弟への“ラブレター”を書こうと父の書斎を漁ったら、箱に入ったレターセットを見つけた。古ぼけた木箱。留め金は銅でできていて、年月ですっかり錆びてしまってる。開くと、不快な軋みと共に、几帳面に収められた幾つかのインクと羽根のついたペン、染みの付いた便箋が姿を現し、インクにはそれぞれタグがついていた。目に留まった一つを取り出し眺めると、それはブルーのインク。タグには親父の癖のある字でこうあった。『Curtis』。
 手の中で転がせば、黒にしか見えないその青は光を受けて輝いて、本当の、色合いを見せる。湖によく似た青だった。俺は一つの考えに思い至ってインクを取り出す、あとの二つもやはりブルーで、それぞれ、姉弟の名が記されていた。Amelia,Ernest__二人の瞳の色によく似た、鉱石と、空の青。親父が俺達の瞳の色を好いていたのは覚えてる、特にアーネストの空色は、戦闘機乗りだった親父の琴線に触れる色だった。なぁ、俺がさ、命の瀬戸際に立つ時、必ず俺は愛する息子を思い出すことができるんだ。素敵だろ? それを聞かされる、「思い出されない」息子の気持ちを察せるほど父は賢くはなく、だもんで俺は愚かな父を心のどこかで軽蔑してたが、さて、この年になってみると。俺の頭の出来はどうやら父譲りだったらしい。それはそれで、いいのかもしれない。 馬鹿にしかできないこともある。
 只今の時刻は11:55。正午まではあと5分ある、彼が来てくれるとしたら恐らくは一秒も違わず時間ぴったりにやってくるだろう、道に迷ったりしない限りは。そういや俺の弟は、絶望的な方向音痴だったな。今も地図が読めないんだろうか。読めるようになっちまったか。会った時に聞きゃあいい、今日は晴天だ、きっと来る。晴れ晴れとした青空にバッドエンドは似合わない。
 立ち上がると、木製の床が小気味よい音を立てた。ここは俺が六つの時に父が購入した別荘だ。どんな用だったかは知らないが、父はある日訪れたこのコテージから見下ろせる湖をいたく気に入って、その場で現金を払っちまったらしい。貴族の生まれである父は普段から金遣いが荒かったが、あまりに大きな買い物を相談なしで即決したせいか母の剣幕は凄まじく、その後数日機嫌の悪かった母の相手をさせられた俺らは父を恨んだものだった。母は、街のパン屋の娘だ。無駄遣いとしか思えない父の行動が憎かったんだろう。しかしそんなお袋も、父が湖を気に入ったそのワケを聞くと機嫌を直した。不純物のないこの湖は湖面に空がよく映る。そしてその湖底には、サファイアがきらきらと眠ってる。
 見渡す限り一面の碧だ。鬱蒼と茂るこの森は、そのほとんどが針葉樹で、全く家系に花粉症が居なかったことを感謝しなければならない。湖は森に守られて、ただ青く広がっている。湖面にはいつものように空が映り込み、水色の光が射し込んでいた、眼下で雲が流れゆく。別荘のテラスは、広い。地面から突き出して湖の真上まで来ている。父は、このテラスに飛び込み台を作るつもりで改装したんだが、そうとは知らない建築業者に作ったあとで止められた。「こんな高さから飛び降りたら、ちょっとどうなるか分かりませんよ」。今度ばかりは母の怒りも長引いて、しばらく直らなかった。姉さんの苦笑いとアーネストの呆れ顔。どちらも鮮明に覚えてる。どちらも、失ってしまったものだ。
 目を閉じる。時計は、見ない。足音は耳に届いていた。


