ニセモノfinding


 すでにつなぎを脱いでいた彼は、ジーンズを履いただけの姿でぐるりと部屋を見回した。元々物は少なかったが本当にもぬけの殻だ。まるで最初から誰もいなかったみたいだと、彼は人生で何度目かの感傷に浸る。最も、今回は一つだけ……失う物が多いのだけれど。
 首筋に手を置いてから、彼は真っ黒なシャツを手に取った。静かにその黒シャツを羽織り下から順にボタンを留める。上のボタンは2、3個開けて、そこから白人らしい肌が見える。それが終わると、彼は再びしゃがみ込んだ。ほかの衣服を丁寧に畳んで、シンプルかつ少ない荷物を革のトランクに詰め込んでいく。普段の彼をイメージすると少し意外な気もするが、__そもそも“普段の彼”、自体が。
 彼は勢いよくトランクを閉じた。古びた金属の留め金を、パチン、パチン、小気味よく下ろす。立ち上がる拍子にネックレスが鳴った。彼はチャームを手に取って、それを握るようにして鎖の輪へ指を掛ける。ぐっと指に力を込めると細い鎖が張りつめた。あと少し、力を、かけたら、__きっちり十秒間の沈黙。
 結局、彼は鎖を放した。


 行ってしまうのだろうか。
 彼の兄が現れた日から、上手く会話が続かなくなった。今まで通りでいようとしたけどどうしてもちらついてしまう、あの日の、彼の瞳。彼のそばにいたならば「生きてはいけない」と思った。透明で美しい空は近付いてみれば残酷で、そこは人が生きられる居場所ではなかったから。空気のない、冷たい世界。心を凍り付かせるような、研ぎ澄まされた、張り詰めた、__息ができなくなりそうだった。
 私が愛した人は、“偽者”。
 きっと私も残酷なのだろう。近くにいたのに遠かった彼に、勝手に恋をして、近付きたくて、無理矢理腕を引っ張って、そうして覗き込んだ途端に、……私は彼を拒絶した。
 私が愛したのは虚像で、本当はいない人だった。でも、偽者と分かっても、それでも私は忘れられない。表情も仕草も全部、偽りと知ってしまったけど、だけど私にはどうしても……すぐ隣にいたのだから。
 涼やかで、心地よい声を持っていること。ネックレスを付ける時、必ず一回で成功したこと。少し骨張った手を持っていて、包丁さばきが上手かったこと。ベッドに倒れ込むときは、いつも背中からだったこと。拗ねた時、唇の右端がほんの少し上がること。頬杖をつく時は、手の平に頬を置いていたこと。オレンジが好きなこと。猫の扱いが上手いこと。寝付きが異常に良かったこと。うなじに手を置く癖があること。 くしゃりと、人懐っこく笑うこと。
 ずっと見ていた。好きだったから。好きだから知りたくなった。彼の何もかも、全部、全部。彼が隣にいることが「当たり前だった」事実が、どれだけ幸福だったかなんて。きっとあなたは知らないだろう。
 今までずっとわがままを言って、あなたを困らせてきた私。もうこれ以上わがままは言えない。行かないで、なんて言えない。どうか“レンド”のままでいて、私が愛した人のままで、__どの口で言えというのだろう。ねぇ「愛してる」なんて、あなたにとっては陳腐な言葉? ねぇ、ウソじゃないんだよ。私が愛した人が“ウソ”でも、私の気持ちは、ウソじゃない。ねぇ愛してる、愛してた、たとえ“ウソ”でも、“偽者”でも、私はあなたが大好きだった。あなたはどこにもいないんだとしても。
 私はやっぱり、愚かなのかな。


