I know,your favorite flower.


 ずっとむかしのはなし。
 ぼくのなまえは「きりは」です。きりはこういち、といいます。まだ、かける字が少ないので、ぜんぶひらがなでかいています。ほんとうは、一だけはもうしっていてかけるんだけど、きりはこう一、だと、なんだかかっこわるいので、せめて下のなまえだけでもかん字でかけるようになりたいです。それまでは、ぜんぶひらがなです。そういうことにしています。
 ぼくのお父さんは「わるいひと」です。お母さんがそう言っていました。ぼくは、お父さんもお母さんもおなじくらいすきだから、お母さんがお父さんのこと「わるいひと」っていうのはかなしいです。でも、ぼくのお父さんは、お母さんのことなぐったりけったりびんでぶったりどなったり、するから、たぶんお父さんはほんとうに「わるいひと」なんだとおもいます。ぼくはお父さんがすきだけど、お父さんがでていったあとお母さんがないてるのをみると、お父さんのことがきらいになります。母さんをなぐるくらいならぼくをなぐればいいのにな。お父さんはぼくのことけったり、なぐったりすることもあるけど、やっぱりお母さんのことなぐったりけったりするほうがおおくて、お母さんがかわいそうです。お母さんはないてばかりいます。でも、お父さんもすこしかわいそうです。お父さんはお母さんをなぐったりけったりしても、ぜんぜんたのしそうじゃありません。なんだかちょっとつらそうです。おこったかおをしてるけど、めはとてもさびしそうです。たのしくないならやめればいいのに、なんでかなぁ、とおもいます。
 さいきん、本をよみはじめました。かん字のれんしゅうをしています。

 愛、という言葉を知りました。でも意味はよく分かりません。お家にある本を読んでいると時々この言葉がでてきます。多分、これはいい言葉で、大切な言葉なんだと思います。だから書けるようにがんばりました。最近、小学校に入って、先生と仲よくなったので、分からなかった言葉は聞きにいったりしているのですが、この前読んだ本の中に「カンタンに人に聞くのはよくない」と言っている人がいたので、愛、という言葉の意味は、自分で探そうと思います。そのことをお母さんに言ったら、ジショを買ってくれました。ジショにはこう書いてありました。
【愛】あい…1.親兄弟の慈しみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。
      2.男女間の、相手を慕う情。恋。
      3.かわいがること。大切にすること。
      4.このむこと。めでること。
      5.愛敬。愛想。
 何だかどれもピンと来ません。 愛って、一体なんなのでしょうか。


 射し込んでくる日が眩しい。俺はぐうっと目を細め、車窓から街路樹を眺めた。依然車は市街地を抜けない。目指す先は郊外で、少なめに見積もったってここから一時間はかかるだろう。俺は退屈なドライブをまだまだ満喫しなくちゃあならない、__そう思うと、自然溜息が漏れる。
 俺は隣の戦友に、恨めしげな視線を向ける。蔵未はただただぼんやりと車の外を見つめていた。さっきからずっとこんな調子だ。何を言っても生返事、顔をこっちに向けもしない。会話ってもんが成り立たねぇ。その内俺も不貞腐れて街路樹なんかを眺めだし、俺らは喧嘩もしていないのにお互いに顔を背け合っている。
 勿論俺だって探したさ、暇をつぶす方法くらい。だけどなーんも見つかんねぇんだ。漫画でも読もうかと思った、しかし俺は車酔いに弱い。酒にはめっぽう強い俺だが乗り物にはすぐ酔っちまう、戦場ならスイッチも入るし乗り物酔いなんざなんでもないが今日はいわゆるオフの日で、漫画を読むだなんて暴挙は、しないのが得策だろう。なら音楽を聴こうか、と思った。しかしバッグはトランクの中だ。だったら寝ちまおうかと思った、だけど口寂しくて噛んでたミントガムが邪魔をする。風景に面白みはない、隣のヤツはいつまでたっても使いモンになりゃしない。……八方塞がりだ。
 あぁ、乗り馴れたジープが恋しい。粗悪なジープに比べるとこの車は少しお上品すぎる。座り心地のいいシート、静かな車内、上手い運転手、どこからも襲撃されない道路、ほのかに香るラベンダー、__落ち着かない。腰がそわそわする。車内のあまりの息苦しさに俺は俺自身を恨んだ。 ちくしょお、なんでついてきたんだ。
 俺達は、蔵未のお袋の入院先に向かってるんだ。要は蔵未のお見舞いに俺が付き合っているって訳で、正直俺がついてくる必要なんてこれっぽっちもない。じゃあ、なんで着いてきたのか。コイツが心配だったからだ。
 今朝すれ違ったときからコイツはひどくぼんやりとしていた。私服でとぼとぼ歩いてく彼に俺は後ろから声をかけ、
「あれ、どっか行くの?」
「お見舞い」
「へ?」
「お見舞い。母さんの、お見舞い」
 蔵未は実に平坦な声音で、……な? ちょっと心配になるだろ? だからついていくことにしたんだ。二、三ヶ月前もおんなじで、俺は蔵未が見舞いに行くたび毎回ついていってしまう。このドライブが恐ろしいまでに退屈なことを、知りながら。
 俺は眠りにつくための何度目かの試みをした。 今度は、上手く寝られそうだった。