「兄貴」
 背後から声をかけると、兄貴は振り返って、微笑んだ。その笑顔に拍子抜けして、すぐに憎悪がこみ上げてくる、睨みつけると兄は寂しげに眉を下げて俺を見て、俺はますます吐き気がしてきて、何で? 何故そんな顔ができるの。虫螻同然の弟に対して。
「どういうつもり」
 渡されたカードを見せる。兄は目を細めてカードを確かめ、そこに起きている異変に気付き、顔をしかめた。
「相変わらず嫌味なヤツだな」
「アンタこそ。相変わらず、頭すっからかんだよね」
 兄貴が顔をしかめた理由は、付け足された赤インクにあった。時刻と住所だけのお便りは何カ所かスペルを間違えていたので、訂正して差し上げたんだ。小学校の時、真っ赤になって帰ってきたテスト用紙を突きつけられて怒鳴られていた彼を思い出す。兄もまた同様にあの頃のことを思い出したろう。いい気味だ。
「まぁでも、」
「え?」
「変わってなくてよかった」
 また、笑顔。今度は怒りより、自嘲にも似た感情が湧き上がってきて俺は俯く。太陽が燦々と降り注いでいて嫌気がさす。兄貴は訝しむように俺を伺い、その視線が、空気に溶けた瞬間に“ラブレター”を投げ返した。慌てて受け取る彼に向かって、首を傾ける。
「そう見える?」
 兄は黙った。
「何の用?……殺される為に呼び出したの?」
 それとも、殺す為? なんて、答えが分かっているくせに尋ねる俺は意地悪だ。貴方の気持ちは分かってる。だけど、ごめんね、そうはならないよ。死ぬのは貴方ではない、俺だ。殺すのは俺でなく貴方。兄は、口を開かない。俺はポケットから拳銃を出す。トリガーに指をかけ、兄貴に真っ直ぐ照準を合わせる。兄は逃げるでもなく、叫ぶでもなく、、銃口を見つめる。覚悟を決めた者の瞳で。
 思わず、笑った。
「__アーネスト?」
「あははは、あはっ、はは」
 声をだして笑うだなんてなんだか随分久々で、俺の笑いは長く尾を引いて、兄貴は取り残されたみたいにキョトンとしていて涙が出た、悲しかったんだ、馬鹿みたい、俺達揃って馬鹿みたいだ、散々苦しんで、のたうち回って、何もかも許した果てにこんな幕引きに辿り着くなんて俺達本当に馬鹿馬鹿しいよ。
「ねぇ、兄貴。ごめんね」
「は?」
「ごめんねって言ってるの。……怖かったんでしょ? 俺のことが」
 今なら分かる。兄貴も、姉も、現実などとうに知っていた。だけど認めたくなかったんだ。兄は信心深かった、彼が見せる他の面からはまるで想像もできないほどに、彼は敬虔に神を信じてて、神はいると思ってた、産まれたときから、当たり前に、当然の理として絶対の存在(かれ)を信じていた、毎日のように神に祈り供物を捧げていた父が死ぬなんて考えもしなかった、でも、だっておかしいものね、カミサマが絶対ならば何故戦争が必要なんだ。父の棺をその目で見た時彼は確信したんだろう、カミサマはいない、いやしなかった、だけど今さらどうやって生き方を変えればいい? 今まで尊いと信じてたモノが実は全くのペテンだったなら、__それは、恐怖でしかない。
 どんなに目を瞑り盲目になり現実から逃げようとしたって、神の遺体は教会の広場の真ん中に吊るされていた、今日から貴方達のカミサマは六歳の男の子です、なんて、俺は受け入れられなかったけど、兄は受け入れるしかなかったのだ、生き方を変えたくなければ。今まで、息をするのと同じくらい正しいこととしてクーデターを差別して、時には虐めて、そんなアレコレも、本当は間違いだったんです。無理でしょう? 受け止められないでしょう? 君が正しいと思ってしてきたことは生まれたての赤ん坊の腹を裂くくらい残酷なことだと、そんな事実を、あの兄貴が、警官を志すほどに正義感の強かった兄が受け止めたら多分壊れてしまう、だから、彼は逃げたのだ。必死に恐怖から逃げ回っていたんだ。受け止めるにはまだ弱すぎる、__なのに、俺は。
 わざわざ首根っこ捕まえて、聞きたくないと耳を塞ぐ手を切り落として囁いた、貴方が信じていたモノはただのガラクタ、紙くず、ゴミ、道端に転がる浮浪者の死体とそれに群がる蟻の群れ、お前こんなモノ信じてたんだ愚かだねぇ騙されて、今まで一体何人の心を踏みにじってきたのかな、お前のせいで死んだ人は一体何人いるんだろうね、数えてごらんよ、例えばさ、貴方の大好きなお姉さんの密告で処刑された人とかさ、君が酷い罵倒をしたせいで自殺しちゃった女の子とかさ、ねぇ、何人? 何人居るの? 君が大切に握りしめてた宝物は残念ながら殺人鬼の書いた小説だ、ねぇ気分はどう? 気分はどう?
 俺は被害者なんかではなくて、兄を傷付けたんだ、きっと、何だかんだ弟思いの優しい兄貴だった彼が俺に拳を振り上げるほどには。いつも、抱きしめられていたのに。最初にナイフを振りかざしたのは兄ではなくこの俺だった、俺の頭を撫でるその手に突き飛ばさせたのは俺だったんだ、裏切ったのは、俺だった、だから、
「殺してよ」
 拳銃を差し出す。柔らかく風が吹き、揃いの黒髪が、一緒に揺れた。


