最後の一行を読み終えて俺は栞を抜き取った。深く息をついて本を閉じ、傍らの彼に目を向ける。彼はまだ本を読んでいる。左手で書を開き、文字列を静かに辿り、__その速度は実に緩やかだ。木の葉が一枚枝から離れ、螺旋模様を描きながらゆっくりと地に積もってくような。焦れったい程のスピードで、年上の彼は言葉を味わう。それに比べて俺の読み方はまだまだ乱雑なんだろう。俺が味わい尽くしたはずの言葉からも、彼は余韻を見いだす。ワインの飲み方と同じことで読書にだって作法があるんだ。読み方から滲み出る品位は、一朝一夕では、身に付かない。
 席を立ったら彼の集中を断ち切ってしまう気がして、俺は本を膝に置いたまま身じろぎせずにそこにいた。何もすることはなかったが、不思議と、退屈は感じない。リビングを満たす沈黙は居心地のいいものだった。控えめな彼の息遣いと、時折彼がページを繰る音。それ以外、何も無い。俺は目を閉じて空気に溶ける。そこにいて、そこにいない何か。__圧倒的な静寂は星空によく似ていて、__“自分”が希薄になっていく感覚。何故だかその感覚は、俺をひどく、安心させた。
 どれくらいそうしていただろう(彼ならば分かったかもしれない、しかし俺の体内時計は彼のそれほど正確でなかった)。時の流れが分からなくなるほど長い間、俺は目を閉じていた。瞼の中の暗闇と、そこに瞬くイルミネーションは、絶妙に重なり合って偽の宇宙を作り出す。プラネタリウムを見ているようだ、……何もかもが些細なことだと束の間俺は慰められた。俺が今抱えている、すべてが。
「寝ちまったか?」
 上映が唐突に終わる。つい最近出会ったばかりの低音が、俺の瞼を開かせる。いいえ、と答えて彼を見つめれば、ビターチョコレート色の瞳は俺を上から眺めていた。俺と彼の身長は10cm程の差があって、けれどその差は、俺が彼に威圧される理由には決してならない。彼の大きさは包み込むそれで、抑え込む類いのものではなかった。
 文庫本は閉じられていない。備え付けの黒く細いリボンが、栞の役目を果たしている。彼は俺の視線の着地点に気がついて、小気味よく書を閉じた。 慈しむような彼の微笑み。
「悪ぃな、読み終わってたのか。退屈だったろ」
「いえ、……そんなことは」
「__そうか」
 彼はほんの一瞬だけ怪訝そうに眉根を寄せたが、詮索しようとはしなかった。唇に乗せ、音に変え、__“言葉にしなくていい”ということがこんなに優しいことだったなんて。彼に出会うまで、俺は知らなかった。
 俺と彼は隣にいてもあまり言葉を交わさない。互いに同じソファーに座って、ただただ閑かに、本を読んでいる。だが彼といる時の静けさは他のどこにも無いものだ。それは、降る雪。柔らかい無音。他人と言っても差し支えない程薄い繋がりの彼なのに、何故だろう俺は彼の前では安寧を感じ取ることが出来た。警戒という鋭さをいとも簡単に手放して、__両の手の平に収まる世界にいくらのめり込んだって、世界から刃物を突き立てられはしない。  俺は彼の傍らで、不思議とそんな確信をしている。
「……蔵未さん」
「どうした、雪谷」
 おずおずと声をかけると、彼は軽く首を傾げて。さて、どう形容しよう、……俺と彼との間柄には、直線的な言葉は似合わない。穏やかに、柔らかに、回りくどく、曲がりくねって、……曲線的な言い回し。「きっとどんな言い方をしても彼なら分かってくれるはず」。 俺は自然に信頼していた。言うなれば、それは“暗黙の安堵”。
「此処は、__何処なのでしょうか」
 結局口をついて出たのはあまりに遠のいた問いかけだった。彼は二、三度まばたきをして、それから、不意にくすりと笑う。右肩に彼の右手が乗って、俺はようやくその時に、彼の右腕が背もたれに沿って伸ばされていたことに気がついた。__まるで、俺を庇うかのように。
「宿借りは、」
「え?」
「殻の中でなら眠れる」
 天高くから緩やかに、彼の言葉が降ってくる。ふわり、ふわり、降り積もる雪、灯台から落とされた羽根。どうにも遠すぎた彼の答えは次第に俺に近付いて、ついには、俺の手の平に落ちた。 彼が、俺の肩を抱き寄せる。 低音が俺の耳をくすぐる。
「安心しろ。此処はシェルターの中だ」

 世界は俺達に干渉しない。

 shell、shelter。此処は殻の中。誰もこの場所を侵せない。此処は腕の中。守られて、いるから。『世界は俺達に干渉しない』__だから此処は、こんなにも、安らか。
 彼の指が、美しい指が、俺のブラウンの毛先を弄る。撫でるのでもからかうのでもない、庇護と玩具の中間のような扱いを受けながら。俺は、彼に頭を預ける。恐る恐る体重を委ねる。彼はそれを受け止めて、そして少しも、揺るがなかった。
「寝る? それとも、コーヒーでも飲む?」
「……眠らせて、ください」
 何もかもから切り離された、俺と彼しかいないこの場所で、他人に等しい距離にいる彼は兄弟のように俺を包んだ。今は、なにもかも忘れられる。悔いもしがらみも自己嫌悪も今だけは俺に刃を向けない。守られていながらそれでいて、俺は紛れもなく“一人”であって、そのことが俺を癒してくれた。とろり、とろり、……意識がまどろむ。
 眠りに落ちるちょうどその時、Goodnight、と彼は囁いた。

その静寂は貝殻の中


「おやすみ、宿借りさん」
お借りしたキャラはにぱさんのサイト「最小公倍数」の「快晴のち雪の空」より、雪谷君人くん。コラボさせていただいたのは我が家の蔵未孝一でした。
なんというか、文系男子って素敵。

2011/11/30:ソヨゴ
inserted by FC2 system