 兄貴の苗字は一度変わった。兄貴の旧姓は、「桐葉」。「蔵未」はお袋の苗字なんだ。お袋は俺の親父ではない人とかつて結婚していて、その人との子供が兄貴で、つまり俺達と兄貴とは異父兄弟ってことになる。そのせいか、兄貴は昔から、ほんの少しだけ他人行儀だった。俺にはそれが居心地悪くて、__そんなの、兄貴のせいじゃないのに。
 兄貴が小学生になった頃親父とお袋は結婚した。その時苗字を「蔵未」にしたのは、親父の計らいだったらしい。大人の都合で振り回したのに、血も繋がってない男の苗字で揃えてしまうのは変だ、それは、可哀想なんじゃないのか。親父はそんなことを言ってお袋を説得したそうだ。お袋は、最後まで渋っていたけど、結局嫌々承知した。でもなんで嫌がったんだ? その理由が気になった俺はお袋に聞いてみたことがある。その時の彼女の答えは、
「別人になりたかったの。……あんな男のことは忘れて、違う人生を、違う人間として……今思えば愚かだったわ」
 まだまだ馬鹿なガキだった俺は彼女の答えの意味も分からず、そんなもんかと聞き流していた。しかし、今になって思えば、__『あんな男のことは忘れて』。彼女が最後まで嫌がったのは、「蔵未」という旧姓に戻ることそれ自体ではなかった。「蔵未」という姓に戻ってしまえば「あんな男が忘れられない」から、だから彼女は抵抗したのだ。何故、忘れられないんだ?__兄貴は、一体誰の子だ?
 多分、お袋は兄貴のことを疎ましく思ってたんだろう。
 お袋は前夫、桐葉孝介との子である兄貴を好いていたとは言い難い。兄貴は彼女にしてみれば、誰よりも憎い男の子供で、……「蔵未」、という姓は、血が繋がっていることの証。お袋と兄貴の繋がりを断ち切らないための象徴だ。彼女はそれが嫌だったんだ、血の繋がりを忘れたかった、自分と、桐葉孝介を繋ぐ全てのモノを断ち切りたかった。親父の姓、つまり「若時」になれば、桐葉孝介という存在を消し去ることができると思った。 俺は親父の選択は、間違っていたんだと思う。
 兄貴の姓が「若時」ならば、兄貴は「父さん」と呼べただろうに。
 未だに、兄貴は親父のことを必ず「若時さん」と呼ぶ。親父もまた同様に、「孝一くん」としか呼ばない。もしも俺達が「若時」だったら、もしかしたらその方が兄貴は楽だったかもしれないんだ。昔は、昔のこととして。新しい人間になって、新しい家族と、共に、__お袋は過去を捨てきれなかった。だから、兄貴も引き摺られた。
「あの子には悪いことをした。あの子を上手く愛せなかった」
 お袋はお袋なりに思い悩んでいたんだろう。お袋は、俺の前でだけ懺悔にも似た独白をして、そうやってさめざめと泣いて、だけど俺は母親のそんな姿を見るたびに、意地の悪い、毒が絡んだような、濁った棘を心臓に感じた。それは俺の心臓の底で緩やかに育って母の虚像を刺す。 ねぇ母さん。
 泣きたいのは兄貴の方だろう。
 母さんあなたは知ってるのだろうか。兄貴が高校生になった日の夜、桐葉孝介は自殺して、次の日兄貴はたった一人で父の遺体に会いに行った。列車に弾かれ、跡形もなくバラバラになった父を目にして兄貴は、__たまたま家にいた俺の薄い顔をじっと見つめて、ぼんやりと呟いた。
「俺とおんなじ顔が、死んでた」


