意識が薄れてゆく。血液が回らない。気道がぐっと締め付けられて俺は呼吸ができなくなって、視界が歪む、滲む、遠ざかる、彼女の姿が遠くなる。そこだけ切り離されたかのように手の平が脈を打ち、その脈に合わせて痛みが楽しげにダンスを踊る。今意識を繋いでいるのはその強烈な痛みだけ、だけど、段々と感じなくなって、弱まっていくのではない、薄れていく、痛みが、靄がかかって、霧に覆われ、この世ではないどこかへと運ばれていくのを感じた。あぁ閉じそうだ、瞼が閉じそうだ、このまま、俺は殺されるのかな、__姉さんに。
 麻痺し始めた感覚が微かなぬるさを皮膚に訴え、それは塩辛い液体と口の端しから溢れた唾液で、けれど悲しくて泣いているのか苦しくて泣いているのかそれとも理由なんてないのか俺にはまるで判断がつかない。それら液体を舐めとるように熱を持つ何かが肌を這う。まず涙、ついで唾液。ぬるりとした感触が滑らかに辿るように、焦らすように。熱く柔らかな姉さんの舌を拒みたいのに拒めない。舌が離れて、姉さんの冷たい手の平が俺の頬を挟んで、捕らえて、姉さん、嫌だよ姉さん、嫌、……声にならない。喉を締め付けている力は強まるばかりで緩むことはなく、姉さんの舌が近付いてきて俺はすべてを諦めた。狭まった視界に突き刺すような赤、すぐあとに覚えある感触。柔らかい、湿ってて、啄んで、押し付けて、入って、絡んで、侵して、去る。ほのかな快楽。苦痛を手放してしまいそう。きっと、きっと手放したら、手放したら、けど、__もう無理だ。
 俺は静かに瞳を閉じる。途切れる刹那、彼女が笑った。

オモカゲdreaming

 アメリア・シザーフィールド。シザーフィールド家の長女であり、俺と兄貴の姉である人だ。俺の記憶の中の彼女はとても穏やかで控えめな人で、いつも日だまりみたく笑っては俺達兄弟を愛おしげに見つめていた。俺と兄貴は年が変わらないせいもあってか喧嘩ばかりしていたが、姉貴はそれなりに年上で、だからなのかは分からないが俺も兄貴も姉貴にはやけに素直だった。兄貴の方は特にそうで、父のことすら見下していた彼が尊敬していた人がいるなら姉貴をおいて他にはいるまい。もちろんカミサマは除いての話だが、あのひねくれ者が「姉さん」なんて殊勝な呼び名で呼んでたんだからよっぽどのことだろう。俺は割と淡白だったから、ほんの少し離れた位置から二人のことを見ていたんだけど__姉貴はそんな俺の様子にも気付いていたような気がする。聡く、また清い人だった。そんな彼女も結局は神様を盲信していて、俺は幻滅した訳だけど。
 彼女は美しい人でもあった。癖の強い金髪は蜂蜜を紡いだようで、その少し長い髪の毛は螺旋階段を思わせるほど強くきつくカールしていた。いつも身に付けていた黒と真紅のドレス、コルセットも、彼女の風貌に良く似合っていて、そのバルーン状のスカートは姉貴が動くたびふわふわと揺れた。目鼻立ちも身のこなしもひどく上品な人だった。顔立ちはそう変わらないのに、性別が違うというだけでこうも変わるものなのか。彼女の声はとても甘く、春風の響きを持っていて、彼女はその声で俺を「アーネスト」とはっきり呼んだ。カーティス、アーネスト。彼女は愛称を使おうとはしなかった。名前はいじくるべきではない、などと言っていたような気もする。舌の上で転がして楽しむものではないのよ、と。
 とはいえ彼女のポリシーはあくまで彼女一人のポリシーで、それを他人に要求している場面はついぞ見たことがない。実際、両親や友達からは「アミー」と呼ばれて親しまれていたし、彼女自身それを気に入っていた。そこら辺がよく分からないのだが、他人が名前をいじくって遊ぶ分には問題ないらしい。ただ、自分が名をいじくって軽んじるのは許せない、と。__お堅いというか何というか。
 姉貴は優しい人だった。それを疑うつもりはない、つもりはないが、どこか、少しだけ、……気狂いのような一面を垣間見せることがあった。何だかぞっとするような、頭の後ろの血管がさぁっとざわめく感覚を俺は今でも覚えている。それは時折姿を見せて確実に脳髄を乱した。姉貴は狂っていたのではない、壊れていた訳でもなくもちろん歪んでもいなかった、ただ、どこかずれていた。どうしようもなくずれていた。そのずれは広がるばかりできっと元には戻らないと、そうしてどんどん崩れていっていつか本当に壊れてしまうと、ちらり見えるたび俺を不安がらせていた。そして俺の予感は今頃恐らく的中しているんだろう。 俺に、確かめる手だてはないけど。


