去っていく息子の背中を見ながら、私は亡霊の姿を重ねる。私の背には柔らかな春の日差しが当たり、遠くで、小鳥が鳴く声が耳を撫でる。毛布のしたの爪先はゆっくりとかじかんでいく。肩幅は、息子の方がある。服の趣味はあの人の方が幾らか派手だったような気がする。けれど長い脚、長い腕、黒髪の感じ、……よく似てる。あの子のところまで、陽光は届かない。彼は陰の中把っ手を握りほの暗いどこかへ去っていく。私は、暖かな窓辺で日に照らされて、彼を見送る。罪人のくせに。
 ドアが閉まってからもしばらく、私はその残滓を見つめていた。
 優しいはずの背後から、寒気が忍び寄ってきた。私は、静かに髪を揺らし、枕元の花瓶を見つめる。白地に水色の文様が入った陶器の花瓶。再婚するとき、今の義母がくれたものだ。異国の、例えばヤギの乳とかを搾ってチーズにしていそうな地方の、ごくごく一般的な民家においてありそうなこの花瓶には、息子が贈ってくれた花束が生けてある。青に、黒。強い赤色。紫色。あの子の深い深い憎悪が花弁となって咲き誇っている。その鬱々とした花々の中に、私は小さな雪を見つけた。__亡霊が、耳元で囁く。
「父親と……同じことを、するのね」

Father Portrait

「白雪姫」
「え?」
「みたいだな。あんた」
 桐葉孝介は初めから、どこかおかしな人だった。彼は喫茶の店先で身を屈めていた私に対し、後ろから声をかけたのだ。チーズケーキとマフィンとの間で心を揺り動かしていた私は、唐突な呼びかけにガラスに映った影を見る。長身の男性。メタルブルーの乗用車が彼の腰の辺りから現れて走り去る。車道の先には街路樹があり、向こう側にレンガ造りのレストラン(といっても、そのレンガはコンクリートに貼付けられただけのハリボテで、ちょっと建物の間を覗けば味気ない都会が顔を出すことを私は知っている)があり、私はいい卵の色をしたそこのオムライスを思い出しつつ、振り向いた。見上げると、ガラスに映った虚像では上手く判別できなかったその顔は、
 びっくりするくらい、きれい。
 誰ですか、何の用ですか。ナンパか何か? etc。険のあるいくつかの言葉を用意していた私は、それら全てを取り落とし情けなく目をぱちくりさせた。あなたたちは、息子のことを良く知っているんでしょう。なら彼の顔を思い浮かべて、そしたら私の言う通り頭の中で弄くるといい。骨格は生き写し。でも、孝介の方がほんの少し骨張っていて、硬い感じがする。瞳は微妙に違う、彼らの目は同じショコラティエに作られているけど、香りが違うの。孝一はブラックチェリー。甘酸っぱくて微かに渋い。孝介の瞳は、バニラビーンズだった。甘く重い香り。重くて、強くて、私の手首を捕らえて放さない香り。
「俺、探してたんだ。ずっと」
 父と子の一番の違いは、空気だった。彼らをとりまく雰囲気。孝一が、自らの目が潰れても猶お姫様を助けようとしたラプンツェルの王子なら、孝介は、__白雪姫の王子。姫が息を吹き返し、もう一度鼓動が始まった途端に興味を失う逸脱者。ああでも、似てるの。あの子と彼は。ぞっとするほど。絶望的なほど。
「きれいでさ。毒林檎、齧っちゃいそうな女(ひと)」
 彼は青林檎色の目で私の瞳を覗き込み、唇だけをなめらかに動かして独り言をいう。アカリンゴ。赤林檎の色だ、と。彼は、現実離れした雰囲気と容姿を持ち合わせおりながら、拍子抜けしちゃうほど凡庸なやり口で、私を誘った。
「お茶でも、どうですか」


