懐から小瓶を取り出し、柳の前でちらちらと振る。柳はその澄んだガラス玉の瞳に、揺らめく液体を映した。
「旦那、それは何でありんすか?」

まやかしの中で

「薬だよ。商人がな、商いがてらにおいていったもんだ。」
教えつつ、商人の言葉を思い出す。 真日殿、淫蕩がお好きと聞きましたぞ。雪月太夫にぞっこんだそうで。
ぜひお使いになってください____きっと、面白い事になりますよ。
瓶の蓋を回して取り、人差し指を中へ突っ込む。抜き出すと、わずかに粘り気を持った液体が指にまとわりついた。
「舐めてみろ」
指を柳の唇に置く。柳は先端からゆっくりと俺の指を口の中に入れ、舐め回した。女のように柔い湿った唇。それより幾分温度の高い舌が、唾液の膜を滑らせるみたく薬を舐めとっていく。欲情する。
するり。 唇が離れた。
「味はどうだ?」
「甘くて、苦くて……嫌ぁな味でござりんす。」
そうか、では、飲んでみろ。
柳は戸惑いを表情に浮かべた。でも、何の薬かも分かりませぬのに。
「お前は遊女だぞ?拒否など出来ると思うのか。」
うなじを掴んで引き寄せる。ん、と柳は軽く喘いで俺を見上げた。
「せめて、何の薬か教えて下しゃんせ」
「飲めば分かるさ。ほれ、」
小瓶を少しだけ傾ける。柳は諦めたように嘆息すると、目を閉じて口を開いた。瓶の口を柳の唇に当てて、傾かせる。液体が流れ込んでいく。柳の白い首筋がこくりこくりと規則的に動く。惚れ惚れするほど艶やかだ。
飲み干すと、柳は唇を舐めた。 んぅ、甘苦い。
「少し眠れ。寝て起きたら、薬の効き目が出てくるだろうよ。」
くら、くら。柳は俺の胸に頭を預けた。まどろんでいる。眠り薬の効能もあると言っていたが、どうやら本当だったらしい。
気がつくと柳は寝息を立てていた。起こさぬようにそっと床に寝かせ、帯を解く。白い肌が露になる。
美しいな。 呟いて、俺はその肌に舌を這わせた。


疼くような心地がして目が覚めた。挿れられている。眠っている相手を犯すとは……真、鬼の呼び名にふさわしい。
旦那、苦しいざんす。少し緩めて下しゃんせ。
言おうとして目を開いた、その時。鳥肌が立った。
わっちを犯していたのは、旦那ではなかった。旦那でもなく、人間ですらない。
化け物。
悲鳴がつまる。恐ろしすぎて声にならない。着ている服も、その腕も、脚も、旦那のものには違いないのに。その手が指が、顔が、旦那ではない。おぞましい化け物なのだ。
右手の指は太い蚯蚓であった。左手の指は蜘蛛の足。顔は、これは、何であろうか。獣だ、表情のない顔。口元だけが旦那のもので。黒々とした、赤々とした、おぞましい塊。怖い。
ようやく声がでかかった。悲鳴を上げかけたその口を、蜘蛛の足が塞ぐ。毛羽立ったその足の質感に恐怖を抱いて怯えるわっちに、化け物は顔を近づけた。
血の、匂いがする。避けようとしてもがくわっちに、“ソレ”は愉しげに声をかけた。
「その怯えよう、薬の効き目が出ているようだな」
旦那の、声。 蜘蛛の足が離れる。
「あ……旦那、旦那は、どこ」
「俺だよ、柳。真日だ。」
「嘘、嘘だ……化け物、化け物、」
「俺は何も変わっちゃいない。 お前がおかしくなっただけだ、柳。」
戸惑う。“ソレ”は口元を歪めると、歌うように言葉を紡いだ。
「さっきお前に飲ませた薬は……まやかしが見えてしまうものなのだそうだ。実際とは違う、幻が。」
「まぼ……ろし……?」
「あぁ。安心しろ、お前の目にはおぞましく映るだろうが、俺はどこもおかしくなってない。俺は、俺のままだ。」
では、わっちは___狂ってしもうたのでありんすか?