「……そんなに遠くちゃ、受け取れねえよ」
 言外に伝える。こっちに来い。聡い弟は頷いて、手の届く位置まで近付く。その靴音に重なって、聞いたばかりの声が響いた、そうか、__そうか。『殺して』か。お望み通りにしてやるよ、アーニー、結局俺にもさ、それ以外思いつかなかったよ。
 彼が立ち止まる。すぐ傍に、白くて細い手首があった、コイツ何食ってんだろうと今さらながら心配になる。ひねれば折れそうだ。不健康で、白い、細い、……殺して、か、嗚呼、聞きたくなかった。コイツの口からは。俺に向かっては。
「アーネスト、」
「なに?」
「やり直せねぇか」
「もう手遅れ。……俺、汚れちゃったから」
 先を知っている問いだった。想像通りの言葉が返る、何度も練習しちまったみたいに、だいぶ前から決まってたみたいに、台本、筋書き、会話して、嗜好して、なぁ、俺らの人生は、誰かに決められたもんだったのかな、なぁ、アーネスト。どう思う? 神様なんていやしない。でも、こんな皮肉な話神様じゃなきゃ書けやしないだろう。許す為に、拳銃を握る。なんて阿呆らしいストーリー。
 どうにも、俺の好みじゃない。
「アーニー」
 愛称で呼ぶと、彼はたじろいだ。俺の声音がいつもより穏やかに聞こえたんだろうか。彼は利き手の力を緩めて拳銃を俺に渡そうとする、俺はその手を取って、傾けて、静かに拳銃を落下させた、落ちていく銃を見て弟はわずか目を丸くする、俺は、口の端を吊り上げて、__さて。こっからは一か八かだ。『ちょっとどうなるか分からない』、丁度いい、バクチをしよう。50%の確率で俺達は幸せになれる。平気だよ、今日は晴れてる、悪いことなんか起こりっこない。
「アーニー、賭けをしようぜ」
「はぁ?」
「ギャンブルだギャンブル。どっちかに賭けろよ?」
「いきなり何、」
「赤か、黒。どっちがいい?」
「説明してよ、」
「どっちだっつの」
「ねぇちょっと、」
「トランプだよ昔よくやったろ」
「そうじゃなくって何の話なの」
「早くしろって」
「……黒」
「OK。なら俺は、赤を選ぶよ」
 弟の手を握る。あの日、夢の中で見たように、彼の手はひどく冷たくて、だがその代わり脈拍があった、生きている、そう死んじゃいない、死んでないなら五分五分だ、ジャンケンよりも確率が高い、大丈夫、お前は負ける、負ける、安心しろよ。俺が勝つから。お前は、俺が守るから。
 手を引いた。逃げられる前に、捕まえて、抱きしめて、__地を蹴って。

