「連絡もなしに訪ねてきた挙句出会い頭に頬を張るとは、しばらく会わないうちに随分大胆な人になったんだな」
「貴方こそしばらく会わないうちに、ずいぶん厭味っぽくなったのね」
「やだなあカートがイヤミっぽいのは遡ること二十年前から、」
「お前がしゃしゃり出てくっと話がややこしくなる。ちったあ黙ってろ」
 軽い舌打ちを加えた後で、思わず彼は口を押さえた。覗き込むように対面に座る彼女を見やる。彼女は平然とした様子だったがそれでも多少の動揺が鼻のあたりに現れて、僕は二人の関係を察した。お得意のプレイング・ロール――我が親友の悪癖である。

A better person than I thought.

「まあ、お二人が付き合っていたのはかれこれ一年近くも前の話なんだろ?」と、僕は言った。
「ならば今さら“彼氏然”として振る舞う必要もないじゃないか。どんなお上品な態度を取ってたか知らないけどさ」
 たっぷり二秒の沈黙。「……それも、そうだな。そうかもしれない」
 キースからの連絡を受けて僕がカートの部屋を訪れると、彼は先客に音高く頬を張られているところだった。彼女の背後では弟君が「おろおろ」を絵に描いたような様子をしていて笑っちゃったけど、普段はあまり気持ちを出さないカートが完全に驚愕してたのも愉快で、休日にわざわざ外出した甲斐はあったってところ、――と、ここらで一旦読者諸君の疑問に答えておくが、君らはこんな話を聞いたことはないか? 人は用いる口調や言語によって少なからず思考を規定されると。要するに口から出す言葉と脳内のそれとがちぐはぐであるとふた通りの思考が働いて二倍疲れるので、ちょっとの間でない限り俺は両者を統一させている――キースはといえば、掃除をサボっていたことを悔やんで今さらホコリを拾ったりしながら、カートの隣、僕の真正面に鎮座している。アーニー君は彼女の右隣、僕は左隣に座って、元カレと元カノ(Ex-friends)の会話を傍観している次第だ。うーん、まあ気まずいよね。
「いや、……」何かを否定しようとして口を開いた親友は、開いている最中に何を否定しようとしたのか忘れたらしくて言葉を濁した。「なんていうか……」
「確かに、別れた間柄だけど」対照的にハキハキと彼女は応える。「そんな大変なことになったなら、連絡をくれてもよかったと思うわ」
「君はたったそれだけの理由で人の顔を殴ったのか?」
「暴力は、よくなかった。でもそれだけが理由でもない」
「じゃあなんだよ今さら。振ったのは君だろ、何か恨むことがある?」
「別れを切り出したのは、わたしだけど、原因は貴方にあるでしょう」
 彼はぎょっとしたのか、怒りを覚えたのか、どちらとも取れる表情で目を見張った。
「驚いたな! そんな台詞を吐くようになっていたとは。月日は残酷だね」
「そうね。貴方も変わったわ。わたしにはそれが嬉しいけど」
「は?」
「一緒にいた時、言い合いなんて、したことなかった。……させてもらえなかった」
 虚をつかれた風に、また彼は黙り込む。意味を掴みかねている正面と反対側をよそに、僕はなんとなく話を解して呆れてしまった。人は成果の得られない試行を、何度も続ける気力を持たない。ダメだった、が続くごとに段々、トライする気もなくなるものだ。こういうのを学習性無力感と言うんだそうだが、なるほど愛する恋人に対して覚えたくはない感覚である。
「つまり、一方的だったってこと?」相も変わらずこのゴリラは的外れ極まりない。
「違うと思う、」と言ったのは弟。「言い合いにまで至らなかったってことじゃない? 兄貴が、引き下がってばっかで」
 僕は心の中で赤ペンを握り高得点を書き入れた。もちろん後者に。前者の脳筋は放課後の特別補習に出るように。いや、やっぱいいや、めんどくさい。僕は熱血教師ではない。そもそもコイツに親切に教えて差し上げる義理がない。  兄弟だから、分かるのかしら。とだけ、彼女は言った。
「僕は、」と、我が親友はきっと彼女の前で用いてたのだろう一人称を呟き、何か言おうとして、また挫折した。「……、僕は……」