「そう。一時の間、だけれどな。」
泣き出しそうになる。 狂ってしもうた?おかしくなった?それに幻だとしても、これは、この化け物は、割り切るなどできっこない。
「うぁ、あぁぁ、あぁ」
「恐ろしいか?柳。」
両の手首を、旦那の両手が押さえつけてきた。左の手首に何匹もの蚯蚓が巻き付いてくる。皮膚の上で、ぬめり気を持った蚯蚓の群れが蠢いている。気味が悪い。右の手首では蜘蛛の足が不規則に踊ってわっちを怯えさせた。手が引きつるように痙攣する。旦那の顔が近付いてくる。化け物。獣、嫌だ、怖い、嫌。
「ひ、あ、来ないで、ぁ」
「はは、恐ろしいか。怖いか。」
「あ、ああ、あああ、いや、や、めて、」
「もっと怯えろ。もっと怖がれ。 その顔がたまらなく、愛おしいんだ。」
体の震えが止まらない。恐怖も嫌悪も止む事はなく、心も体も拒否している。旦那に触れられる事、それ自体を。
旦那が唇をぺろりと舐めた。その舌は、蛞蝓に化けていて。
「ひっ、や、蛞蝓、」
「蛞蝓? ほう、俺の舌か。俺の舌が、蛞蝓に見えたのか?」
何度も何度もうなずいた。旦那はわざと舌を見せながら、近付いてくる。首を振る。拒否をする。無駄な事とは分かっていても。
強引に唇を合わされた。絡んでくる舌、蛞蝓そのもの。生暖かい奇妙な温度、そのぬめり、何もかもが気持ち悪くて。悲鳴は閉ざされて消え失せる。暴れる脚は、上に乗られているがゆえ意味をなさず、押し戻したくとも、両の手首が捉えられていて身動きできない。思い出した。わっちは所詮、籠の中の鳥であった。抵抗など許されていない。されるがまま、怯えることしか、わっちにはできやしないのだ。
犯されていると同時に、侵されているのだと思った。穢されていくような気がする。穢れ?今さらわっちのような存在に、穢れもなにもあるものか。汚されようが穢されようが、わっちには何も出来ない。泣いても喚いても犯される事しか出来ない。何をされても良い存在なのだ、わっちは。知っている。わっちは金で買われたただの、遊び道具。
「んっ、ふ、んんん、んぅ」
両手が頭上で纏められた。旦那は自由になった右手で、わっちの体をまさぐっていく。身体中を蚯蚓に這われて、気が変になりそうだった。脇腹、へそ、胸、顔、唇、太もも、ふくらはぎ、足の甲、脇、腕。身体中のどこをとっても、蚯蚓が這い回らなかった箇所など、ないように思う。今言わなかった部分にも蚯蚓はまとわりついてきて、その感触でわっちは一度果てさせられた。そのままわっちが気を失うと、旦那は頬を張って、わっちの目を覚まさせた。
「おい、気を失って良いなど、言っとらんぞ。」
指が、口の中に突っ込まれる。んぁ、ふぁ、喘ぎにも似た吐息が漏れる。涙がぽろぽろと溢れ出す。蚯蚓に好き勝手口の中を蹂躙されて、わっちはどうしてこんな目に遭っているのだろう、見えているものが幻とて、感じるものがまやかしとて、この恐怖は幻でない。この嫌悪もまやかしでない。人でないのは、わっちの方か?売られたその瞬間から、人ではなくて玩具であるか。
ならば、化け物の方がましではないか。
「苦しそうな目をしているな。苦しいか?やめて欲しいか?」
「………わっち、は、」
「どうした?」
首筋を蛞蝓が這う。その感触で壊れてしまいそうになりながら、わっちは言葉を続けた。
「いくら苦しゅうても、いくら怖がっても、泣いても、喚いても、暴れても、世話がありんせん。」
「?」
「だって旦那は、やめて下さる事などないでありんす。____やめて下さった事など、ただの一度もありんせん。」
そして、やめて欲しいと願う権利も。わっちには、ないでありんしょ。
何もかも、全てどうでも良くなっていく。堕落はこうして始まるのだろう。好きに穢せばいい、わっちはどうせ、誰にも頓着されないのだから。誰も守ってはくれないのだから。人ではなくて玩具であるなら、汚され壊され捨てられるがおち。それでいい。最初からそうであったのだ。
「____そうか。」
旦那は少し寂しげに言って、わっちの中から抜け出た。
「柳、」
抱き起こされる。そのまま頭を掴まれて、旦那の腰まで運ばれた。いつも飲まされる白い液体は、やはり、おぞましいものに化けていて。
「あぁ………蛆虫。」
「蛆虫?」
「いえ、」
お気にしなさんな。何でも、ありんせん。
口を開いて、それをくわえる。くちゅくちゅと、唾液が音を立てるのも気にせず、無心でしゃぶり続けた。数匹の蛆虫が、口の中で蠢いていたが、気にはならない。もういいのだ。もう、どうでも。
「っ、柳」
「…んく……ん………なんで、ありんすか」
「そろそろ果てちまいそうだ。飲めるか?」
蛆虫に見えるのだろう。旦那は、言う。感触も、感覚も、見えた通りになっていると聞く。蛆虫の群れなど、飲めるのか?