「一緒に死のうぜ」

 飛び降りる。 深い湖の底まで。


 blue。海よりも透き通った青。光の筋が糸のように、俺達を繋いでる。沈んで、沈んで、泡がきらめいて、夜空のようだ、星が、たくさん、遠く向こうに太陽が見える、それは青に冷やされて月光のように見え、心地よい静寂の中で俺達は息をやめている。なぁアーネスト、綺麗だよ。死ってこんな感じだろうか。瞼を下ろす、青は消え、視界には黒だけが残って、父のインクを思い出した、黒のような青、青、青、……落ちていく、凍えてく、感じる、……拍動を。生命を。体を巡る俺の血と、俺に縋って眠り込む、彼の鼓動を。
 生き返ろう。




 けたたましくなるアラームをぶん殴って目を覚ます。機械相手に無茶なことをした。じんじんと痛む左手を右手で包み時計を覗けば、今日が休日であることをデジタルな機能が告げている。力が抜けていくのに逆らわずそのまま倒れ込んだ。ぼすん。ああ、やっちまった。今日は日曜だくそったれ、せっかくのホリデーに七時起きかよ、やり切れない。“祖国”の空模様よろしく曇り始めた俺の心と無関係に鳥は鳴いている。うららかな春の日だ。ちくしょう、ムカつく。
 しばらく天井をじっと見つめて、それから一息に起き上がる。灰色の掛け布団を押し退け、素足には堪える冷たさの床に仕方なく、足を下ろす。床に敷き詰めた黒白チェックの大きなタイルは金属製で、夏はいいがその他の季節は冷えることこの上ない。ユニオンジャックと、流行りのバンドのポスターだらけの床を眺めて、その辺に転がっていたAVを蹴飛ばしドアを開いた。やってから、後悔。爪先が痛い。
 階段を降りていく。紅茶の匂いがふわりと漂い、そういえば、俺はコーヒーはなんだと伝えるのを忘れていたな、ま、いいか、たまにゃ紅茶でも。それにしても早起きなヤツだ。ブレックファストの香りまでしている、__そうして俺は、嫌な予感がしていた。俺は頭が悪い分こういう勘は働くのだ。動物に近い? 好きに言っとけ。とにかく俺は決めていた、キッチンを覗き込んだその瞬間に、『避けよう』と。
 キッチンに顔を出す。“悪意”が襲いかかってきた。
「どわっ!?」
「ちぇ、」
 慌てて顔を左にずらせば、その瞬間にグチャッ、ビシャグチュ、1秒前まで俺の顔があった空間にそれは衝突し、背後の壁に叩き付けられて俺もまた壁に押しつけられた。音といい大きさといいろくに見なくてもケーキだと分かる、しかももったいねえホールケーキだ、生クリームとイチゴ、ロウソク、この香ばしさもしかしてロウソクに火ぃつけてやがったか、この野郎、当たったらマジで洒落にならねぇ。大怪我じゃねぇか。
「当たんなかったんだからいいでしょ」
「当てる気でいたくせによく言うなお前!!」
「煩いな。朝っぱらから怒鳴らないでよ」
 怒鳴られるようなことしたのはお前だ。言いたかったが、これ以上何か言っても口論じゃ負けるのがオチだ。嘆息に思いを込めて俺は彼の顔を見る、__憎たらしくて生意気な、最高にかわいい、俺の弟。
「Happy Birthday,Curtis」


See You Again


「Thank you. And,nice to meet you」
ありがとう、はじめまして。

2012/04/01:ソヨゴ
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