「カーティス、カーティス。」
 名を呼ぶ声で目を覚ます。俺を呼び戻したのは彼女だ、__追いやったのも、彼女だけれど。
 いまだ酸欠気味の脳味噌はふわふわ浮いてしまっていて、意識が仲々定まらない。姉さんは俺の手の平を再び“見えざる杭”で貫いて、俺は痛みで小さく喘ぐ。実体のないその力に、逆らう術を、俺は知らない。
「カーティス、カーティス、私を見て。」
「……姉、さん。」
 座り込む俺に跨がり、両頬にまた手を添えて。姉さんは俺に上を向かせる。見上げれば、彼女の瞳は蕩けてしまっていた。スカイブルーが滲んでいる、まるで薬品に溶かされたように、重い、どろりとした質感。ふやけた意識が警鐘を鳴らす。 あぁ、×ってる。
「少し苛めすぎてしまった?嗚呼でも貴方が悪いのよカーティス、貴方が私との約束をすっぽかしたりするからよ」
「__約、束?」
「ひどいひどいひどいわひどい本当に忘れてしまったの、ひどい人、貴方ひどい人、でもいいの許してあげる、貴方は愛しい弟だから。」
 “見えざる杭”はずぶずぶと俺の手の平へ沈み込んでいき、そのたびに俺は鈍く呻いて。指先が痙攣する。約束、やく、そく、……なんだったっけ。
「今日来るって言ったくせに私のお家を訪ねに行くって、って、って言ったわ言ったくせに、貴方それをすっぽかすなんて傷ついたのよ傷ついた、私待っていたのに傷ついたわ」
「ごめん……その約束、いつしたかな」
「本当に何も覚えてないのね昨日よ昨日の23:50(トゥー・スリー・フィフティ)、貴方は私に言ったじゃない明日の正午に会いに行くよって私は貴方を愛しているからそれはもう嬉しくて思わずワインを叩き割っちゃってそれで貴方に投げつけたじゃない覚えてないのね残念だわ、でも貴方は優しく笑って私の失態を許してくれたのだから私はご褒美に額の血を舐めとって刺さったガラスを抜いてあげて、あぁとても甘美なひとときだったわだのに貴方は覚えてないのね」
「……そっか、そうだったな。ごめん。」
 昨日の23:50、俺は一人のクーデターに弾丸を撃ち込んでいた。時刻は正確だ。そいつの眉間のちょうど真ん中、美しいまでに中央に弾丸がめり込んだので、俺は記念に覚えておこうと時計で時刻を確かめたのだから。姉さんの言葉は全て彼女の夢の中での話、だから時刻も定かじゃあるまい。彼女の中に境はない、夢も現も同じこと。俺に彼女の夢の世界など共有できる訳がない。 もしかしたら、現実さえも。
 姉さんは気狂いだ。
 心優しい人だった。けれどそれゆえに繊細だった。彼女は俺ほど無神経でなく、また強かった訳でもなく、だから耐え切れなかったんだ。アーニーを突き放したことを彼女はずっと悔やんでいた。__そんな必要は無いというのに。あいつはクーデターだ、害虫だ、いる必要のない人間だ、いなくてもいい存在を突き放して何が悪い。でも姉さんは優しかった。どうしてもそう思えなかった。だからいつしか、壊れて、しまった。
 気が狂ってしまってからは昔の面影は露と消え、優しかった姉さんは俺の首を締めるまでにおかしくなって。そして運の悪いことに彼女は、成人した男でも簡単に拘束できるだけの能力を持っている。身長差も、体格差も、その能力の前では無意味。ゆえに……俺は刃向かえない。
 サイコキネシス。
 “見えざる力”は可視できないが確実にそこに存在し、俺は抵抗することもできずにその力に捕まってしまう。いつもは見えない糸によって壁やら床やらに縫い付けられて、避けることができないままに接吻されて終わりなのに、ひどい時には今日のように杭で貫かれ首を絞められる。生身の腕よりずっと強い圧迫。結局、意識がとんでしまった。
 殺されないのは分かってる。姉さんはいまだに俺を愛してくれているのだから。逃げられないのも分かってる。同じこと、俺もまた姉さんをいまだに愛してしまっている。今さら見捨てるなんてできない、俺の愛しい姉さん、例え気が違ってしまったとて貴方は俺の姉さんなんだから。今さら離れるなんて、できない。
 ふっと波が訪れて、俺はまた意識を手放す。今このまま眠ってしまえば何をされるか分からない、分からないけど、もうどうでもいい。好きにしてくれ姉さん、俺は寝ちまうことにするよ。願わくば。夢も現もまぜこぜに。
 これこそ夢であったらいいのに。

アメリア姉さんとカーティス君。 ちょっと歪んだ姉弟。

2011/04/25:ソヨゴ
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