 あんなに可愛そうな少年を、息子として愛せなかったのはあの子があまりに似ていたからだ。(ぞっとするほど。絶望的なほど)孝一は孝介の息子。私の息子ではない、私の、茶髪も顔立ちも受け継がれなかった、彼のコーヒー色の髪の毛、彫りの深い、石膏像にも似た顔立ち、ひょろひょろと高い背、形よく整った耳たぶ、体にできる陰の、粒子、どれをとっても彼の遺伝子で構成されている、__私にとって、あの子は“孝介”でしかなかったのだ。唯一決定的に違っていた、纏う空気ですら時々、似た。五月に産まれたあの子は心地のよい新緑で、だけど時折、父と同じ、夏の空気を纏うことがあった。暴力的な嵐の前の、静かな夜。狂乱が間近にある平穏。張りつめたピアノ線。あれはいつのことだったろう、まだ、あの子が幼くて、私が丁度孝介を裏切り始めたとある日暮れのこと、あの子は三歳になったばかりで、私と一緒に夕方の海岸線を歩いていた。私たちの住んでいた街は海に面した港町で寂れた灯台とカモメだけがおり美味しいけれど食べ飽きてしまった様々の海産物をいただく以外に楽しみもないそんな街だった。沈む日が、そう美しくもない白砂をオレンジに染め上げている。幼い孝一は私の左手をぎゅうと握りしめ、それでいて、気を遣いながら歩く私をさらに気遣うようにして歩いていた。孝一は、本が好きだったせいかしらとても大人びた子で、三歳の時から既に他人の顔色を窺っていて、心が痛んだ。きっと、私と孝介のせいなのだ。怒鳴り散らし、暴力で幸せを脅かす父と、ヒステリックに取り乱し幼い息子に当たる母。分かってはいた、分かってはいたけど、袋小路から抜け出す術を私は持ち合わせていなかった。その時救いだったのは、私の手を握り、私とともに砂浜を歩くあの子の横顔が楽しげに見えたことだった。私の願望かもしれないけど。私達は何をするでもなく、きれいな貝殻も打ち上げられた半透明のクラゲも無視して、ザザァ、ザザァと、海が鳴くのを聞いていた。語り合いもせず。
 前方にぅわんぅわんと蠅が群れていた。黒い、不穏な物体がある。近頃海辺に建てられた工場が垂れ流してるらしい、化学薬品だらけの排水で汚れきった海の匂いに、紛れて、こっそり、腐臭が漂う。それは私の鼻をつく。私は、さりげなく彼の手を引き、その物体から遠のこうとした。けれど息子は、知ってか知らずか私の誘導に逆らって、真っ直ぐに歩いた。物体へ向かって。
 犬に見えたそれは、人だった。
「ママ」
「なぁに」
「これ、だぁれ?」
 孝一はそれが人間の死体であることを理解していた。死体なんて、と私は思う。見たこともないはずなのに。海を旅してきたらしい死体は焼け焦げたように変色していて、ぐずぐずに崩れ、強く匂い、まだ自分が生れでた仕組みも解していないような幼子に判別できるはずもなかった。いや、解していないだろうというのは私の憶測で、しばしば親より博識であったあの子はとっくに知っていたのかもしれない。死体も。
「……分からない」
 応答は、嘘であり本音であった。無論私は、親の葬式も経験していた25の女であったから、その物体の身元に関してある程度は推測できた。孝太、__若時孝太__と再婚してから、私達は都心へと移り住んだけれど、その頃は、私達は郊外の町外れに住んでいて、失業者も浮浪者も羽虫のように湧いて出た。飛び降り自殺にうってつけな灯台も断崖もあった。しかし勿論私には第六感の類いはなく、男女の区別もつかない体の素性が分かるほど冴えてはいない。私は、知らず知らず握る手を強くしながら其処に居た。蠅がうなる。
「ママ」
 あの子は、真っ白な美しい(それでも、当時はまだあどけない)指で、同じく白い物体を差した。骨。腐り果てた肉の合間から覗き見える純白。彼(もしくは、彼女)の心根はさぞかし美しかったのだろう。こんなに、骨が白いんだもの。
「あれ、なぁに?」
「骨よ」
「ほね?」
「そう、骨」
「ぼくにもあるの?」
「あるわ。あなたにも、私にも。人はいつかは骨になるもの」
「ぼくもいつか、ああなるの?」
「そうね。いつかは」
「ママもなる?」
 孝一は私を見上げ、不安そうに声を震わせた。見下ろせば彼の瞳は潤んで、まるで本物の果実か、もしくは、シロップに浸けたデザートみたい。彼の瞳は私の、孝介が言うところの赤林檎の瞳と重なり、甘酸っぱく呼応した。愛おしかった。
「ええ、……いつかは」
 そして、ごめんね、と言おうとした。ごめんね、あなたを置いてってしまう。だけどあの子は笑顔を見せた。ほっとしたように、頬を緩め、目尻を下げて笑ってみせた。私はその時、忌み嫌っていた夏の匂いを感じ取ったのだ。孝介と同じ夜の匂い。嵐の前の夜の匂い。狂乱が、すぐ傍にある穏やかな気配。今にも切れそうなピアノ線。あの日、私が骨になると聞いてあの子は笑ったのだった。愛らしい、愛らしい声で。
「ねぇママ、__」