 カートが何も言えない理由は大体わかっている。コイツの女性関係ってやつは概ね、毎度、こんな具合だ。関係が立ち行かなくなる理由もその原因も百も承知で、だけどどうにもできないので、どうにもならなくなって終わり、――まあ世間一般の元カレ元カノの距離感って僕は把握してないけど、別れた相手に自分が重病と告げるほうが特殊じゃないかと思うが、結局、彼女が怒っているのは、余命を自分に教えなかったことではなくて、そこに代表されるカートの在り方や関わり方、そのものに対してなんだろう。彼女の怒りは正当だと思う。なぜなら、カートは、そのせいで、関係がうまくいかなくなるとはじめから予想できているのに、付き合うんだから。これブーメランだな。
「そうねえ」僕は自分の投げた指摘が自分の額にぶっ刺さっているのに気づかぬふりして茶々を入れた。「君が君である限りそのへんはどうしようもないけど、どうしようもないのがわかってて無反省に人を巻き込むのはね。金払って面談してもらうカウンセラーならともかくさ」
 ますますカートは言葉を失う。当然僕にわかるようなことは彼自身にもわかっているし、どんぴしゃりの事実に何を抗弁できるわけでもない。しかし、まあ、こんな風に、自分に言い返す正当性がないと断じて黙り込むこと、それ自体が彼女の不満に繋がっているのだ。物分かりの良すぎる子供も可愛げがないとか言われるのと同じ。そう考えると、やや理不尽だが。
「君はさ」この際だから言うことにした。
「君を人形みたいに“扱いたくない”人のことを好きになるのに、いつだって自分から人形になってしまうんだから、世話がないよね。やっぱ病院行きなよ」
 カートはちらり、と僕を見て、おもむろに俯いた。対して、彼女はギョッとしたように、いささか非難がましく僕を見る。カートが好きになるような人なら反感を覚えて然るべきだ。主に最後んとこに。
「そんな言い方、……気のおけない仲なんでしょうけど、ちょっと、ひどいわ」
 案の定だった。
「だって病んでるよ。君がしてんのは、つまりトラウマの反復行為だろ。そうしてしまうこと自体が悪いとは思っていないけど、君はそれで他人を悲しませるとわかっているのに改善しない。自覚があるなら正せるんだから」
「確かに、彼が……自分の気持ちを、訴えてくれないことには、わたしも怒ってる。だけどそんな風に、」
「いいんだ」呟いたのは彼。「あってる。エディは、俺が常日頃、自分自身で考えてることを代弁してるだけだ。……そうだろ」
 僕を庇ってるんだか、あえてバラして仕返ししてるのか。彼の機嫌も心持ちも山の天気がごとくなので僕にも割と判断はつかない。思えばそういうところはどうもご兄弟で良く似ているようだ。
「自分で自分を責めるよりは、他人に同じことを言われるほうがまだマシだ。だから俺の代わりに、俺を非難した。違うか」
「そーだよ。君は自分に対して、一切手加減しないからね。それでどんどんズタボロになるんだ。馬鹿野郎」
「そうだな。馬鹿だ。ニコールが俺に怒るのだって当然だと思う。俺のしてることは、つまり一種の試し行動だ。多分、そうなんだ。するべきじゃない。わかってるけど、他に、どう、振舞ったらいいかわからない。望まれてるだろう行動以外に、何をしたらいいのか。言ってほしいだろう言葉以外に、何を言えばいいのか。まるで」
 キースが疑問符を顔に浮かべる一方、弟君は面食らって、少々暗い顔をしている。あまり親しい兄弟じゃなかったように記憶してるが、それでも同じ屋根の下ずっと一緒にいる(いた)んだから、思い当たる節はいくらもあるんだろう。
「望まれている、その場に適した、自分以外が、わからないんだ」カートはまた、“周りに分かるように”言い直す。「自分がどうしたいのか、いつも分からない。正解だって思う行動を取ってしまう、……周囲が『正解だ』と思うようなことを」
 ここまで言われればゴリラにだって、具体例の一つや二つは思い浮かんでいるはずだ(ゴリラって本当はめちゃくちゃ賢いらしいけどね)。カートが自分の欲することを対人において見つけられないのは、多分、同じ、「学習性無力感」のせいだ。最も切実で危急な訴えを、彼は幼い頃、無視され続けた。そうしてじきに望むことをやめた。裏切られ、無下にされ続ける心の痛みに耐えられなかったことが、罪になるなら罪なんだろうが、僕はそうは思わない。第一、俺の問題だって似たようなもんだ。
「ごめん」そうして、こんな風に言う。「結局、……俺のせいなんだ」
 不意に、叫びだしたくなった。そんなはずはない。お前のせいじゃないと。
 でもあの時にそう言えなかった、俺が今さら、どの口で言うんだ?



