それは雨の日のことだった。

Rainy blueに甘えて。

 キッチンで晩飯を作っていた俺の耳は微かなチャイムの音を捉えた。俺は火を止め、インターホンをとる。
「はい、どちら様 ?」
『ミサワか?』
「柳?」
 声に覇気がない。漠然とした不安を抱きつつ、俺は中に入れよと、促した。


「っ、おい!!」
 戸口に立っていた柳は、思いっきり濡れていた。このどしゃ降りの中傘もささずに出てきたらしい。
 何があった?
 腕を掴み、玄関に引き入れる。柳はされるがまま引っ張られて歩を進めた。 扉を閉める。
「何やってんだよびしょぬれじゃねぇか!! 傘は?」
「持ってきてない」
「何で、____とにかく、風呂入れ。風邪引くぞ。」
 服は貸してやっから。 俺の言葉に、柳は力なくうなずいた。


 シャワーを浴びる。冷えきった体が急激に温まる。こそばゆい。 そのうち風呂、湧くと思う。 美澤はそう言ったけれど、俺は湯につかるつもりはなかった。ぶるっ、と一回震えてから、俺は石鹸を手に取った。


 晩飯がそろそろ出来上がりそうだ。エプロンについた野菜の切れ端を払う。スープを一口飲む。ん、いい感じ。
 火と換気扇を止めると、シャワーの音が聞こえてきた。アイツ今風呂入ってんだよなぁ。軽く想像すると、ちょっとだけムラッときた。けれどもそんなこと、言っていい状況でもないか。
 ドアの開く音、閉まる音。換気扇が回る音。体を拭く物音。服を着る物音。 間もなくして、柳はリビングにやって来た。
「………柳、髪。」
 水気を取る程度のことしかしていないだろうその髪からは、ぽたぽたと雫が落ちていて。柳の肩がどんどん濡れていく。 ったく、何だってんだよ。
「ほら、髪拭け」
 タオルを柔く動かして、荒れないように優しく柳の髪を拭く。柳はしばらく俯いたままされるがままにしていたが、やがて一言、ありがとうと言った。
「大分乾いたぜ。……なぁ、」
 どうした? 聞いてみる。 答えない。
「____今日、泊まってくか?」
「あぁ。」
 やけにはっきりと肯定を示した。 怖いな、不安になる。
 飯が炊きあがるまでにはまだ時間があった。俺はテレビの前に腰を下ろし、傍らのリモコンをとる。正面の電子機器はにぎやかな音を出し始めた。柳は黙り込んだまま俺の隣りにあぐらをかく。俺が脚を投げ出してリモコンをいじっていると、柳はおもむろに、俺の手からリモコンを奪った。
 リモコンを持ったまま俺の上に乗る。リモコンをそっと床に置くと、柳は俺の肩をゆっくりと、押した。肘をつく。
「柳?」
 柳は黙りこくったまま、俺の首筋にキスをした。求めるみたく、柔く、何度も。お次は唇に移動して、顔を掴んで舌を絡める。コイツが自分から誘うなんて滅多にないことだ。
「おい、柳。」
 ぐい、と柳の身体を押し戻す。柳は少し、名残惜しそうな顔をした。俺だって名残惜しい。ぶっちゃけ誘ってきてくれて嬉しかったし、正直な話ゾクゾクした。けれど、このままではだめだ。様子がおかしい。
「どうしたんだよ。お前いつも、誘ってきたりしないじゃん。」
「俺が誘っちゃ、だめなのか?」
「だめってわけじゃ、ねーけど。」
 またキスしようとしてきたので、手で軽く受け止める。んぱ、と唇をはなすと、柳は泣き出しそうな顔で言った。 何で?だめじゃないんだろ、何で?
「あのさぁ柳、今日お前なんか変だよ、」
「なぁ、美澤。」
 あ。 発音。
「ぐちゃぐちゃにしてくれよ、俺のこと。」
「え?」
 柳は俺の首元に顔を埋めて、何度も何度も繰り返した。お願い、ぐちゃぐちゃにしてくれ、めちゃめちゃにしてくれ、何も考えたくないんだ、ねぇ、ひどくしろよ、いつもみたいに、いつも以上に。お願い。
「____イヤだね。」
「どうして?」
 声が切ない。柳はその、痛々しい声で続けた。 いつもぐちゃぐちゃにするだろ、泣いても何してもやめないだろ、何で? してほしいときに、どうして、してくれないんだよ?
「ヤるのは別にいいよ、でも今日はひどくしねーぞ。めっためたに甘やかしてやる」
「何で、何も考えたくないって、言ってるのに。」
「だからだよ。 何かあったんだろ?苦しいんだろ?苦しんでんのにわざと、なんて、俺はしたくねぇよ。」
 苦しい時、傷ついた時、わざとさらに痛めつけて、麻痺させて、楽になろうなんて。 そんな方法しかお前、知らないの? 知らないんだろ、分かってる。じゃあ他のやり方教えてやるよ、甘えてもいいんだってことを。
「話してくんない? ………何があった?」
 俺が柳の髪に手を通しながら呟くと、柳はうなだれて、話し始めた。
「悠が何か、悩んでるみたい、だったから____」


