裏切られたような気がした。
 お門違いと分かっている。裏切られたなんて阿呆らしい、約束をした訳でもないのに。だけど景色はぼやけてしまった。心臓に何か打ち込まれて、重くなって、怖くなって、これは夢だと思いたくなって、喧騒が退いていく、何もかも遠く薄れて、滲んで、剥がれて、浮き足立つ。血の気が引いた脳味噌が真暗な水に浸されて、後に残ったのはただ一つ、鉛のように冷たい感情。
 白く変色するほどに握っていた手を、ゆっくりと開く。その手で×める感覚を、目を閉じて、想像しながら。

楽にしてあげる。

「ねぇ拓斗、何か隠し事してない?」
 しばらく学校を休んでいた。ほとんどなにも飲まず食わずで数日間過ごしていたら、いつものように佐久間が来て。彼は微笑んでこんなことを言った。穏やかで温かい瞳に、ほんのわずか陰を織り交ぜて。
「隠し事?」
「そう。何か、隠してること」
 自然な声だ。普段通りの。なのにどこか違和を感じる。微笑みも声も上っ面、貼り付いてしまっている。……何とはなしにぞっとした。この世のモノではない何かに、背筋を這い上がられた気分だ。
「別に、何も」
「__へぇ、」
 そうなんだ?
 馬鹿にするような表情にますます背筋が凍り付く。なんだよなんでこんな顔……今日の佐久間はおかしい、歯車がずれてしまっている。彼の眼は電球を映し、表面だけが輝いていて。けれど奥、虹彩の向こうは真っ暗だ、光がない。ランプは消えてしまっているのにガラスだけが反射している。何か暗い、重たいものを、艶めいたヴェールで覆ってしまった。そんなイメージが頭をよぎる。
「……なんでそんなこと、」
「いきなり、って? 理由はなくもないけどね、俺が言うことでもないし」
 薄笑いを浮かべたまま佐久間はふいと目を伏せた。テーブルを挟んだその距離が、いつもよりずっと遠く感じる。身を乗り出せば届きそうなのに手を伸ばす勇気が出ない。それどころか少しだけ、“届きたくない”とすら、思った。
 何があったっていうんだ。
「佐久間、今日のお前なんかおかしい」
 俯いた彼を真っ直ぐ見据え、そう告げる。当然のことながら目は合わない。もどかしい。俺の言葉を聞くと佐久間は短い笑い声を上げた。一瞬、心臓が跳ね上がる。それはとても軽いものだったが確実に余韻を残していった。欠片、狂気に似た欠片。
「おかしい? そっか、まともでいられる気がしなかったからちゃんと意識してたんだけど、分かっちゃった? 隠すのは上手いつもりだったのに、俺も結構まだまだなんだね」
「__どうしたんだよ。一体何があったって、」
「何があった? ねぇ、今そう言った?」
 今にも笑い出しそうな声音、鳥肌が立つ。わずかな震えを押し隠して頷くと、彼は顔を上げ、完全に、__濁り切った目で俺を見返した。

「どの口で言ってんの?」

 聞いたことがない程に冷えきった声だった。俺は即座に凍り付く。絶対零度の冷気、想像もできないような、佐久間は、コイツは、こんな表情ができたのか。 凍てついた刃物のような、刺し殺されそうな感覚。
「戸惑ってる? 思いつかない? だろうね、だって拓斗にとっては裏切りでも何でもない普通の出来事だったんでしょ? でも俺にとってはさ、俺にとっては違うよ拓斗。俺にとっては何もかも崩れちゃったのと同じことだよ」
 俺の、せい?
 呟きは酷く掠れた。佐久間は視線で俺を射て、おもむろに立ち上がり机の上に片膝を乗せる。動けないままでいる俺の、痣が残るその首へ、佐久間はゆっくり手をかけた。反射的に肩がびくつく。
「拓斗、怖い?」
「俺がお前を怖がるわけ、」
「嘘。目が怯えてる」
 言うと、彼は少しだけ笑った。どこか楽しげな、愉しげな笑みで。
「拓斗、ねぇ、自分が何したか気になる?」
 ぐっと親指に力が籠った。慌てて振り払おうとしたけど力が入ってくれなくて、ろくに食べてなかったからか、それとも彼の力がずっと、いつもよりずっと強かったからか。
「っ、ぁ、ま、もる、」
「苦しいよね、知ってるよ。力一杯締めてるもん」
「まも、る……なんで、……」
 息ができない。酸素が行かない。記憶と恐怖がリフレインする、痛みが、感覚が、去来する、そして初めて感じる恐怖、怖い、怖いよ守、なんで。
「ねぇ拓斗、俺何度も何度も言ってきたよね? “お前だけ不幸になるなんて許さない”ってさ、何度もさ、でもね拓斗、それはお前だけ、お前だけ幸せになってもいいよってことじゃない、そんなこと言った覚えはないよ、一人だけ幸せになんて、ならせない、そんなの許さない、だってずるいだろ拓斗、俺だけ取り残されるだなんて耐えられないよ、許さない、そんなのは許さない、拓斗、道連れになってよ、道連れにしてやるから、幸せになるなら二人一緒に、不幸になるのも二人一緒、ねぇそうでしょ拓斗、今さら俺だけ置いていくなんてそんなの絶対許さないよ」
 何を言われているのだろう、上手く把握することができない。遠のく意識が理解したのは短い言葉の切れ端だけ。許さない、許さない、幸せになるのは許さない、一人だけ置いていくなんて。何の話だ、一体、俺は置いていくつもりなんて、幸せになろうだなんて、思って、ないのに。
「ずるいよ、ずるいよ、拓斗はさ、俺よりずっと持ってるくせに、__俺には、お前しかいないのに」