 カートの様子がおかしくなったのは彼が八歳の夏、その終わり。夏休み最後の半月を病院で過ごした彼は、思えば退院直後から、もう変化していたように思う。
 ませたガキで、小賢しく頭が回る割りに純粋かつ無警戒。妙なことにはよく気がつくが肝心なとこはヌケていて、意地っ張りだが素直、負けず嫌いだが賛美は惜しまず、簡単に目を輝かせて憧れを口にする。単純なんだか複雑なんだかよく分からないが、まあ、多分、普通の「子ども」だったんだと思う。それがおかしくなった。次第に。確実に。
 ぼうっと生気のない目をして、宙を眺めている瞬間が増えた。魔法の国にも冒険譚にも、以前のようにはしゃがなくなった。そもそも本を読めなくなり、授業中ノートも取れなくなった。よく眠れないのか、血色のよかった白い肌が、青くなった。俺と話してる時、意味もなく突然泣き出すことがあった。何度も。どうしたんだと問いただしても、なんでもない、と首を振るばかり。
 そんな訳ねえだろと些か声を荒らげたら、余計に泣き崩れてしまった。しゃくりあげる声の狭間に、ゆるして、と聞こえた気がした。
 問い詰めないでくれと言われてるんだろう。言えないから苦しいのだと。だから俺はそれきり、彼が泣く理由は聞かずに、泣き出したらただ背中をさすって待つことにした。もし俺に精神医学や、あるいは虐待に関する知識があれば、彼の病状が典型的な「それ」であるとすぐ分かったろうが、俺は学のない乞食上がりだ。それにもし分かったとして俺に一体何ができただろう。俺は大人を信用してなかった。誰に相談するでもなく、自分一人で、どう解決する?
 カートがそんな風におかしくなるのは、誰もいないときか、あるいは、俺しかいないときだけで、他の人間の前ではいたっていつも通りに振る舞っていた。特に大人の前では。頭がいいのも考えもので、もし彼が自分の変化に気づかず、それを大人に悟られたら「問題になる」とは思わないくらい無邪気だったなら、誰かが途中で彼を助けてやれたのかもしれない。だが彼はその程度に賢く、大人の介入は叶わなかった。それに彼が賢かったことは全くもって罪ではない。上手くいかなかったのは、決して彼のせいではない。

 彼は姉のことが好きだった。心を病み、別人同然に壊れてしまった彼女のことも。

 何かが起きていると思い続けていた。俺は勘がよく目ざといほうだがだとしたって所詮はガキだ。彼が悪人だったとは思っていないが、――カーティスの父・スティーブ卿が、自分の屋敷に起きていた悲劇に本当に気づいていなかったのかは、甚だ疑問だ。豪放磊落な人柄で、デリカシーがないなどとからかわれていたのは知っている。だが愚鈍な人間ではなかった。むしろその対極だったはずだ。あれだけの才覚のある人物が、いくら留守がちといえ、同じ家にいて察さずに居られるだろうか、……ただ、彼にとってカートの姉は、すなわち自分の娘でもある。何もない、と思いたい気持ちが、知性を鈍らせた可能性はある。
 俺が「それ」を知ったのは、次の夏。ライ麦畑でだった。
 シザーフィールド家の別荘の敷地は広大だ。裏手の山から、少し東に抜けた方にあるライ麦畑、その先の小高い丘まで、彼らの所有地となっていて、丸々潰せばテーマパークくらいは作れそうだとよく思った。一度、ライ麦畑から丘へ広がる大地を指して、オレのスラムの知り合いに地下鉄で寝てるやつがいるんだが、ここを貸してやってくれねえか、犬小屋よか多少はマシなのを自分で建てて住むだろうよと笑ったら、それはいい考えだと施設を建てられそうになったことがある。冗談だったのかマジだったのか、スティーブ卿も変な人だ。