 分からない。この男が分からない。現在ひとつのテーブルに向かい合って座って、目の前で、カレーライスを頬張っているこの男がまるで分からない。ついさっきまで魂のない泥人形みたいにふ抜けていたのに、今病院の食堂で福神漬けに手を伸ばす男は俺の知っているいつもの彼だ。蔵未孝一。お前が、分からない。
「食わねぇの? 沢霧」
「……あぁ、」
 戸惑いやら、訝しみやらを悟られぬようにスプーンを握る。で、苦笑。__何やってんだ。注文したのはラーメンじゃねぇか。さて昼飯でも食おうかって時に物思いになぞ耽るもんじゃない、朝飯のときはもっと駄目で、夕飯は、まあ、それなり。蔵未は俺の挙動不審を見て一瞬眉をひそめたが、すぐに気にせず食事に戻った。器用に、ルーと白米を半々の割合でスプーンにのせ口に入れている。時々、ひょいと福神漬けを掬う。小さなレプリカをスプーンの上に再現しながら食ってるみてぇな妙な食い方だ。安っぽいプラスチックのプレートの上にカレーライスはよそわれていて、全ての要素が均等な割合で減っていくせいか、だんだんと縮小していくようにも見える。
「いつもはかき込むくせに」
「そりゃあ、軍隊は時間命だからな」
 此処ならのんびり食えるだろ、と、蔵未は食堂を見回す。つられて見回せば、当たり前だが軍とはかなり雰囲気が違った、白くて、明るくて清潔で、病的。心の休まらない静けさが狭いスペースに充満している。開放的な印象を作り出す為か、四方の壁は、二話に面しているに面だけガラス張りになっていて、病院ご自慢の中庭と散歩している車イスの患者さん方がよく見える。逆効果だ。お昼時から少しズレたせいか、食堂には俺達しかいない。街の食堂よろしく、壁には値札もチラシも貼ってあるってのに、親しみやすさはない。緊張する。
 俺は、顔にかかるどんぶりの湯気が薄まりつつあるのを感じ、だけれど箸を持てないままで蔵未を眺めた。昔俺は、この男に不本意な評価をいただいて(お前、ずるいよ)、そん時は得意のあしらう笑みで受け流したが俺は未だに(俺のことはお見通しなくせに)、納得してない。よく言うよ、俺はお前のことなんて全然分かってねぇよ、そうだな、俺は確かに隠してるかもな、お前が知る必要も、俺がわざわざ見せる必要もないと思うから隠してるよ。だが、……もしかしたら、と俺は思うんだ。お前自身もよく分かってないその、場所に、もしかしたら、答えは。
「なぁ、蔵未」
 意を決するタイミングってのは、どこでくるもんか分からない。銀色のスプーンの上に新たなレプリカを作ろうとする彼の姿を認めて俺は、本当に、全く唐突に、この瞬間尋ねると決めた。なぁ、お前の××って、__蔵未は不意と顔を上げ、俺と目を合わせ、__アイツはいつだって間が悪い。アイツは俺の決意なんか欠片も読みとらずにぷるぷると震え出して、そんで、
「……ぶほっ、」
 吹き出しやがった。
「ちょっ、おまぶほっ、なに、なにそれやば、ぎゃははははなにそれやばい、」
 彼はスプーンを宙に浮かせたまま嗚咽するように爆笑した。明らかに、腹筋使ってる感じの笑い方。彼は作り途中だったレプリカごとスプーンを皿に放り投げ、額が、テーブルにつきそうなくらいうずくまって震えた。俺は完全に置いていかれた形で、多少なりともむっとしながら別の用件を尋ねる。