 あの男と同じ愛で見ないで。あの男と同じ手で触れないで。あの男と同じ耳で聴かないで。あの男と同じ口で話さないで。あの男の子供のくせに、息をしないで、顔を見せないで、なんでいるの、早くどっか行って、どっか行ってよもう沢山よ、何故泣くの泣きたいのはこっち、私は、私は貴方なんか、どうしてそんなにあの男に似てるのやっと逃げられたはずなのに貴方を見るたび、思い出す、忘れたいのに、忘れたい、あの男も貴方も消えればいいどうして私の目の前に居るの? 貴方さえいなければ私は自由になれるのに貴方さえ、貴方さえいなければ、もう沢山よこっち来ないで、私にその顔を見せないで、怖い、嫌よ、憎い、痛い、私の息子は一人だけでいい、孝二さえいればそれでいいのよ、愛した人の子供だけでいいねぇ貴方死んでしまってよ、事故でも、病気でも何でもいいわ、楽に死んで、死んで、消えて、最悪な男の子供のくせに、大嫌い、大嫌い、嫌い、産みたくなんてなかったのにあんな男の子供なんて、あんな男の、似てる、嗚呼似てる、どうして消えてくれないのこれ以上私を苦しめないでもう怯えるのは沢山、沢山よ、貴方なんてあんたなんかあの人が無理矢理中に出すから産みたくなんて産みたく、なんて、毎晩あの人の夢を見るのよ痛い、辛い、やっと逃げられたのに、あんたのせいで忘れられないのよ孤児院にでも行けばいいんだわ私愛していないんだから、あんたのことなんてこれっぽっちも欠片も愛していないんだから、愛してない子を育てるなんて、無茶よ、やめて疎ましい、その目はなに、傷付いたとでも言うつもりなの図々しい、私は、私は貴方のせいでこんなにも苦しんで、貴方さえいなければ、貴方が死んでくれさえすれば、堕ろせばよかったこんなことになるなら、嗚呼、嗚呼やめて分かってるわ、身勝手よね、私が産んだんだもの、私が勝手に産んだくせにとそう言いたいのね分かってるわ、でも私だって産みたくなかったあんたなんか要らないのに、大嫌い、憎い、嫌い、そんな目で見ないでよ私もう限界なのよ、愛そうとしたわよ私だって、でもどうしたって憎いのよどうしても貴方を愛せない、かわいいと思ったことなんてないし守りたくなったこともない、誰でもいいから貴方のこと殺してくれやしないかしら、ねぇ、貴方も辛いでしょ、何だか死にたい気分でしょ、じゃあ死ね、私のために死ね、いいえ残酷すぎるわね死ねだなんて残酷だわ、堕ろさなかったのは私なんだから私が殺してあげる、痛い? 苦しい? 辛い? 私も辛いわ、貴方の首とても細いわね、この分だとすぐ逝けるわね、堕ろすよりマシだったかもしれない堕胎ってね胎児の身体切り刻んで殺すのよ、貴方もバラバラなんて嫌でしょ、麻酔もなしに切り刻まれて死んでいくのは怖いでしょ、だから、これでいい、殺したげる、暴れないでよ煩わしい、ああ、違うのね、貴方痙攣してるの、じゃあそろそろ楽になれるわそれで私も楽になる、あの男も貴方も忘れて一生幸せに暮らせるわ、左様なら、さよなら、__やめて、何するのやめて、放して、殺させてよあなたこんな奴、こんな奴、死んじゃえばいいんだ__


「孝一くん、大丈夫?……よかった。辛かったね、ごめんね、アイツ、……君のお母さん、今ちょっと変なんだ。おかしくなっちゃってるんだよ。大丈夫、君のお母さんはちゃんと、君のこと愛してるから、」
「若時さん」
「何だい、孝一くん」
「【愛】、って、なんですか」
「え?」
「愛されるって、どんなことですか」
「……えーっと」
「若時さんは、お母さんのこと愛していますか」
「うん。愛してるよ」
「孝二くんのことも」
「うん」
「【愛】って、そういうことですか」
「……そうだね。とても優しいことだ」
「お母さんは」
「ん?」
「お母さんは、ぼくのお父さんを憎んでます」
「……うん」
「憎むって、愛の反対ですか」
「難しい質問だなぁ。だけど、そうだね。反対かもしれない」
「憎まれるって、愛されない、ってこと?」
「近い」
「お父さんは、“悪い人”でした」
「うん。それは、そうだろうね」
「“悪い人”は、愛されませんか」
「あまり、愛されないかもね」
「いい人は、愛されますか?」
「そう、とは限らないけれど、きっと愛されやすいだろうな」
「じゃあ、ぼくは」
「どうしたの?」
「“いい子”になればいいんですよね」
「いい子?」
「そうすれば愛してもらえますよね」
「__そうだね。だけど孝一くん、君はもう十分にいい子で、」
「若時さん」
「……何だい、孝一くん」