 その日、俺は邸に見えないカートを探しに森まで出ていた。かの弟君と違って方向感覚は確かだから、というよりそもそも道がわからなくなるほど奥に行こうと思わないやつだから、迷子になってる訳じゃないだろうが、しかし果たしてどこにいるのか。地元を離れて別荘地へと家族で移動するこの時期、俺に遊び相手なんてカーティスひとりしかいなかった。彼が見当たらないと、暇で困る。
 ふと思いつき、俺は進路を東へ向けた。天気のいい日だった。ロマンチストの彼は、金色に輝く穂の中で図鑑か何か開いているのかもしれない。単にピクニックをしてるのかも。どちらも、何が楽しいのかさっぱりわからんが。……でも彼は、そういうことが好きだったのだ。
 森を抜け、ライ麦畑へ下ろうとした頃、俺の鼓膜が何かを拾った。風のざわめきや葉擦れに紛れて、何か異様な音がした。声?――嫌な予感が、じわじわと、胸の底に滲み出し始める。思い当たる節はない。これはなんだ? オレはなぜ、こんなに心臓を早打たせている?
 眼下のライ麦畑に、筋が出来始めた。誰かが穂をかいくぐり、抜け出そうとしている。やがて金色の波間から姿を見せたのは少女だった。といっても当時の俺よりは幾分年上だ。目立つ髪型は、遠目にも判別できた。頭の両脇の高い位置からきつくカールをさせた金髪。楽しげに跳ねる、その後ろ姿。ゾッとして、俺は一気に坂を駆け下りた。
 ライ麦畑の中へ走り込んで、大声で、名前を呼ぶ。彼女はとっくに去っていたのか戻ってくるような気配はなかった。夢中で穂をかき分けて進むと、不意に、穂がなぎ倒されて拓けている空間に出た。彼が倒れていた。服を破かれ、脱がされ、……戯れに水浸しにされた、人形みたいに。
「カート、」
 零れた言葉は震えていた。どうしたらいいか分からなかった。ただ、何が起きていたのかは、それだけはついに分かったのだ。分かってみれば、ああ、いくつも、ヒントはあったのに。これ以外にないというくらい。全身にびっしょりかいた汗が、ブラウスを肌に貼り付かせ、気持ちが悪い。俺の体のどこにこんなに水分があったのかと、思うくらいに汗が出ていたのが、知らないうちに止まっていた。吹き抜ける風が体温を下げる。
 俺が声をかけてから、数秒。長すぎる沈黙のあとで、彼が静かに首を動かした。死んでしまったみたいに動かなかったからそれでホッとしたのもつかの間、目が合ってまたゾッとする。光がない。何もかも、奪われてしまったような、啜り尽くされてしまったような、空洞。
 エド、と細い声が聞こえた。俺は慌てて傍らへ寄る。
「カート、」もう一度名前を呼んで、けれど言葉が継げなかった。力なく横たわる腕を、掬い上げて、手を握る。ぐにゃりとした、されるがままの感触がひどく怖かった。カートの口の端に、唾液がこぼれていた。それがカートのものだったかは分からない。目の端に浮かぶ涙は、でも、悲しみによるものではなさそうだった。多分もう、そんなものを覚える力は、彼に残ってないだろうと、思った。
「エド、」消え入りそうな声。「おねがい、……だれにも、いわないで」
「言うなって、……だって、お前、」
「知られたら、姉さんが、へんなところに、つれてかれちゃう、……これはわるいこと、なんでしょ? ぼくが、……ぼくが、こういうこと、されてるってわかったら、姉さんがいなくなっちゃう。やだ、……やなの、いや。ぼく、……ぼくのせいで、そんなふうになるの、いや、……」
