Afterglow


 私がトーキョーで見初めた青年は言うなれば、“虚無”であった。empty。blank。彼は“虚無”や“空白”の具現化であり、その欠落が人を引き寄せた、__店で、青年に声をかけた時、東洋人の彼はそれでいて生粋の英国人である私が違和感なく聞けるイングリッシュで、返事をした。完璧な発音。
『ハイ、Mr.』
『君の名前は?』
『名前が、必要? 貴方が付けて』
『どうして、私が』
『欲しいんでしょ? 俺が』
 彼の言う通りであった。私は彼を買った。一週間。その長さを聞くと青年は些か驚いたようだった。然りだ。なんせ彼の値段はべらぼうに高かったのだから。
『貴方は、浪費家なんですね。マスターが喜ぶよ。』
『君は?』
『俺も。弟のシューズが買えそう』
 微笑みを浮かべつつ、彼の瞳は冷えきっている。私は日本文化、とりわけ遊郭のしきたりを思い出し、私が初対面にも関わらず彼を軽々しく買ったことが彼の気分を害したのかもしれない、と考え、非礼を詫びた。すると彼は声をあげて笑って、
『それはかつての趣きだ、Mr.』
『そうか? 君のプライドを、私は損なったのではないか』
『プライド?……玩具(オモチャ)にプライドが、必要?』
 物事の必要性を問うのは彼の癖のようだった。私は彼の、やや自虐的な返答をやり過ごし、一週間、君を連れてフランスへ行くつもりだと告げた。その頃はちょうど、英国を中心に日本やフランスを支配していたケークサイド教の教祖が殺され、栞田教へと切り替わった時期で、正直日本以外の支配地は治安が良くはなかったのだが、首都であるパリは平穏そのもので、彼を連れて行ったところで問題は無かろうと思った。彼は目を丸くして、貴方みたいなお客さんは、初めて、とまた笑った。彼は見たところ学生であるように思われたので、一週間も留守にして大丈夫か、と尋ねたが、問題ないと返された。
『学校には届ければいいから』
 家族のことは何も言わなかった。青年は私にキスをして、goodnight、と鼓膜に残す。

 娼婦にしろ男娼にしろ艶かしく着飾るのが常だ。しかし、彼は違っていた。彼はあの店で一等高価な売り物でありながら、もっとも簡素な格好をしてソファに座っていた。白い学生服のシャツ、ジーパン、それだけの身なりでも、彼は十分に目を引いた。引き寄せるのだ。彼の抱える、“空虚”そのもの、“闇”そのものが。彼はぱっくりと昏く口を開けた底の見えない穴のようなもので、誰もが覗き込み、落ちていきたいと欲してしまう魅惑的な暗闇だったのだ。例えば濃度の薄い方へと水溶液は流れ込んでいく。それと同じで、空虚なものは引き寄せる、空っぽな彼は人を引き寄せ人々は彼に愛を注ぐ。だが、いくら尽くしたとしても彼の空虚は少しも埋まらず、その底なしの虚無こそが即ち彼の魅力なのだろう。彼の買い手に私のような芸術家が多いというのも、頷ける話であった。
 空港に現れた彼は、詰め襟の学生服を着ていた。首元までしっかりと覆った禁欲的な制服は少なからず私を高揚させた。学校からそのまま来たのか、聞くと黙って首を振る。学校の制服は、ブレザーなんだそうだ。
『これは仕事用』
『仕事用?』
『俺という一つの個人を、隠匿する為のコスチューム』
 何処にでも居て何処にも居ない何者かになる為に、制服は便利だ、という。本当の制服を着ると所属が分かってしまうからいけない。誰でもありそうで、誰でもない。何処にでもいそうで何処にもいない、……それに、みんなこういう服を俺が着ると喜ぶんだよ、__そう言って彼が制服の衿を指で摘んでみせたとき、私は遅ればせながら彼の指のその美しさに、打ちのめされた。すっかりやられてしまった。私は現代の彫刻家として、それなりに名があり、作品も残し、ある種の究極の美という奴を創り出してきたつもりであったが、この手を見てしまったら。所詮どう足掻いても創造主には敵わないのだ。誰が創造主であるか、キリストとやらのお父様ではどうやらないらしいのだが、確実に、いずこにいるはずの、この世界を創りだした主に私は一生敵わないのだ。そう感じた。こんな時、私が文学者であったなら相応しい形容を、思いついたのかもしれないが、生憎私にそんな才はない。ただ一つ、彼の手指は、発光する粒子を纏い淡く灯っているように見えた。恐らく日光が彼の手を照らし、白く肌理細やかな肌が反射していただけの話なのだろうが。
 彼は私の熱っぽい視線を察したようで、細く長い人差し指で、唇を、つぅ、となぞった。私は彼の形よく整った唇も愛していた。
『名前、教えて?』
『私のか、』
『違うよ、Mr.__名付けてよ』
 彼は自分の唇をなぞるのと同じ要領で、私の唇に触れ、近付き、ほんの少しの大胆さがあればその唇を奪えるような距離を保って私を誘う。
『俺の名前、教えて? Mr.』
 私は彼をRudi(ルディ)と呼んだ。試されていると分かっていたから、手を出すことはしなかったが、私が彼の肩を押しゆっくりと身を離すと、イクジナシ、と彼は笑った。その日本語らしき一言の意味を私は未だ知らない。