 死んだはずだった。死ぬはずだった。いなくなるはずだった。それでいいと、思っていた。俺が消えて、それで終わるなら、もうそれでいいと思っていたんだ。このまま“偽者”に譲り渡して、亡霊でしかない俺は、ゆっくり消えていってしまおう。そんな風に考えていたんだ。
 なぁ俺は、あの日一度、死んでしまった存在だから。いなくなっても、良かったよ。そんなことできるかどうか不確かではあったけど。消えてしまっても良かったよ。君が愛してくれたのは、俺ではなかったのだから。俺は君が幸せならそれでいいと思ってた。だって俺は、君のこと、__いや、これはどうでもいいことだ。 引きずり出したのは君だ。
 綺麗なままでいたかった。
 憎しみなんて抱きたくなかった。でも俺は、そう強くもない。忘れ去りたいと願うたびますます鮮明になっていく。 ×してしまいたい、ぐちゃちゃになるまで、いくらでも傷付けて、俺が感じた痛みの幾倍も感じながら死ねばいい。 どろどろとそんなことを思った。そして思うたび怖くなって、いつか呑まれてしまうんじゃないかと、欠片だけでも残っていた俺は本当に別の化け物に、なってしまうような気がして、必死で抑え込もうとして、何度も、何度も、なのに溢れ出してきそうで、……そんな時、君に出会った。
 それまで一時も忘れることの出来なかった感情、憎しみ、殺意、真っ暗な想いが、突然あやふやな物に変わった。なぁ君といると、そんなこと忘れられたんだ。束の間、瞬間、短い間ではあったけど、だけど確かに忘れられたんだ。それがたまらなく嬉しかった。いつまでも傍にいたいと思った。
 嫌われたく、ないと思った。
 俺の奥底にある物を、もし君が、覗いたら。どうなるかなんて目に見えていたから。蓋をした。鍵をかけた。そうして偽者の自分を作った。自分自身への、“貸し”として。どうしても傍にいたかったんだ。
 でも“借り”はいつか、返さなきゃならない。
 やっぱ神様はいないな、ボロウ。多くを望んだつもりはないのに。出会わなければ良かった、なんて、思いたくなかったよ。心と一緒に身体まであの日のうちに死んでいたなら。きっとそれが、最善だった。ボロウ、俺らは出会わなきゃ良かった。
 ×したりして、ごめん。


「レンド」
 彼は“彼”を呼ぶ声に振り向く。見れば戸口には彼女がいた。ストロベリーピンクの髪は珍しくまとめられていなくて、瑞々しいその毛先は胸元にまで垂れている。きらりと、ネックレスが光った。
「行くの」
 発せられた言葉は、問いであるようにも、諦めであるようにも、そのどちらでもないようにも、聞こえた。彼はあえてはっきりさせずにトランクを拾い上げる。少し錆びた取っ手の金具が、ぎっ、と小さく軋んだ。
「行くよ」
 後に続いたはずの言葉を呼吸とともに飲み込んで。 言うべきことじゃない。責めたい訳じゃない。泣いてほしい、訳じゃない。 泣き出したいのは俺の方だ。
「私に、止める資格はないよね」
 こんなことを言った時点で、と彼女は自らを責めた。 すでに引き止めているも同然。 だが、彼は行ってしまうだろう。今の彼はもう優しい“彼”ではないのだから。わがままは、切り捨てられる。それくらい、彼女自身にも分かっていた。
「それじゃ、」
 彼は彼女の脇をすり抜けそうかの先、勝手口へ向かう。彼女はリビングのドアに留まったまま、そっと振り向いた。彼は見向きもしない。靴を履き把っ手に手を掛ける。
「__レンド」
 再び聞こえてきた呼びかけ。彼はその動きを止めた。いまだ振り向こうとしない背に、彼女は声を投げつける。 責めるようでいて、嘆くような。
「最後に一つ、聞いてもいい?」
「……どうぞ」
「あなたは、“私”を見てくれていた?」
 どうしても知っておきたかったこと。近付こうとするたびに、彼はするりと逃げていく。自分に触れさせない代わりに、彼は彼女にも触れてこなかった。彼は、誰を見ていたのだろうか。相棒でしかない私? それとも……“私”?
「__俺は、」
 小さな小さな嘆息のあとに、彼はようやく振り返った。把っ手には手をかけたまま。 彼女の瞳を、真っ直ぐに見据えて。

「“フィリア”、君を愛していた」

 そこで“彼女”はようやく気付いた。何もかも自分が間違っていたこと。愛する人を裏切っていたこと。自分のわがままの残酷さを、愚かにもやっと実感した。彼は把っ手に、力を込める。あぁ、行ってしまう、やっと分かったのに、やっと本当の事を、やっと、待って、待って行かないで、「アーネスト!」__扉は、音を立てて閉まった。
 倒れ込むように、彼女はその場へ座り込む。つぅ、と一筋、遅すぎる涙が伝った。もう何もかもが今さら。何もかも、遅すぎた。彼は最後に“私”を呼んだ。あなたも、私も、遅すぎた。ねぇ、アーネスト、アーネスト、私が、私が本当に、愛して、いたのは、……浮かんでくる笑顔も、声も、“ウソ”なんかじゃなかったのに。今さら気付いたよアーネスト。私が愛していた人は。私が、愛していたモノは。

「あなたの全てだったよ、アーニー」

 けれどもう、彼は隣にいない。
どれも偽りじゃなかったのに。

2011/06/28:ソヨゴ
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