「悠。」
 悠の部屋に入り、声をかける。
「……兄さん。」
「どうかしたのか?」
 尋ねると、悠は黙って首を横に振った。 何でもないよ、兄さん。
「悩んでることがあるなら、言ってみてくれないか?」
「____平気だよ、なんでもない。だから今はほっといて、ごめん。」
 その言葉に少しだけ、胸が痛む。 何か嫌なことでもあったんだろうか。
「悠、俺はお前に、つらいと思って欲しくはないんだ。」
 苦しいときは頼ってくれないか?俺はお前の、兄貴なんだから。
 そう言って、肩に手を置いた。 大好きな弟が苦しまないように、慰めてやれればと、思いながら。
 でも、
「____てよ、」
「え?」
「ほっといてよって、言ってるじゃんか!!」
 手が払いのけられる。呆然としている俺に、悠は畳み掛けるように言った。
「何でよ、何で分かってくんないワケ!?一人にして欲しいのに、何で構ってくるんだよっ!!大体さぁ兄貴だなんて、今までずっと俺に冷たくしてきて、俺がどんなに悩んでても苦しんでても全部無視してきてたくせに、俺が助けて欲しいときだって全部無視してきたくせに、何ソレ、身勝手なんじゃないの? 今さら____」

「今さら、兄貴面なんてしないでよっ!」

 胸が締め付けられるように痛んだ。泣き出したいと思ったが、悠の前で泣いてはいけないと考え直して、堪える。
「あ、____ち、違う、違うの兄さん、俺こんなこと言いたかったワケじゃ、」
 悠はハッとしたように俺の両腕を掴んだ。縋るように。俺はゆっくりと、その手を解く。
「ごめんな、悠。そうだよな。今まで散々冷たくしておいてこんなの………虫が、良すぎるよな。」
「ちがっ、兄さん!!」
「一人になりたいときだって、あるよな。ごめん。 出て行くよ。」
 待って!!
 扉を閉める直前に、声が聞こえた。構わずそのままドアを閉める。だめだ、泣きそうだ、でも泣いたらいけない、泣いたら悠は優しいから、きっと自分を責めてしまう。
 堪えきれる自信がなかった。廊下を駆け抜け階段を下り、外へ飛び出す。傘をさすとかささないとか、考えている余裕はなかった。逃げるように走り続けて気がついたら、ミサワの家の前にいた。