 パリにつくと、私はまず行きつけのブティックへ向かった。そこには馴染みのデザイナーがいて、彼の作る洋服はシンプルだがありきたりでなく上品で、洗練されている。ルディに似合うだろうと思った。そしてニックは、__彼の名はニコラス・ウィリアムスというのだが、__ルディのことを、気に入るに違いないとも思った。
『いいの、Mr.』
『何がだ? ルディ』
『俺は多分、日本に帰れば、貰った服を売ってしまうよ』
 それでも買うということを、彼は分かって言っている。その向こうにある欲望を、彼は冷ややかに見つめている。
『……いいんだ。此処に居る間、“私好み”でいてくれれば』
 声を出さずに彼は嗤った。
 ニックは彼に出会うなり予想通りの反応を見せた。昂揚し、瞳を輝かせ、なんだいキミは、素晴らしい、素晴らしいと何度も言った。無国籍の貌をした、彫刻のような“虚無”の少年、そんな存在が自分の服を着るという事実。喜ばない訳がない。ルディは例の哀しげな、冷ややかな瞳を細めただ微笑んでいるだけであったが、ニックは初めから終わりまで上機嫌のまま服を選んだ。艶を抑えて作られた白銀のタンクトップ(サテン生地で出来ていて、ゆるく皺が寄るようにデザインされている)、シルクのカーディガン(こちらは、重くグレーに輝く銀色だ。形は変わっている。左右の長さがアシンメトリーで、前等しろでも少し違う。全体に、何か溶け出しているような錯覚に陥る)。白いタイトジーンズに、同じく白のショートブーツ。牛革だ。 不思議な服、と彼は呟く。
『だけど、素敵だね』
『そうでしょう? ぼくの服は素敵でしょう? キミが着るともっと素敵だよ』
 ぼくは、ほんとは、キミみたいな、キレイな人にだけ着ててほしいんだ。 ニックの気分は浮き上がったまま落ち着くということがなく、全く、ガキの手から逃れた風船みたいな輩だ、ふわふわと浮かれて、ふとした拍子に鳥に啄まれ急降下する。厄介なヤツめ。
『金が沢山あるだけのおしろい臭いマダムとかね、汗でファンデが浮いてんだ、耐えらんないよ全くね、顔はいいけどものの価値なんざ毛ほども理解してない豚とかさ、スレンダーで脚の長い豚さ、あは、想像したら笑えてきちゃった、おかしくない?』
『そうかもね。でもニック俺が思うに、君に道化の才能はないな』
『そう? ピエロのお洋服ってかわいいから好きなんだけど、まああんな俗悪なもの着る気にはならないね、ぼくはさ、キレイなものばかり見ていたいから、デザイナーになったのに、却って醜いものばかりぼくの眼前に現れる、皮肉だなあ、豚の相手はこりごり、キミみたいなキレイな子だけ店にきてくれればいいのに、キミみたいな人にだけぼくの服は着られるべきだ』
 シックな風味に整えられたミントグリーンのカーディガン、濃いミルクティーのようなベージュの襟ぐりの広いセーター、華奢なネックレス、ピンキーリング、透かし模様の太いバングル。どれもニックからのプレゼントだ。ルディが、ミントグリーンのカーディガンを着て腕をさすり、その心地いい肌触りを実感している時、私は彼の瞳が角度によって違う色合いを見せることを知った。ある角度からはビターチョコレート、ある角度からはよく冷えたチェリー。彼の瞳はどの角度から見ても非常に“美味しそう”であった。カカオの深いショコラ。甘酸っぱいブラックチェリー。
 店を出るとき。ニックは彼にこんなことを言った。
『君は上品で、高貴で高級で、だけれどまるで錆びた刃物でずたずたに引き裂かれてしまったみたいで、すごく素敵だ』
『……それ、褒めてるの?』
『どうして? キミは魅惑的だよ。ねぇまた来てねルディ、ぼくの服、ぼくはキミに着ててほしいんだ』
 ニックに手を振り、雑踏の中へ足を踏み出した瞬間に、私は彼に問うた。帰ったら、その服を売るのかい? ルディはスローモーションで一、二度、首を振り、それから陰のない笑みを屈託なく私に向ける。
『売らないよ。ニックは俺に、着ていてほしいと言ったんだから』