 休日。特にすることがなかったから、ぶらぶらと街へ出掛けた。二時間ほどたった頃、時刻を確認しようとして携帯を開いた俺は、カレンダーを見て気がついて。__今日、命日だ。
「ちょっと走るんじゃないの! 転んでも知らないわよ?」
「転んでも平気だもん!」
「はは、元気がいいこった。」
 立ち止まる俺の隣を、家族が一つ通り過ぎていく。振り返ってみた後ろ姿は幸せそうで、羨ましくて、とうに諦めたはずなのにと俺は内心で苦笑する。ちくり、針で刺されたような。俺には家族がいないんだ、そのことを改めて実感させられてしまった。羨ましい、あんな風に、俺も暮らしてみたかった。
「なんて、__しょうがないことだけど」
 小さく、独り言。かぶりを振って歩き出したけどひりつきは収まってくれない。ひり、ひり。心が痛む。笑顔やら声やら仕草やら、余計なものが浮かんできて、思い出とかそんな優しいものが追いつめるようにやってきて、今はもうないものを思い出すのは沢山だ、だってもうないんだから、この手の中にないんだから、何をしても届かないんだ。そう思うと、苦しくなった。
 やめよう、せっかくの休日に。全部今さらな話じゃないか。ずっと昔からそうだったろう、今さら傷つくのは馬鹿らしい。第一家族はいないけど、俺は別に独りぼっちじゃない。そうだよ一人じゃない、俺には友達も親友もいて、ちゃんと大事な人がいる、大事に想ってくれる人も、だから平気だ、一人じゃない、一人、何かじゃ、__
「……あれ?」
 ふと、違和感があって立ち止まる。遠く前方に人影を見つけた。ちょうど今考えていた人、見慣れた立ち姿。駆け寄って声をかけようと一歩踏み出した瞬間に、
 見つけてしまった。
「お前どんだけ迷ってんだよ」
「うっさいなぁ、どっちも美味しそうだったんだもん」
「チョコだろうが抹茶だろうがどっちでもいいだろそんなの……」
「よくないの! ったく、女子は迷うものなんだってば」
 拓斗、と……遥。
 二人でアイスクリーム屋か、幼なじみだし、普通だよね、何か、なんかまるでデートみたい、二人とも楽しいだろうな、だって二人とも妙な意地張ってはいるけど好きなんだもん、結局相手が好きなんだ、そうだよ早く付き合っちゃいなよ、もどかしいなぁ好きなくせに、好き同士な、好き、__そうやってまた置いて行くんだ。
 裏切られたような気がした。馬鹿馬鹿しいって分かってるけど、でもどうしても思ってしまった。また取り残されるんだろうか、俺の大事な人はまた俺を置き去りにするんだろうか、また、また手の届かないところまで行って、俺だけ残して、なんで、なんでお前だけ、お前だけなんてずるいよ拓斗、ずるいよ、拓斗には、家族だっているんじゃん、可愛い弟がいるんでしょ、ねぇ、俺には誰もいないのに、遥と一緒に幸せになるの? 俺は? 俺は置いてけぼり? 依存してるくせに、俺に依存しているくせに、そうさせたんだから当たり前だけど、だけどそうでしょ、必要なんでしょ、なのに、ずるいと思わない拓斗、一人だけそうやって、そうやって、行っちゃうなんて、……絶対に許さない。
 幸せになんてならせない。


「一人じゃないくせに、拓斗は一人じゃないくせに、北斗くんがいて遥がいて、俺だってお前が好きだよ、なのに、なのに置いてくの、」
「まも、る、」
「遥も連れてって、お前だけ、お前だけ幸せになるの、そしたらまた俺一人だよ、また残される、置いて行かれる、もう沢山なんだよそんなの、また失うの、届かなくなるの、嫌だよ、もう嫌だ、お前に幸せになってほしいよ、遥とだって結ばれてほしい、でも、置いてかないでよ、俺だけ置いて行っちゃうなら、見捨てるっていうなら、俺はさ、拓斗、」
 頸動脈が締め上げられる。守の声が届かなくなる。俺の声も、また同様に。 守、置いていったりしねぇよ、お前も一緒に、なぁ、俺だけ幸せになんてならねぇ、見捨てるなんて、むしろ、それは、俺が恐れていることで、なんでお前が、なんで、なぁ、……一人にしたりしないよ、守。
「捨てられるくらいなら、裏切られるくらいなら、ねぇ、いっそのことって思わない? いっそのこと、この手でさ……終わらせちゃおうと、思ったりしない?」
 守、待って、聞いてくれ。伝えたいことは何一つ。 震わす前に、押し潰されて。



「死んじまえ、拓斗」
お借りしたキャラはにぱさんのサイト「最小公倍数」の「背中合わせと反比例」より、佐久間守くんと風間拓斗くんでした。最近自家発電し過ぎだよ私。
守くんが本格的に偽者でごめんなさい。病んでる彼もいいと、思って、つい、その……ごめんなさい\(^o^)/
タイトルに深い意味はない。林檎さんの「ドッペルゲンガー」聴いてたんですw
2011/05/12:ソヨゴ
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