「人の顔見て笑ってんじゃねぇよ。何? なんかついてます?」
「ぎゃは、ついってるっつーか、あの、ぎゃははは睫毛、睫毛見てみ」
 彼の手がテーブルの隅の長方形のカゴへと伸びる。深緑の布が取り払われて、細い五本の指は未使用のスプーンを掴み、俺に突きつける。その手は吃驚するくらい真っ白で、どちらかというと浅黒い彼の体からは浮いていた。つっても、肩から順々に視線を移していけば、その白は、日焼けした浅黒い肌から次第にグラデーションを作り出し、上手くなじんでいるのだけれど。突きつけられたスプーンに俺の姿がゆがんで映る。膨張した自分の顔に四苦八苦し目を凝らすと、ようやく、……俺にも異変が見えた。
「水滴?」
「正解」
 お前、睫毛なっげーのな。 しつこく笑い続ける親友に蹴りの一つも飛ばしたい気分だ。そりゃ滑稽かもしれないが、腹抱えて笑うほど面白いですかね、ったく。俺が指で水滴を拭うと蔵未は苦しげな声で、絞り出すように言った。女みてぇ。
「はぁ、悪かったな女みてぇで」
 自覚は、している。俺は女顔だ。ガキの頃は女の子に間違えられるなんざしょっちゅうで、俺はそれが嫌だったから軍人になると決めたのだ。勿論理由は他にもあるが、主たるいつかの理由の一つにそれがあったのは事実だ。俺は、男らしくなりたかった。中身は少しも女々しくない(……つもりなんだけど)のに見目で間違われるのが嫌で、ちくしょう、さすがにこの歳になって言われる羽目になるとは、__そっか。コイツに、話したことなかったな。
「俺らってさぁ、」
「はは、は、んだよ」
「案外、なんにも知らねーな。お互い」
 呟きはころりと転がって、俺らのちょうど中央で止まる。寂しい音に驚いたように、彼の笑いはふっと止む。
「……そう、かもな」
「ずっと。気になってたんだけど、さぁ」
 どうして、お前は空っぽなの。どうして壊れてしまったの。どうしてあの人が忘れられないの。どうして死にたいの。なぁ、なんで? 何が欲しいの。なんも欲しくねぇの? 嘘つけよ、飢えてんだろ、焦がれてんだろ、何かに。何か、温かいものに。大切なものに。なぁ、なんでお前は、母親に会いに行くたびにあんな目をするの、あんな、どんな光も届かないような目をするの、なぁ、なんで? なんで? どうして? どうして、幸せになれねぇの。
「お前の母さんって、どんな人?」
 水の音。食器がカチャカチャなる音。遠くで、病人の名を呼ぶ看護師の声、ざわめき、その他。壜と壜が鳴る音、擦れる音、スリッパの、重みのない足音、白衣がばさばさいう音、遠い場所で行われている他の誰かの日常の、立てる音以外、何も聞こえない。広い病院の一角で俺らは向かい合って黙った。ラーメンはもう湯気を立てない。麺もスープを吸って伸び始めていることだろう。俺は、蔵未の口が開くのをただ待っていた。恐れながら、願いながらただ待っていた。太陽に雲がかかったのだろう射し込む光が灰色になる、強すぎる光が弱まって俺は安堵する、明るい光は、俺の大事な親友を追いつめてしまうような気がした。蔵未は、その暗赤色の瞳に俺じゃないものを映し、ここじゃない場所にいた。やがて、彼の長い回想が終わり、__彼は、言う。
 取り憑かれたように。