 その場で叫ぶべきだったんだろう。彼の言葉を遮って、そんなはずがあるかよ、と。お前が苦しんでることが、大人にバレて、それであの女が、その先どうにかなったところで、お前のせいじゃないと。お前が悪いんじゃないと。
 言えなかった。混乱したまま、違うんじゃないかと思いながら、何が違うのか、掴めないでいた。
「ね、……あのね、エド、……さいしょはね、こわかったけど、もうへいき、……きもちわるいけど、じっとしてたら、そのうちね、おわるの。へいきなの。……だから、おねがい。いわないで。パパとママとか、先生とか、……だれにも。……だれにも、いわないで」
 そんなの駄目だ。言おうとした口が、塞がれたように止まる。脳裏に、カートの声が響いていた。泣きじゃくりながら「ゆるして」と訴える声が。ゆるして、ごめんなさい。いやなの。いえないの。なんでもないの。ごめんなさい。
「――わかった」
 きっと今、同じことが繰り返されても、俺には出来ない。あの時のカートの望みを、断ち切ることは、きっと一生できない。



「エディ?」
 はっとした。成人していくらか声の低くなった彼が、俺の名を呼んで、気遣わしげに覗き込んでいる。ついつい過去に戻ってしまっていた。過ぎたことだ。過ぎ去った、こと。
「ごめんごめん、ちょっとぼーっとしてたよ。それで元カノとの痴話喧嘩は落ち着いたわけ?」
「痴話喧嘩って」
「何も解決していない。また彼が、自分のせいにして、お終いにしようとしてる」
「そうじゃない、……実際に、責任は俺にあるだろう。衝突から逃げているわけじゃ、」
「ねえカート。原因があるのと、責任があるのとは、違うわ」
 僕は思わず彼女の顔を見つめてしまった。彼女は毅然として、元カレを見据えたまま、言葉を探すこともない。
「わたしたちが上手くいかなかった原因が、あなたの心のありようだとしても、……それはあなたの責任じゃない。あなたが苦しくて、普通に振る舞えないのだとして、それはあなたのせいじゃない。あなたが苦しいのはあなたが悪いんじゃない。でも、あなたはいつも、それを自分のせいにしようとする」
 カートは当惑していた。分からない、と首を振る。
「どう違うんだ?……俺のほうに問題があって、それが上手くいかない理由で、だったら、俺のせいだろう。俺に問題がなかったら、うまくいってたはずなんだから、」
「問題がない人なんていない」
「……」
「今さら言っても、恨み言にしかならないって、思うけれど。でも言うわ。わたしはね、……あなたが好きなの。あなたと一緒にいたいし、だからあなたの心に、二人でいることの支障があるなら、一緒に向き合いたかったの。あなた一人が悪いのだと、押し付けて、終わりにするんじゃなくて」
 僕は彼女の横顔を見ながら、なんだか惚れそうになっていた。凛としたいい女(ひと)だ。僕の恋心は風船さながらなのですぐにどっかへ飛んでいっちまうが、いいな、と思ったことは、いつだって嘘じゃない。しかしまあそんな気軽な調子で、いいな、好きだな、と手を出すから、平手打ちを喰らいまくるんだろうな。と、軽い自己分析を終えたところで彼女が再び口を開いた。
「あなたがあなたであることが、……悪いことなわけ、ないわ。わたしは、……あなたがすきなのよ。カート」
「……」
「いいところも、だめなところも。全部含めてあなたでしょう。あなたに問題があって、あなたがだめなひとで、あなたのせい、だなんて、……そんな風に片付けるくらいなら、最初からあなたを好きになったりしない」
 感心してしまう。カートって、女性の趣味がいいんだな。生い立ちからくる反面教師か?