「___旦那は、」
「何だ?」
「旦那は飲めと、言うのでありんしょ。」
薄く笑って、またしゃぶり始める。 旦那の焦った声が聞こえた。 柳、どうした?おかしくなったか?
「おかしくなど、なっておりんせん。旦那は、飲んで欲しいのでありんしょ?」
「いや、だが、さっきまでお前あんなに怯えて、」
「もう、いいのでありんす。わっちなど最初から、ただの玩具に過ぎんせん。」
もういい、やめろ。旦那が言った。柳、もういい。飲んだりせんで、いい。
わっちがしゃぶるのをやめずにいると、旦那は髪を掴んで顔を上げさせようとした。その瞬間に、旦那は果ててしまったのだけれど。
中途半端に顔を上げられていたせいで、蛆虫の群れは口の中と顔に飛び散った。ごくり、飲み込む。小さな小さな蛆虫が何百と喉を這い落ちて、中に入っていく。苦い。
起き上がり、顔についた蛆虫を取って、舐める。何度も何度も、いなくなるまで。旦那は荒い息をついていたけれど、すぐにわっちに気付いて手首を掴んだ。
「柳! 何だ、どうしたんだ。そんなに恐かったのか?苦しかったのか?壊れちまったか?なぁ、柳、」
「離して下しゃんせ。まだ、まだ蛆虫が、いっぱい、」
分かった、取る、取ってやるから。旦那は泣きそうになりながら、言った。やめてくれ。そんな目で、もう、やめてくれ。
そこで気付く。旦那の顔も、指も。 人間のそれに戻っている。
でも蛆虫だけは、蛆虫のままだ。薬の効き目が、まだ少し残っているのだろう。
「取るって、どうやって?」
「どうやって、って……布地があるから、それで拭こうか」
いいえ、 わっちは言った。 もったいのうござんす、旦那のもので拭くなどと。わっちが自分で舐めとりんす。
旦那の手を振りほどき、指を顔に乗せ、一匹一匹、舐めとっていく。もう少しで皆、いなくなる。
「柳………悪かった。そんなに苦しむなどと、思っとらんかったんだ。」
抱きしめられた。苦しいくらい。旦那、苦しい。わっちの言葉でなぜか、旦那はさらに力を強めた。
「旦那、ほら、もうありんせん。蛆虫は皆、消えちまいました。」
「柳!!」
「旦那、次は何をすればよろしゅうて?旦那のおっしゃる事なら何でも、いたしんす。わっちは遊女でありんす、おもちゃでありんす、だから何をしてもいいのでありんすよ。何をされてもわっちは仕様がないのでありんす。旦那はわっちを買ったのだから、だから何をしてもいいんでありんすよ。」
ふふ、ふふふ。笑みが零れる。何故かは分からぬが、おかしゅうてたまらん。
逃げられず、抗えず、ならば壊れてしまうしかあるまい。今のわっちはなぁんにも、怖くない。何だって出来る、ここから逃げる事以外なら。どうせ出れぬのだ、叫んだところで甲斐もない。
「旦那、薬の効き目、きっと切れちまいました。まだあるのなら飲みんすよ。もう怖くありんせん。」
「っ、いいんだ、そんなことしなくて」
「ああ、怖がらなければ面白うありんせんね。ああでも今のわっちでは、怯えられん気がしんす。おかしゅうてたまらない、ねぇ旦那、好きに汚していいんでありんすよ?何故なぁにもしないでありんす?」
「悪かった。済まなかった。だから元に戻ってくれ、許してくれ、柳、済まない、」
「旦那が謝る事なぞありんせん、」
「済まなかった、済まなかった、柳。」
旦那は、泣いていた。どうして?もうつらくないでありんすよ、旦那。もう苦しくも何ともないでありんす。ただ、心が空っぽなだけ。
何をしてもいいと言っているのに。何故泣くのでありんすか?旦那、もう飽きちまいましたか?