(ママも、いつかしぬんだね。 すてき)


 よく似てるな、と思った。
「はじめまして」
「……どなた?」
 彼女はぼんやりと、枕元の、花瓶を見つめていた。何か、奪われるような、注ぐような雰囲気で、じっと見つめていた。生けてある花々は例外なく毒々しく、花瓶ののるテーブルの上には花束の残骸らしきものがある、これは、彼が贈ったものなんだろうか。そう思いたくなかった。俺が歩み寄りながら声をかけると、彼女は振り返り、長い髪をゆるりと揺らして首をかしげる。その仕草は、もう五十近い年のはずなのに少女のように見え、俺は、美しい人だなぁと思った。そして同時に、似ていると。
 顔立ちは父親の方に似たんだろうかだいぶ違ったが、纏う雰囲気は母子で似ていた。もしや、彼女もアイツと同じ五月の生まれなんだろうか。夏の手前の爽やかな緑。
「蔵未の、__孝一の、ツレです」
「そう。着いてきてくれたの?」
「はい」
 対人用の笑みを浮かべると彼女もまた同様に、人当たりのよい表情を作る。どうぞ、座って。言われるままに、ベッドの脇におざなりに置かれたパイプイスに腰を下ろす。彼女の肌は、ひどく白い。
「ありがとう。いつもいつも、迷惑かけてるでしょう。あの子」
 ええ本当に、と言いかけて、慌てて取り繕う。いえこちらこそ。俺の本音を見抜いたのだろうか彼女はふふと品よく笑う。軽くまげてまるめた指で口元をそっと押さえる。瞳は、これまたヤツによく似た深い暗赤色だった。けれど、こちらはもっと純粋な、混じりけのない赤色で。アイツのは、ちょうどカカオの濃いチョコレートにチェリーのジュースを混ぜ込んだような、少し茶色い色をしている。彼女の赤は、喩えるなら、
「いいのよ、正直に言って」
 ……くりくりと開かれた目はやはり少女のように大きかった。若い頃はさぞかし、美人だったことだろう。年齢さえ違えば、と、疚しいことを考えかけて慌てて取り消す。ヤツに殺される。
 ふと目を逸らすと、雪が降っていた。
「あれ、」
「あれ? 花束のことかしら」
 彼女は再び花瓶に目をやり、俺は小さな雪たちを指差す。黒、沈んだ青、赤紫、濁った贈り物の中でそれは救いのように白かった。
「スノードロップ、ですよね。花言葉は確か、」
「『希望』。__だと、思うでしょう?」
 思わせぶりな問いかけの、答えが分からず戸惑う。彼女はゆっくりと、ゆっくりと、笑い声を立て、ゆっくりと、静かに長く長く笑って、その、真綿に水が染みゆくような狂気の滲む笑い方を俺は知っていた。忘れられない。俺が彼を一度“諦めた”日に、彼が立てた笑い声。歯車が徐々に噛み合わなくなっていくような、控えめな、狂気。
「私も、あなたと同じことを言ったわ」
「同じこと?」
「『希望』でしょ、って。孝介、__あの子の父親にね」
 彼女は白く細い腕を伸ばし、彼のコピーのように美しい白魚の指で雪を抜き取った。小さく、可愛らしい花。希望を背負うに相応しい、花。
「孝介が一度だけ、私に花を贈ってくれたの。孝一を授かったことが分かった日にね、一度だけ。スノードロップだけで作られた小ぶりのブーケ。嬉しかったわ。あの人が贈り物を、なんの悪意もない贈り物をしてくれるなんて初めてだったの。私は阿呆らしいくらい喜んで、ありがとうと言ったわ。これ、スノードロップよね。花言葉は『希望』でしょ、って。そしたら、……彼、なんて言ったと思う?」
「……分かりません」
「あの人ね、__」
 答えに、背筋が凍った。
 待ってくれ、俺はさっきその言葉を食堂で聞いたばかりだぞ。アイツは知ってて言った? それとも、__俯いた彼女の横顔の、暗赤色。シロップで煮詰めた赤林檎の色。果実の甘酸っぱい赤は、戦友のブラックチェリーに通じる。
「スノードロップはね、贈られたときだけ背負う意味が変わるのよ」
 閃光弾が破裂する。たった数分前の記憶が脳裏に、焼け付くように浮かんだ。蔵未はあの健全だが病的に明るい食堂で寸分違わぬ台詞を吐いたのだ、「おめでたい女」。ただ一言。亡霊に取り憑かれたように澱んだ瞳でそう言ったのだ、あの時、俺は生温い、なのに心から冷たい風に吹かれた気がした。嵐の前の、穏やかな夜を思い出した。似ている。“この人達”は似ている。彼女の白い肌と、林檎色の瞳を見て俺は連想する。白雪姫。白雪姫だ。何度殺しても蘇る、おぞましい、美しい女。

「『あなたの死を望みます』」

 呪い如きで死ぬはずがない。
王子様と、白雪姫の息子。

2012/04/26:ソヨゴ
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