試験勉強に飽きて、俺は机に突っ伏した。右頬を下にして、窓の外を見やる。
シルバーグレイの空。真黒な電線が緩やかな曲線を描く。その上に、数羽の鳥がとまっていた。遠いせいか逆光だからか鳥の種類は不確かだ。多分、カラスだと思うけど。
中学三年の秋。そろそろ、高校受験。
余裕っちゃ余裕だ。この前の模試では、第一志望校の合格率は85%。安全校に入っていた。
かといって、勉強以外にすることもない。この前合コンに誘われたが断った。ああいう生温くてチャラチャラしたなれ合いは、苦手だ。
俺、何になりたいんだろう。
いっそ清々しいまでに、俺にはやりたいことがなかった。医者?面倒くさい。学者?面倒くさい。野球選手?面倒くさい。何にだって、なろうと思えばなる自信はあるが、どれもなりたいわけじゃない。
理由は分かっていた。俺が何をしたところで、俺は世界に受け入れてもらえないってことを____知っていたから。
努力すれば努力するほど、空しい。いくら自分が精一杯生きても俺は場違いのまま。それでやる気を出せという方が無理な話だろう。
窓からふいと目を反らす。と、机の写真が目に留まった。家族全員で写ってる写真だ。俺の隣りで無邪気に笑っているのは、八才下の弟。
悠。口だけを動かす。ゆ、う。もう一度。ああ俺ヒマなんだな。
悠か。素直で優しい俺の弟。俺と違って、アイツは世界に祝福されてる。
「____うらやましいなぁ。」
つぶやいて、イスから降りる。頭の後ろで手を組んでそのまま床に寝っ転がった。薄い水色のカーペットは、少し毛玉が目立ち始めてる。もう少しひどくなったら取ろう、と俺は思った。
真っ白な天井には、二つだけ茶色いシミがある。蛍光灯の右斜め上。カマボコ状のものと黒豆状のもの。黒豆の方が二周りほど大きい。
悠は本当に俺の弟なんだろうか。アイツは、そう思わせる程度には優しいヤツだ。遺伝子というのはアテにならないな、俺も悠も同じ親から産まれたってのに……こうも性根に違いがあるとは。俺はアイツの素直さが羨ましい、優しさが羨ましい。自分がここにいる理由など、考えずにすむその境遇も。
と言っても、悠は普通にかわいい弟だ。こんな俺でも慕ってくれるし(もっとも、大概の人物は俺の本性なんて見抜いちゃいないが)、俺は悠に救われた。何度も。きっと気付いてはいないけど。
妬ましいし羨ましいが、悠は大事な弟だ。俺に出来ないことを、悠ならきっとやれるのだろう。俺でも、悠がいてくれれば____少しくらい、世界と関われるんじゃないかなんて、思ったりもして。
ダメダメだな、俺。
成績優秀とか女子にモテるとか、そんなことは全然意味のないことで、俺はただ普通の生活を送りたいだけだ。ずっと疎外感を抱えたまま、俺は生きて、死んでいく。何のために俺はここに産まれたんだろう。俺、何か悪いことでもしたのか。神様、あんたの手違いじゃないのかよ。
いっそのこと今ここで、首でも吊れば楽になるかな___死んだところで、行くアテないけど。
自虐的な気分になった。時間を無駄にしてる事実に耐えきれなくて、起き上がって首を振った。無気力というのは、気力が“無”いのではなくて、“無気力”というカタマリが身体中を満たしているのだと俺は思う。押しつぶされてしまうのだ。
あぐらをかき、頬杖を付く。本でも読もうか、そう思い始めた時だった。
ドアが、ノックされる。
「? どうぞ。」
声をかけると、小刻みにドアが開いた。
「あれっ、悠?」
お盆にお菓子とココアをのせて、悠はにっこり笑った。
「兄ちゃん、何してるの?」
「今、休憩中。差し入れもってきてくれたのか?」
「うん!柳兄ちゃん、疲れてるでしょ?」
甘いものは疲れを取るんだよって、お母さんが言ってたから。言うと、悠は俺の前にお盆を置いて正座した。実は俺は甘いものが苦手なのだが、言わないでおく。
「ありがとな、悠。こっち来るか?」
ぽんぽん、とひざを叩いて示す。明るく笑って悠は俺の上に座った。
「お勉強ってやっぱり大変?」
「んー、そうでもないけど…ずっとやってると、やっぱ疲れるな。」
「そっかぁ。じゃあさぁ兄ちゃん、家の中でも学ラン着るのやめれば?」
楽な格好すればいいじゃん。言われて、戸惑う。部屋着なんて一着も持っていない。悪くすると、学校指定のジャージで一日過ごす羽目になる。
「あー、えーっと………いいんだよ、俺はこの格好が楽だから。」
「えーっ?ウソだあ。」
「ほ、本当本当。」
……無理があるな。今度二着ぐらいTシャツ買ってこよう。金あったかなあ、今月。
思わぬ出費に少し気分が暗くなる。バイトできる年齢でもないしな。
悠は手を伸ばして、ポテトチップスを取ってくれた。受け取りつつ、思う。
世界に愛されたから優しくなれたのか、優しいから世界に愛されたのか。俺は前者が正しいと思う。初めに愛が無ければ、愛を配れるはずも無い。では、悠と俺の違いは何だ?
両親は俺も悠も平等に愛してくれた。貰った愛の量は、同じなはずなんだけどな。
「………どうしたの、柳兄ちゃん。」
悠が、俺の顔を見上げて言った。
「何か、さびしそう。」
「___さびしそう?」
「うん。すごく。」
そうか、俺今、さびしいのか。
「ずっと1人で勉強してたから、かな。だからもう少し、一緒にいてくれよ。」
ぎゅー、と、後ろからふざけて抱きつき、誤摩化した。さびしい。さびしい。
___さびしい。
その時、悠は嬉しそうに言った。