「そういえばさぁ、」
「あ? んだよ」
「お前、今日は随分とマトモな服きてるよね」
「……ああ。これ、貰いもんだから」
 蔵未はカーディガンの袖を、右手をまるめて指先で握る。
「センスいいな。それ高い服だろ? デザイナーもん?」
「多分」
「へぇ。その銀のカーディガン、シルクだもんな」
「そうなんだ」
「でも、よく似合ってるよ。お前に」
「__着ててほしいって、言われたからな」
 車窓にふっと視線を移し、蔵未は懐かしそうに微笑む。俺はその、センスよくコーディネートされた服装に、何かしらの思い出があること、そしてその思い出は決して悲しいものではないことを察して、黙り込む。彼の、優しい回想を邪魔したくない。彼を痛めつけてしまうような、悲しいものなら話は別だが。
「アーヴィン、」
 俺は運転席の二等兵に声をかけた。
「はい、沢霧大佐」
「悪ぃ、ラジオつけてくんない?」
「ラジャ、」
 間もなくラジオのテーマが流れ、パーソナリティーがニュースを読み出す。アーヴィンが設定していた周波はどうやら真面目な局らしい、__運転手、アーヴィン・ラングフォード。黒人と白人のハーフで、小豆屋と同室の二等兵だ。彼と違って、実力は身分相応のものだが、運の強さは引けを取らない。なんてったって、二等兵には本来許されていない二人部屋、たった一室余ったその部屋をくじで引き当てたのが小豆屋とコイツなんだからな。彼はもっぱらジープを転がす運転手の役割をこなしてるが、ぶっちゃけ運転には向いてない、コイツが運転したジープは何故か知らんがよくエンストする。蔵未なんかは日頃から、ジープが可哀想だから運転手をやめさせろって不平を唱えているんだが、しかし。__ジープがエンストしたおかげで地雷を踏まずに済んだだの、敵の待ち伏せから逃れられただの、__彼の劣悪な運転技術は数々の幸運をもたらしており、そういう訳で彼は未だに運転係を務めてるのだった。 ついたあだ名は“ラッキーボーイ”。
「あの、なんか腹減りません?」
「腹? いや俺ら食ったから」
「あ、そうでしたか! 失礼しました」
「いや別に。お前食ってねぇの? どっか寄ってもいいけど」
「いえ! 俺は、あの、大丈夫です、ハイ」
 ……なーんか俺、アーヴィンに怖がられてるっぽいんだよねぇ。
「俺、恐い人じゃねーよ?」
「へっ?」
「……いい。気にすんな、こっちの話」
 ラジオの話題は、日々のニュースから特集へ移ったようだった。車は赤信号で止まって、周りのエンジン音も止む。パーソナリティーの女の声が静まった車内に響く。
《今週のトピックスは、近頃密かに流行しつつある病、コウシビョウについてです》
「コウシビョウ?」
「あれ、蔵未知らない?」
 車窓から目を再び移し、カーラジオを見つめた蔵未は、聞いたこともないと答えた。
「何ソレ」
「最近発見された病気。まだ原因不明でさ、今んとこ不治の病らしい」
「ふぅん。どんな病気なの」
《コウシビョウには自覚症状がありません。ですが検査をすると、血液が異様な変容を遂げている為に発見することが出来ます》
「別にどっかがいたくなるとか、苦しくなるとかじゃないみたいだけど」
「え、血がおかしくなるだけ?」
「ああいや、勿論それだけじゃない」
 俺はコウシビョウの話題を、先週雑誌で読んだのだった。漢字ではなんて書くんだったか、なんか、こう、いやな感じの、
《コウシビョウは発症すると、半年ほど経った辺りから次第に身体の諸器官を機能不全にしていきます。罹患者は、徐々に以前ほど動けなくなったり、見えなくなったり、呼吸できなくなったりしていきます》
「……蔵未。コウシビョウってさ、英語でなんて言うと思う?」
「は? 分かるワケねーだろ」
「あのね。 Happy Ending Diseaseって、いうの」
《影響を受けない器官は、脳だけです》
「__幸せな結末?」
「うん。あのさ蔵未、コウシビョウって、漢字でなんて書くと、思う?」
「……分からない」
「“しあわせなしのやまい”」
《コウシビョウに痛みはありません。苦痛の類いは一切ありません。しかし諸器官は確実に衰えていき、発症から、必ず一年以内に》
「“幸死病”って、書くんだ」
《死亡します》


