沢霧章吾大佐。
 27歳、8月6日生まれ。身長190cm。体重83kg。栞田教唯一の軍事学校を好成績で卒業したのち軍に入隊、今に至る。現在、栞田陸軍狙撃科狙撃班所属。階級は大佐。
 そして、俺の親友だ。

エンキョリhurting

「あーっ腹減った! 早く行こーぜ」
 昼飯昼飯、と鼻歌まじりに、隣を歩く戦友は俺を追い越して先に行く。その広い背中を見ながら俺は内心で嘆息した。もちろん歳に見合わない彼のはしゃぎようや、その、俺より軍人らしい体格に嘆きを覚えたわけではない。
 沢霧は謎の多い男だ。
 俺は俺の戦友のことを“誰よりも”知っているつもりだ。けれど俺は彼の全てを、いや、その半分ですら、知っている自信はない。別に知りたいわけでもないけど、アイツは俺のほとんど全てを知っているのだろうと思うと、悔しいような、情けないような、何とも言えない心持ちになる。俺はアイツの好きな食いもんも嫌いな酒も吸ってる煙草も使っているシャンプーの銘柄だって知っているけど、さて、心の中はといえば、……それは「知らない部分が多い」というよりはむしろ、心を覆う薄い薄い幾枚かのベールのうち、まだ最初の2、3枚しか剥がせていないような印象。
 隠しているのでは、なくて。それより酷い、__触れさせないんだ。
「……どーしたの蔵未」
 暗いカオしてんね、と。 振り返った沢霧は、俺の表情を窺った。
「……気にすんな、別になんでもない。」
 どう口に出せというのやら。体よくあしらうことに関してはスペシャリストなお前相手に! そもそも俺と沢霧の距離ってモンは実に微妙で、そう、別にこれ以上、近付きたいって訳でもないんだ。このくらいの距離でいい、距離がいい、いいん、だけど……
「お前が『なんでもない』って言うときなんでもなかった試しないんだけど」
「おぉそうか、じゃあ史上初だな」
「__何、あくまで誤摩化すつもり」
 悩んでるんなら、ちゃんと言えよな。
 拗ねたような声音で彼は、俺の頬を指でつっつく。振り払おうかと思ったが面倒なので放っておいた。悩む、というほどのものでもない。明るい気持ちでないことは確かだが対して沈んでいるでもなく、ちょっとだけ、もやもやするだけ。薄いベールの向こう側がある程度予想できる分、却って気分は重くなる。分かってるんだ。もはやこの軍に、まともな精神のヤツなんていない。ましてや、章吾はスナイパーだ。
 歪んでない訳ないじゃないか。
 俺が殺すのは人間だが、それと同時にただの数字だ。一人一人を認識している暇なんてなく、残るのはデータ。何十万では済まない「人数」のせいぜい三桁が変わるだけ。俺達が受ける訓練は「人を人とは思わない」ヤツになるための訓練であって、「人を殺す」ためのもんじゃない。
 では、狙撃手は?
 彼らが受ける訓練こそが「人を殺す」ためのもんなんだ。狙撃手が一つの任務で殺すのは、いつも一人だけ。狙撃手は実に長い期間標的を監視し続け、__友人と呑み交わす姿も、娘へ向ける微笑みも見た上で__その頭を、もしくは胸を、確実に撃ち抜かなきゃならない。まともな神経じゃとてもできない、決定的に歪まなくては。自分と同じように息をして食べて飲んで笑って泣いて、大事な人がいて大切に想われて、そんな相手を殺すことに何の躊躇いも覚えないように。沢霧には、それができる。彼はこの軍で一番の実績を持つスナイパーなんだ。
 俺は沢霧のスナイプを見たことがないけれど、目にしたものは必ずこう言う。__彼の狙撃は美しい、と。当たり前に、あるがままに、何の不自然も不可思議もなく静寂のうちに幕を下ろす。彼の狙撃を見た者は誰も動揺しないらしい。標的が死ぬことを「知っていた」、そんな風に感じるらしい。その場にいた全ての者が標的の死を“運命”だと感じる。__彼についた異名は、「預言者」。
 神が定めた運命を、ただ一人、知っている男。
「……なんでもなかないけど、話すほどのことでもない」
 しばらく間をおいてから、一言。訂正だけして指を振り払う。沢霧はやや不満げに眉をひそめはしたものの、そのうちに諦めたようで食堂に向かい歩き出す、俺もまた同じペースで、彼の後をぶらぶらと追った。食堂への道のりは、長い。
 その道中で考えたのは、やはり李伶のことだった。