 正面に目を移すと、彼は彼女に言われたことをなんとか咀嚼しようとしていた。俯いて、懸命に考えている。彼女の言葉は真摯だったが、長年かけて歪められた認知がそんな簡単な一言二言で綺麗に治るわけはない。……それでも、きっかけにはなり得るか。
「まあ、そのへんにしておこう」そろそろ出番と見て、声をかける。
「君たちお腹空かない? 議題は一旦脇にのけて、優雅にディナーでもとろうじゃないか。こういうことは深刻な気持ちであんまり突き詰めてもいいことない、ちょっと猶予をあげないとね」
 それもそうね、と彼女は言った。それから、なぜか僕とまっすぐ、目を合わせる。
「あなたは、不思議な人ね」
「僕?」
「ごめんなさい、誤解したわ。……それだけ」
 おいおい、勘弁してくれよ。すごい視線が刺さってるんだが。
「はは! しかしまあ女性にビンタされることに関しては僕のほうが経験豊富だし、見直してもらうほどのいい男じゃあない、」
「ふふ、おかしい」
「はい、やめ! ピザにしよう! 僕の独断でチーズソーセージだ、いいね?」
「何の隠喩だ?」
「八つ当たりするな!」
「もう、どうでもいいけどさあ」唐突に、アーニー君が言った。「俺、ピザならマルゲリータがいい」
 その場にいた全員が、――彼女を除き――驚いた。ケーキ以外の彼の好物を、みんな初めて聞いたのである。



「ノエル・ユリシーズ?」
「はい。よろしくお願いします、沢霧大佐」
 目の前の新兵を眺め、片眉を上げる。きっちりと斜めに切られたボブカットの銀髪、海軍少尉の青い軍服。色素の薄い水色の瞳は氷や雪を思わせる。俺もまあ似たようなこと、よく言われるけど。
「いやーどうもこんにちは、お噂はかねがね、沢霧大佐」
 と、隣のチビ――失敬、海軍のお偉いさんが、絵文字のようなスマイルを浮かべて俺に右手を差し出してきた。上から失礼、と心で唱え、その手を取る。
「あー、こちらこそ……話は、よく聞きます。白井中将」
「それ大方悪評でしょう? やだなー、ぼくの評判ってちょー悪いんでしょ? 陸に言われるならともかく、ぼく身内にすら言われるからねえ、よっぽど嫌われてる……あっ泣けてきた」
「無駄話は結構です。そろそろ、ご用件をおっしゃっては」
 隣の座椅子で脚を組んでいた准将が、やや険のある物言いをした。とはいえそれは本気で嫌っているというより、慣れ親しんだイラつきを、呆れ混じりに吐き出しているような感じだ。昔から、彼らはこんなやり取りを繰り返しているんだろう。
「あ、ごめんごめん! ともくんも、忙しいもんねえ。時間もらっちゃって。とか言ってぼくも忙しいから手短に済ませるよ」
 そういや比乃准将って、下の名前、朋之だっけ。
「事前にざくっと言っといた話とほとんど変わんないよ。うちにね、将来有望な狙撃手が入ってきたんだ。それがこの彼。ノエル・ユリシーズ少尉。『Fourth』出身で狙撃科首席卒業。まあ総合首席ではないんだけど、そこはほら、……彼の障害が関わってるから、仕方ない」
「障害?」尋ねる。狙撃科首席ってことは、身体的なものじゃないだろう。脳のほう、……《機能障害》だろうか。
 ちなみに俺も狙撃科首席。座学は散々だったから、総合首席は違うヤツだけど。ついでだから解説しとくと、『Fourth』というのは正式名称・栞田教軍部所属特別養成学校、要するに軍事学校のことだ。陸、海、空、の次に来る第四の軍ってことで『Fourth』。軍事力そのものを意味する『Force』ともかけてるとかなんとか。俺は小学校からそこに所属して寮暮らしをしていた。親類が軍で自分も将来軍人になるなんてやつは、大抵ここに入る。
「そ。お察しのことと思うが、《機能障害》だ。《シャットアウト》って知ってる?」
「ああ、」俺は、だいぶ前の同僚が頭に銃弾を食らい、後天的に発症したのを思い出した。「感情、無いんですっけ」
「無いというのとはちょっと違う。自分の感情を、自分で認識できない障害だ。本人の内心では、様々な情動が起こっている。それを自覚できず、発散できないので、ストレスや心的外傷を悪化させやすい。それに、外からは無感情に見えて、コミュニケーション不全に陥る」
「そりゃ大変っすね。でも狙撃手にはいいかも」
「まさに。やっぱり君もそう思う? いやあ、よかった。お願いしにきて」