「もしぼくが“いい子”なら、母さんはぼくを殴ったりしないよ」


 母の病室の前に立つ。花束を胸に抱えながら、俺はしばらく立ち尽くす。能面のような扉の向こうに俺の母さんはいるはずだ。俺は目を閉じて、少し想像する。貴方が今何をしているか。本を読んでいる? テレビを見てる? それとも壁に寄りかかり、小鳥のさえずりに耳を傾け、静寂を破ることなく俺が入ってくるのを望んでる? 俺が選んだ花束を見たら貴女は微笑んでくれますか。貴女の好きな花を知っています。スズランとユリとラナンキュラス。チューリップは嫌い、パンジーも嫌い。バラも嫌いだと言っていましたね、俺が好きだと言った途端に。もっとも俺がバラを好きなのは“彼女”がバラを好きだったからで、結局俺の感性ではなくて、俺は偽物みたいな生き物で、貴女の前にいる時はますますそんな気がします。全部誰かの真似事のようだ。だけど俺は自分でも、誰の真似なのか分からない。偽物借り物紛い物。本物は何処へ行ったんでしょう。まだ俺の中にいるといいけれど。愛想を尽かして、出てっちゃったかな。そう思うともう大分昔に捨てられたような気もします。本物の俺は、俺を嫌って、まるで知らないどこか遠くへ旅立ってしまったみたいな。もしくは、俺が。 殺しちゃったかな。
 把っ手を握ると寒気がした。冷えた金属が鳥肌を呼ぶ。白い塗装は所々、ほんの少しだけ、欠けていて、病魔が貴女をじわじわと蝕んでいく過程に思えた。そう遠くない未来、貴女が息を引き取ったとき、この把っ手の白い塗装がすべて剥がれていたらいい。その方が素敵だ。
 色とりどりのブーケを眺める。母さん、貴女はご存知ですか。贈り物というものは、意識せずとも、作為なくとも、「心」が籠ってしまうものらしい。贈る誰かのことを想って選んでいれば自然そうなる、__伝わるかどうかは別として、この花束には俺の思いが零れそうなほど注がれてるよ。母さん、気付いてくれるかな。貴女を想って選んだよ母さん、一本、一本、美しい花を。貴女はアジサイで、俺はトリカブトで、蒼で、青で、綺麗でしょ? 母さん。花瓶の位置は変わってないかな。今も枕元にありますか。花瓶にこの花を飾るから毎日水を取り替えてください。俺の想いが貴女の傍で、いつまでも咲いていればいい。貴女が花を目にするたびに、貴女を、__病魔と同様に。
 俺は一息に扉を開いた。
 すっかり痩せてしまった母が、病人の肌で其処に居る。俺が笑って花束を振ると、貴女は俺が望んだ通りに嬉しそうに微笑んだ。母さん、……大好きだよ。俺は幼い頃からずっと、貴女を愛し続けている。
「久しぶり、母さん」
「久しぶり、孝一」
 俺は病室に足を踏み入れ、母さんの元へ歩み寄る。スリッパのゴム製の底を床の冷たさが侵蝕していく。病室の窓の向こうには新緑が枝葉を揺らして、白く柔らかな日光は病室を清潔に照らす。俺はとびきりの笑顔で笑って、母に花束を差し出した。母を慕う子の瞳に映る、小さな雪、スノードロップ。俺の鼓膜の奥から響く、明るい、明るい、悲鳴めいた、「声」。




(貴女なんて死んじゃえばいいんだ。)
アジサイ、トリカブト、リンドウ、ガマズミ、オトギリソウ、クロユリ、マリーゴールド、ラビアン・ローズ、
スノードロップ。

2012/02/15:ソヨゴ
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