 青年は、並木道を独り歩いていた。樹々はすっかり秋めいて、山吹に染まった木の葉が散る。風が、青年の頬を刺し、彼は慌ててマフラーをぐっとつかんで引き上げた。彼は異常な寒がりなのだ。現に今、彼はカシミアのぶ厚いコートを羽織っている。まだ十月の始めだというのに。コートは暗い灰色で、彼の故郷であるロンドンの曇り空のようだった。今日の空の曇り具合より、幾分か深かったのだ。
 青年は先程まで、小さな小さな端末でラジオを聞いている様子だったが、話題が切り替わったのかもう電源を切ってしまっていた。イヤホンのコードを手際よく巻いて、コートのポケットに端末を突っ込む。青年はふと立ち止まり、辺りを見回した。
 人気はない。 死んでしまったみたいに。
 青年は前を向き、足下の、朽ちた葉を爪先で蹴り上げた。子供がはしゃいでいるかのように。けれどその表情は、反面ひどく大人びて見えた。何かを知っている顔だった。子供が知りようはずもない、何かしらの、悲しい事実を。
 彼の革靴に蹴り上げられて、木の葉は彼の腰の辺りまで、舞い上がり、回り始める。くるくる。くる、くる。その様が、彼にかつてを思い起こさせる。記憶の底に眠っていたのは小さなガラスのバレリーナだった。姉のオルゴールについていた、小指ほどの大きさのもの。オルゴールはトロイメライを奏で、バレリーナは曲の拍子を気にせぬ風でくるくると踊った。ちょうどいま秋の葉が、彼の眼前で舞っているように。思い出した。姉が螺子を巻き、バレリーナが気ままに踊るあのひとときを彼は愛していた。というのも姉は彼にしか、バレリーナを見せなかったから。
 彼は弟のことを考える。自分と揃いの黒髪に、自分より澄んだ碧眼の。ゆら、ゆら。彼の双眸を縁取る睫毛が風に揺らめく。黒く艶やかな睫毛の奥に深い、深い青が見える、湖を思わせる、優しくて、ひんやりとした。彼は同じくカシミアのキャメルのマフラーを顎まで下ろし、そうしてそっと口ずさみ始めた。穏やかな歌を。
 (それはちょうど、寒くなり始めたある日のこと)
 それはなめらかで格式高い英国英語だったが、歌っているのは、アメリカのシンガーの曲だ。国という境のなくなったいま、そのような区別はさして意味もないかもしれないが、それでも、言葉は残っている。現在(イマ)また標を失って、彷徨う人々の寄る辺となる為に。
 (私は見知らぬ道を歩いていた)
 彼の声は、その眸と同様湖のように澄み切って、春のように柔らかかった。歌声は快く伸びて成層圏に溶けていく。
 (私に訪れたものが何か、君に見ることが出来るなら、分かるでしょう)
 表情からは何も読みとれない。彼が何を思っているのか、誰を想って歌っているのか、……彼の表情はただ静かだ。一切の波紋のない、水面のようにただ静かだ。
 (私が自由に歩けてる訳が。 風が私の背を押している、)
 答えるように、秋風が吹いた。青年はその偶然の、詩的さを思って少し笑った。面を上げれば、曇天を裂いて夕日が浮かぶ。沈みゆく斜陽は雲をてらし、きっとどんな絵の具を混ぜたってつくれっこないオレンジで、空を染め上げている。
 Bathed in afterglow.
 歌いきると、彼はようやく、自分が涙をながせることを思い出したらしかった。しかし結局雫は落ちず、彼は静まりきったその貌に、ほんのわずか悲しみを滲ませただけだった。


「もう、半年もないんだな」
カーティスが歌っていたのは、タイトルと同名の、ヴァネッサ・カールトンの楽曲です。

2012/10/13:ソヨゴ
inserted by FC2 system