「旦那、わっちで遊ぶのに、もう飽きちまいましたか?」
「そんな訳がない。いや、柳、俺は、」
「なら何故泣くのでありんす?」
愛している。
旦那はそう、言った。
「わっちも旦那を、愛しておりんす。」
「嘘を吐くなよ。そうじゃない。女郎の嘘はもう聞き飽きたぞ、柳。」
俺は本当に愛しているんだ。旦那は強く、強く、言う。
「お前を心底愛してる、ぞっこん惚れてる、だから、お前の全部が見たいし全部が欲しい。でも今のお前は、お前でない。壊れてしまって空っぽだ、空虚だ、なぁ柳、俺は本当に愛してるんだ。お前の事を、愛している。玩具だなどと思った事はない。」
玩具だなどと、思った事は、ない?
「憎い嘘をお吐きになる。いつも言うではありんせんか、『お前は遊女だ、逆らうなよ』と。」
「お前なら分かっていると思うていた。言葉の上での遊びに過ぎぬではないか、本心で言うとる訳ではない。」
「でも、だって、旦那」
「玩具に惚れる阿呆が居るか、たわけ者。」
その言葉は、嬉しかった。それゆえ余計に信じがたい。愛している、など、遊女がもっとも信じてはならぬ言葉ではないか。
「なら、玩具ではないとおっしゃるなら、あの仕打ちは何でありんすか? 玩具と思うていなければ、あのような事、出来る訳がない。」
そうだ、そうに違いない。わっちは確かめるように呟いた。いつもいつも旦那はわっちに手酷い事をするではないか、愛されているはずがない、都合のいい玩具に過ぎまい、そうでなければあのような事、人であったら出来る訳がない。
「_____鬼、なのではなかったか?俺は。」
柳、俺は人間ではなかろう。
旦那は低い声で言い、わっちから少し離れて、わっちの顔をじっと見つめた。
「愛しているがゆえ、痛めつけてしまいたくなる。独り占めしたいのだお前を。けれどもそうはいかぬのだろう、だからせめてと思うのだ、柳。他の誰も知らぬようなお前の姿を見たいと、思うのだ、その姿だけでも俺のものにしたいと、思うのだ、柳。」
「っ、旦那、冗談はその程度に、」
「本気と言うておるだろう、たわけ!!!」
怒鳴り声に身が竦む。 旦那は殺気立ったまま続ける。
「分からぬようならこの場で殺すぞ、そして俺も一緒に死んでやろう、そこまですれば分かるのか?お前は。お前は嘘をつくのも見抜くのも得意だ、だがなぁ柳、本当の事を信じる事が出来ないのでは、その智恵は意味がない。」
「だ、だって、だって、」
わっちは両手で顔を覆った。涙が溢れて止まらない。だって、わっちは金で買われて、犯されて、遊ばれるただの商い道具で、だからこんな目に遭っているのだと。旦那だけではない、他の誰に犯されたとてわっちは玩具であるから仕方がないのだと、思わねば生きてゆけない。愛しているなど、言わんで欲しい。信じてもし、やはりまやかしに過ぎなかったら、わっちは今度こそわっちでなくなるのであろう。たとえ真であったとて、あくまで自分は人間なのだと思ってしまえば耐えられなくなる。壊れる。崩れる。それで良いのですか、それで良いのなら、縋りたい、その言葉に縋りたい。
「わっちとて、わっちとて、旦那を愛しておりんすよ。嘘でなく、偽りでなく、遊女のまやかしでもなく。さりとて旦那、旦那を信じてしまえばわっちは、」
柳。俺が、お前を守ろう。お前が壊れぬように。
それならば文句はあるまい? 旦那は、そう言ってわっちに微笑みかけた。
信じてはならぬと、わっちの頭が訴えている。信じたい、と、わっちの心が悲痛に叫ぶ。どうすればよいか分からない。売られたわっちが、玩具のわっちが、救われるなど本当にあるのだろうか。
けれど。このまま、暗闇に居続けるよりは。
「______旦那、」
唇を奪う。求めるように舌を伸ばす。旦那はいつもより優しく、けれど激しく舌を絡ませた。
唇を、離す。 唾液が糸を引く、落ちる。
「旦那、旦那。愛しておりんす、愛して、」
「分かってる。 なあ、もうその里言葉、やめろよ。」
“お前”が欲しいと言ったろ。 旦那は言った。
「でも、」
「でも、じゃねえよ。俺が欲しいのは、雪月太夫ではない。“お前”だ、柳。」
ぐ、と息をのむ。覚悟を決めて、俺は言葉を返した。
「本当に……………“俺”が、欲しいのか?」
「何を今更。」
当たり前のことを、言わすなよ?
そう言って、ミサワは、笑った。

蚯蚓=ミミズ 蛞蝓=なめくじ
蛆虫は分かりますよね。うじむし。
2010/11/20:ソヨゴ


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