「分かってる……分かって、るんだ。俺の自業自得。今まで散々冷たくしてきたのは、俺、だから……だから、でも、」
 柳は俺に抱きついて泣いた。俺は黙って、柳の頭を撫でる。
「悠は悪くない、悪いのは、俺、で………今さら、兄みたいに振る舞うなんて、身勝手で、………正しいのに、それが、つらくて、」
「____お前だって悪くねえよ。」
「うぁっ……う、違う、悪いのは、俺だ。」
 違わねえよ。俺はあやすように、呟く。
「好きで冷たくしてた訳じゃねえだろ、お前は。本当は助けたかったし、力になりたかったし、苦しんでるの見んのも、つらかったんだろ。お前、悠くんのこと大好きだもんな。」
「あっ、……う、ふぁ、ぁ、」
「でも関わっちゃだめだって思ってたから、何も出来なかったんだろ。苦しかったんじゃないの?お前だって。そりゃあ確かにそれはお前の勘違いだった訳だし、悠くんが言いたくなるのも、分からないでもないけどさ。」
「だ、だから、俺、が」
「でも、だよ。悠くんのために苦しんでたのにさ、それ、悠くんだって知ってんだからさ。____『兄貴面しないで』は、ちょっとひどいよ。」
 う、う、うぁ、あぁぁ。 柳は俺に強く抱きついて、声を上げて泣き始めた。違う、ちがくて、悪いのは俺なんだ、悠が悪いワケじゃ、でも、苦しい、好きなのに、好き、だけど、それは悠にとっては、迷惑だったんだろうか、ふざけんなって言われても、仕様がないことだよな、勝手に冷たくして、勝手に優しくして、そんなの、わがままだ、虫が良すぎる、ごめんなさい、ごめんなさい、どうすればいい、どうすればいい?美澤。
「ごめっ、ごめん、泣いてもしょうがないのに、俺が悪いのに、泣かれたってそんな、の、困るよな、ごめん、」
「泣いていいって。傷ついて当たり前だよ、あんなこと言われたら。 ____一応言っとくけど、悠くんはお前のこと、大好きだと思うぜ。」
「___分かってる。それは、分かってる。」
 俺が嫌いだから、だから傷付けようとして言った言葉ではない、と、柳は言った。 だから余計に苦しいと。
「あ、う、くぁ、ぁ、待って、泣き、やむから。少しだけ待って、」
「いいって、好きなだけ泣けよ。いつも我慢しすぎ、お前。つらい時ぐらい泣けばいいだろ。」
「でも、ミサワ」
「俺には甘えていいからさ。俺には縋っていいからさ。お前が守らなくちゃなんないのは、悠くんだけだろ。俺の前では、泣けばいいじゃん。」
 柳の身体を押し倒し、泣き続ける柳にキスをする。普段より緩んだ、声。
「…………甘やかしてやるからさ。だから、甘えてこいよ。」
「___ん。」
 もう一度キスをすると、柳は黙って目を閉じた。今だったら、俺は柳に何でも出来るんだろうな、と思う。何の抵抗も感じない。でも俺は今は、ひどくしたいとは思わない。麻痺する以外の逃げ方を教えてやらなきゃだめだ。してやりたいとも思ってる。俺は柳が好きなんだから。
 そして。柳が愛しいと思うと同時に、並行して、裏側で_______怒りも覚えた。もちろん柳に対してではなく、“彼”に、対して。