 そう言って中将は両手を胸の上に置き、大げさになでおろした。白井雪久海軍中将、……彼は『Fourth』を総合首席で出たクチだ。んで、総合首席になるようなヤツは指揮官になると相場が決まってる。尋常じゃなく頭のキレる異常者だけが首席を取る。つまり、比乃准将だっておかしいんだけど、まあそれはいいや。
 本人も言っていた通り白井雪久は悪名高い。彼は名前をもじって『白雪』なんてあだ名されているが、響きのきれいさを裏切って、これは確かに「渾名」なのだ(「あだ名」って本来蔑称に使うもんなんだぞと俺に教えたのはもちろん蔵未だ。細けーよな、ホント)。
 しんしんと降り積もる雪のように、灰の雨を降らせる。灰とは遺灰だ。雑兵の。
 彼はあらかじめ死ぬ兵を決める。最小の犠牲で済むように、的確な駒運びで以って、味方の兵を捨てる。
「この子はね、才能があると思うんだな。まさに狙撃の“天才”の前でこんなこと言うのおこがましいけど、逸材だと思ってる。最高の原石だから、至上のスナイパーに磨いてほしい。海にだってそこそこ優秀な狙撃手はいるけど君には敵わない。もちろん、優れたアスリートが、優れたコーチになれるとは限らないとも聞くけどさ、まずは試させてほしいんだ。宝石を買うと言うときに、わざわざダイアを避けるのはバカだ。ぜひ託したい、……お願いできないかな」
 正直、グッとくる誘い文句。だが一方で冷静な自分もいる。彼は指揮官だ。人心を煽るのなんて朝飯前に違いない。
「どーすかね。俺、人育てるのとか、向いてると思えないんすけど」
「やってみなきゃわからないってー! ねえ? ともくん」
「さてね……私も章吾が教師に向いてるとは思いませんよ。けどまあ、向いてないとも思いません」
 俺は、軽く目を見開く。そんなふうに思ってたのか。
「まあ、色々と雑な男ですがね。案外うまくいくかもしれない。任務を加減して、弟子を取れるくらいに調節するのは、私としてはやぶさかではない。後々、見返りはいただくかもしれないが」
「やだなあ怖い、覚悟しとくよ。ま、でも、そしたら、君のお気持ち次第って感じかな? どうだろう、大佐」
「ぐえー……」  どうすっかなあ。迷う視線を、ふっと正面の新兵に向けた。新兵は話を聞いてるんだかいないんだか、何も考えてなさそうなまっさらな目を返してくる。原石、逸材、才能、ねえ。自分の感情がわからないガキ。痛みを痛みと知覚できない、病。
 そいつが狙撃手になる、ということ。
「……いいですよ」口元に手をやる。「新鮮で、割に楽しいかも?」
「ほんと! いやあよかった、ありがとう! ありがとう!」中将は万歳をして喜ぶと、すぐに手を叩いた。
「ここんとこずっとハラハラしてたんだ、ホッとしたよ! じゃ、彼は、ここに預けていくからね。かわいがってあげてくれ。当分はスポッターでもさせてくれれば、勝手に多少は覚えると思う。育て方は君に丸投げするから、好きにやってくれ」
「なんすかそれ、……はあ、まあ。いっすけど」
「ねえ大佐」立ち上がり、帰り支度を始めていた中将が、目をくれる。「ぼくは正直、イメージと違って驚いたよ。君が」
「は? イメージ?」
「君、優しいんだねえ」
 ぴた、と動きが止まる。凍りつくとは、今の俺のことを言うんだろう。心臓を不意に刺されたような衝撃を御せないまま、俺は彼を見上げた。
「……ごめん、驚かせちゃった? そんな顔しないでくれよ、……ねえ君、そんなに優しくて、なんで狙撃手なんかできるんだ?」
「……言われたこと、ねえっすよ。……変な人ですね」
「そうかな。……じゃあまた」
 ひらり、と手を振り、彼は部屋を出ていく。知らずついた息は存外に深く、緊張してたんだなと思った。
「沢霧大佐」
 残された新兵は、先ほどから目をそらしていなかったようだ。首を戻すとすぐに合う。そのまっさらな瞳を見ていたら、歌の一節が、口をついて出た。
「『You never going home』」
「……なんですか?」
「さあね。気が向いたら教えてやる、――お前、こっち来たほうがいいよ、ホント」

「ま、悪人とは思わないけど。別に、善人でもないよ」
2019/09/23:ソヨゴ
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