液を吐き出す。涙がこぼれる。苦しい。
口の中に指が突っ込まれた。革の手袋の感触。
「“愛”は憎しみと同じ数だけこの世界にばらまかれてる。友情も“愛”のうちだろ?なあ虎君、君はそれら全てに襲われながら生きていくんだ。かわいそうに。君は拒絶し続けて、苦しみ続けて、やがて死んでいく。最期の時まで心の休まることはない。最後の部分で君は壁を作ったまま、生きていく。時折降り掛かってくる愛情に怯えながらな。どうだ?生きる気力とやらは湧いてきたか?」
言葉が出ない。母が死ぬ時の鮮烈な映像がエンドレスで回り続ける。気持ち、悪い。
指が、口から離れていく。
「虎君、俺は君を“愛している”よ。」
あざけるように笑って。
「見ていてとても面白いからな……愚かで。」
背筋の凍るような微笑を残して、彼は、去っていった。
自分を支える力も出なくて、その場に倒れ伏す。運良く、自分の胃液にまみれることはなかった。
何も考えることが出来ない。ああ、俺、このまま死んじゃえばいいのに。
そんなことを思った。


学生組を泣かせるの楽しいです。ええそうですよSですよ。

2010/09/14:ソヨゴ
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