 チャイムの音が再び響いた。眠っていた柳が、目を覚ます。
「ん………」
「寝てろ、柳。」
 インターホンをとる。 ____やっと来たか。
「誰?」
「………宅配便だよ。ちょっと、受け取ってくる。」
 俺は柳に笑いかけて、彼をリビングに残し玄関へ向かった。 扉を開ける。
「おー悠くん。どうしたの、こんな雨の中。 ………濡れてるよ?」
「あ、あのっ、えっと、」
 悠くんは息を整えた。吐く息が白い。傘は手に持っている。走ってきたから、濡れているだけだ。
「兄さん、きてませんか?」
 はなから教えてやる気はない。 俺は何食わぬ顔で嘘をついた。
「柳? 何で?家にいねえの?」
「あの……俺、その、ちょっと嫌なことがあって、すごく、イライラしてて。」
 兄さんが、気付いてくれて。 悠くんは下を向き、続ける。
「それで、相談してみろって、言って、くれたのに、俺………心にもないこと言っちゃって、謝りたくて、」
「“心ないこと”の間違いじゃなくて?」
「へ?」
 顔を上げた悠くんは、その瞬間に怖じ気づいた。 今どんな目してんのかな、俺。
「悠くんさぁ、柳が君のこと大好きなのは、分かってる?」
「え………あ、はい。分かってます。」
「君に冷たくして、君が苦しんでた時、柳も同じくらい苦しんでたのは知ってるよな?」
「…………はい。」
「あのさぁ、悠くん。」
 君がああ言いたくなった気持ちは、分かる。君は優しいからそんなこと今までおくびにも出さなかったけれど、心のどっかで不満に思っていたのは、うなずける。けどさぁ悠くん、それはなしにしようぜ。思っていたとしても、隠し通せよ。アイツが君以上に自分を責めてしまう人間だって弟の君なら分かってんじゃないの。傷つくに決まってるだろ、責めちまうに決まってるだろ、何であんなこと言ったんだよ、言う必要あったのかよ、君のことが大好きで、君のことが心配でたまらないようなヤツにさぁ、言う言葉なの、あれって。「兄貴面しないでよ」なんて言うくらいなら、君こそ弟ぶって甘えたりすんなよ。だから余計にアイツは、弱音が吐けなくなっちまうんだろ。あの一言でアイツがどんなに傷ついたか君に分かるのかな?身勝手はどっち?虫がいいのはどっち?甘えんなよ、甘えすぎんな、少なくともアイツの不安も苦しみも悲しみも受け止める自信がないってんなら、甘えるな。アイツを苦しめんなら、もう関わらないでくれ。
 言いたいことは山ほどあるし、それを言葉にするのも容易いけれど、言うつもりはない。 悠くん、君が傷ついてしまうことはイコール、アイツが悲しむことになる。だから俺は言わないよ。君のためではなく、柳のために。
「アイツ多分今日は帰らないだろうから、もう探すのやめにしたら?」
「あの、」
「あと………俺は誰であれ、ね。アイツを傷付けるヤツは許さないからね。」
 確信が持てたらしい。悠くんは「はい」とうなずいて、うなだれながら扉を閉めた。ガキ相手に大人げねえよなあ俺も。思いつつ、でもやっぱり許せなかった。
 少しは痛い目見て下さい、悠くん。 声は俺からの君への、ちょっとした罰。
 謝らせてはあげないよ、今日は。
 家で一人で、目一杯自分を責めるといい。普段柳が苦しんでるのと同じくらい、いや、きっとそれは無理だろうけど、とにかく心の底から思い悩んでくれ。そりゃあ君が柳に謝れば、そうすりゃ柳だってきっと君を許すし、君らはまた元に戻れるんだろうし、だからそれが一番いいんだろうけど。けど俺は嫌なんだよ。君だけ何の罰もなく、ちょっと苦しんだだけで仲直りだなんて、ちょっとさ、釣り合わないだろ。アイツぼろぼろ泣いてたんだぜ、ぐちゃぐちゃにしてくれなんて、俺に頼んでくるぐらい、追いつめられてたんだぜ。だからいいだろ、この一晩ぐらい。苦しんだっていいだろ?悠くん。
「随分長かったな、ミサワ。」
 リビングに戻ると、柳は服を着てテレビを見ていた。俺は全部隠して応える。
「いやぁそれがさぁ、手違いがあったらしくてさ。 結局俺ん家に用はなかったみたい。」
「へぇ、災難だったな。」
「まぁなー。 なぁ柳、飯食おうぜ。」
「あぁ。」
 お前の料理、結構美味いんだよな。柳が言う。
「えっお前に褒められると不安になるんだけど」
「どういう意味だよ。 あのなぁ、俺は確かに辛いものには目がないが、その他の味覚は普通なんだぞ?」
 すねたように言うと、柳は席に座った。
「んじゃー安心しとくけどさ。うっし、運ぶか。」
 俺はキッチンまで行って皿に晩飯を盛る。ちらりと柳を見ると、柳は俺に気付いて笑った。早くしろよ、そう言って。
「はいはい、急かすなっての。」
 俺も笑う。 柳、やっぱ俺お前が好きだよ。

 雨はまだ、降っている。でも部屋の中は、心なしか、暖かかった。

いい兄さんの日記念。なのになぜ泣かせたし、私。

2010/11/23:ソヨゴ


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