 李伶・アルル・ベルレイン中佐。
 23歳、誕生日は不明(沢霧はどうやら知っているらしいが)。身長162cm。体重、……は知ってちゃセクハラだ。元々は栞田教でなく、クレイベット教の陸軍に所属していたそうだ。階級は中佐だが実力は俺らとそう変わらない。女性ゆえ、出世を阻まれたってとこだろう。現在は傭兵。栞田軍に雇われの身。
 で、キチガイだ。
 アイツが沢霧にぞっこんだってことくらい鈍い俺でも知ってる。というか、さすがに見りゃ分かる。彼女の黒髪によく映えるメッシュのような銀髪が、実は沢霧の地毛だった、なんて。知ったときはさすがに引いた。恋する乙女は恐ろしいと聞くがアイツはちょっと常軌を逸してる。異常だ、__沢霧の、アイツに対する態度も含めて。
「よー蔵未、会いにきたぞー」
 アイツは沢霧と会うと必ず、痣だらけになっている。その意味が分からないほどとぼけた男なつもりはない。沢霧が李伶に何をしているのかくらい、いくらなんでも察しはつく。そしてその事実は沢霧が、たとえ歪んだ形だとしても李伶を愛していることを、俺に気付かせてしまうんだ。
 李伶はきっと、俺より沢霧に“近い”んだろう。
 沢霧が女に冷たくするなんて振るとき以外有り得ない。優しくして、甘やかして、散々愛を囁いてからボロ雑巾よろしく捨てるのが沢霧のいつもの恋愛である。__知らなかった? アイツ仲々いい性格してるぞ、__それが、李伶へのあの態度はどうだ? ひどく恐ろしく厄介なことに彼は李伶を愛してる。しかし何故だかその事実を、彼はかたくなに拒み続ける。
 皮肉なことだ。 「愛していない」と思い込むために振るう暴力が“愛”を表す。
 俺と沢霧の付き合いはお互いが入隊してから、かれこれ七年近く続いてるが、それでも知らない事はある。お互いにそうだ。俺が李伶と出会うより前に彼が李伶と出会っていたことも、つい最近、ひょんなことから知った。聞けば彼らは学生時代、つまりは栞田教唯一の軍事学校で出会いを果たし、(ヤツの話を鵜呑みにするなら)二人は恋人同士だったらしい。……だが、ここで当然浮かんでくる疑問。
 ではどうして李伶は、栞田軍に所属しなかった?
 詮索するべき事柄でもない。俺は同期の友人に興味無さげな相槌を打って、その話をやめさせた。気にならないと言えば嘘になるがじゃあ知ってどうするってんだ? 正直、俺には、愛の正しい形が分からない。俺の間って正しくはなかった、もし正しい愛だったなら俺は、__暴力は、間違いなんだろうか。愛するゆえに傷付けるほどの激情が間違いだとは、俺にはどうしても言えなかったんだ。痣を作って血を流して、それでも幸せそうに笑ってる李伶の、ほんの少しの影に、……思うことがないでも、ないけど。
 いつから分からなくなった? “普通に”誰かを愛する術は。誰が答えをくれるんだろう、誰が正解を知ってるんだろう。もしかして誰も疑わないのか? 自分の愛が正しいか、なんて。何が正しくて何が間違いで何が清くて何が汚れて、考えるほど、分からなくなる。ただ一つ確かなことは「愛している」ことその事実だけ。他に、何も無い。彼女達が幸せかどうかも、俺達が、幸せかどうかも。
 みんな軽々しく、「愛」なんて言葉を口にする。自分の愛を疑いもしないで。
「__似たもの同士か」
 何だって、器用にこなすのにな。変なとこ不器用だよ、お前は。


 いっそ殺してしまおうか、と考えた夜もあった。いっそ俺が彼女を殺して、俺も後から追ってやろうか。……だけれどそう考えるたびに戦友の姿が浮かんで。生きてくれ、なんて身勝手で、残酷な願いを受け止めて、まだ生きてくれている彼。そんな彼を置いて俺一人さっさと逃げ出しちまおうなんて、……もっと言えば、俺の愛する人はまだかろうじて生きてはいるのだ。愛する人を失った彼の慟哭を知っていながら、彼女を殺す。出来るか? そんなこと。俺はきっと李伶を殺せる。だがもし俺が李伶を殺せば、蔵未は、どう思うのだろうか。__これは裏切りだ。出来るはずもない。
 けれどそこまで考えると、今度は蔵未の言葉が聞こえる。「狂っちまったら、死んだのと同じだ」。だとしたら俺の愛する人はもう死んだことにならないだろうか? どうせ、もう二度と帰ってはくるまい。そう考えると、失ったも同然なような気がした。もちろんそれが錯覚だってことぐらいは知っていた。そう考えること自体が、逃避にすぎないってことも。
 今の李伶は李伶じゃない。だから俺は彼女のことを愛していないし愛さない、愛せない、愛しちゃいけない。だって今の李伶を愛してしまえばそれは裏切りだ、裏切りだから、俺は心から愛した人を裏切ってしまうことになるから、駄目なんだ、愛しちゃ駄目なんだ、愛してなんかない、愛してる訳ない、狂っちまった彼女のことを俺が愛してるはずがない。
 嘘だ。
 なのに。なのに、何故だろう、力任せに彼女の頬を殴りとばすたび痛むんだ、胸が、張り裂けそうに軋むんだ、愛してないのに(愛してるくせに)、愛してるなんて(愛してるんだろ)、彼女が痛みで声をあげるたび鉛を飲んだ想いになるのは(愛してるからだ)、彼女の体に痣が出来るたび泣き叫びたくなっちまうのは(愛してるからだ、まだ、今も)、彼女が傷付く様を見てぞくぞくする自分を見つけて絞め殺したい衝動に駆られるのは一体何故だ(分かりきっているくせにお前がまだ愛してるからだ)、違う、愛してるはずがない、俺が、俺が愛した人はお前じゃない、お前じゃないんだ、だから蹴ろうが殴ろうが犯そうが刺そうが何をしようが痛くも痒くもないはずだろ、なんで、なんでだよ、なんでこんなに、

「章吾」
「ん、なんだよ李伶」
「今からすっごくめんどくさいこと聞きますが、いいですか」
「別にいーですよ、恋人ですし」
「__章吾は、一生愛してくれる?」
「……は?」
「いや、その、……なんか気になって。卒業したら、ドーセイ、するんでしょう?」
「そのつもりだけど。__不安になったの?」
「端的に言えば、そうなります」
「ばっかばかしい不安だなぁ。愛するに決まってんでしょう」
「またそんなこと」
「本当だって」
「章吾は口がうまいですから」
「……俺は、お前以外愛さないよ」
「本当に?」
「ほんとーに」
「そう、……私も、愛してますから。章吾のこと。何が、あっても」



 なんでこんなに、苦しくなるんだ。
器用貧乏。

2011/10/14:ソヨゴ
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