「兄ちゃんが一緒に居たいなら、俺、ずーっと兄ちゃんといるよ?」

心臓に、木の杭が打ち込まれたような、感じだった。
だめだ。俺は悠を、閉じ込めてしまう。
「____悠。」
「なぁに?」
「兄ちゃん、やらなきゃいけないこと思い出しちった。それが終わったら、遊ぼうぜ。」
「? 分かった!じゃあ俺いくね。」
悠は無邪気に笑って部屋を出た。
がちゃ、と扉が閉まった。もう出られない、そんな風に感じる。
後方に重心をかけてのけぞって、頭をベッドの上に落とす。ぼす、と重みに見合った音がした。
目眩がする。暗闇が覆い被さってくる。
俺は悠を通じてしか、世界に受け入れてはもらえないのだろう。俺は悠と一緒にいなければ、疎外され続けていくのだろう。
それは、依存だ。俺は悠に依存している。
そして悠もまた、俺から離れはしないのだろう。
悠はどうしようもなく優しい。俺が必要とする限り、俺の側に居てくれる。依存は依存を呼ぶ。俺が悠を閉じ込めてしまう。
圧倒的な絶望。
気付いてしまった。気付きたくなくて、でも気付かなきゃならなかったことに、今、ようやく。
俺は、悠と一緒にいてはいけない。
悠を閉じ込めたくなければ、俺が閉じこもるしかないじゃないか。
悠まで“こっち”に来てはいけないんだ。俺はどうあがいてもここから抜け出せはしないから。拒絶も祝福もされてない俺は、ずっと世界に無視され続ける。
突き飛ばして、遠ざけて、一人きりにならなければ。俺は悠と関わっちゃだめだ。
_____そう、悠と関わっちゃ駄目なんだ。
鍵がかけられた音がした。無論幻聴だが、現実と変わりない。
「……とりあえず、悠から離れないと、な。」
傷付けないように、追ってこないように。ゆるやかに、はっきりと。出来るだろ?俺はそんなことばかりしてきたんだ。
「___そうだよ。」
俺はこんなことばかりしてきた_____嫌いな相手に対してなら、いくらでも。
離れたくない。
家族でいたい。
たった一人の、弟なのに。
「はは……何?何泣いてんの?俺。」
泣いてもどうにもならないじゃないか。たった今から、俺は、一人だ。
さようなら、悠。
もう二度と会うことの無いように。


「予想外だったけどな……“独りきりではなかった”ことは。」
疎外されたのは、俺だけじゃなかったということ。
俺と“同じ”人達。俺はそういう奴らを捜してる。
「バイバイ、悠。」
俺は俺で元気にやってるよ。
お前と一緒にいられないのは、少し、さびしいけれど。

Good bye,brother.

BGMは「私生活」「落日」「タユタ」「バイ・マイ・サイ」「embrace」。
どれも聴いて欲しいです。「落日」は特に、柳兄ちゃんの心境に近いから。

2010/09/19:ソヨゴ
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