俺が物心ついた頃から、兄貴は遠いところにいた。俺と年もそう変わらないってのに、ひどく大人で優しくて、子供じみた反抗もしない。勤勉で人当たり良くて真面目で、おまけに顔まで良くて。自分より他人、の人だった。非の付けどころのない人だった。俺は隣にいながらいつも圧倒的な距離を感じて。兄貴は、遠い。手が届かない。
 だもんで、兄貴には小さい頃からそれとなく反発していた。もちろん憧憬の裏返し。どんなに憧れても俺はあんな人にはなれない。勉学では追いつけても人間性では遥か及ばない。それが悔しかっただけ。____こんなんだから、俺はまだまだガキなんだろう。
 程なくして、孝志が産まれた。孝志は屈託のない明るい性格で、兄貴にもかわいがられてた。もちろん兄貴は優劣など付けず、俺のことも孝志のことも平等にかわいがってくれたけど……自分で分かるんだよ。俺みたいなひねくれ者は扱いに困るんだ。口を開けば皮肉じゃあかわいがる気も失せるだろう。素直で甘え上手な弟が、内心俺は妬ましかった。とはいっても、俺もあの雰囲気には何となくほだされちゃって、嫌味を言う気も失せるのだけど。
 俺が今から話すのは、昔々のお話だ。兄貴と俺の、昔の話。

アイジョウraining

「兄貴」
「おぉ、孝二。来てくれたんだ?」
 階段を降りながら、兄貴は嬉しそうに笑った。こんな弟でも嬉しいのかね。 心の内で皮肉を言って、俺は兄貴に傘を手渡す。
「雨、降ってきたから。兄貴傘持ってってないでしょ。」
「ありがと。そっか、雨降ってきたんだ。」
 傘をぱっと開いてから塾の鞄を担ぎ直す。隣に立って歩く兄貴に、俺は可愛げなく話しかけた。
「こんな遅くまでご苦労さんだね。」
「え?あぁ、塾か。」
 確かに、大変。 軽い苦笑。レンズ越しの瞳が細まる。眼鏡似合うよな兄貴、ムカつく。
「ふうん。俺だったらお断りだね、何時間も勉強するとか。」
 夕飯も塾で食べてんだろ。 俺が憎たらしい返しをすると、兄貴は眼鏡を上げながら笑った。
「はは、だよなぁ。まぁお前は必要ねぇよ、俺と違って頭いいだろ?」
「、はぁ?」
 俺は呆気にとられてしまった。テストの結果は三位以内、もしは全国百位以内。そんな人が何言ってんだよ、人に聞かれたら刺されるぞ?
「俺は必死に勉強してやっとあの程度の人間なの。お前はんなことしなくても、ちゃんといい点取れるだろ?」
 だから必死に勉強したら、お前きっとすごい人になれるよ。
 兄貴はくるくる傘を回す。雫が夜闇に飛び散って街灯に照らされた。きらりと一瞬きらめいてすぐ、見えなくなる。星が間近にあるようで、何だかとても綺麗だった。
 すごい人、なんて。兄貴に言われても。靴で小石を蹴り飛ばし、すねた調子でくり返す。兄貴に言われても。兄貴に言われても。心の中で、ひっそりと。 皮肉にしか聞こえないよ。
 いつだってそう。傍にいるのに、すごく遠い。
「____俺は勉強するつもりないから。」
「そうなのか?もったいねぇなぁ。」
 俺なんかよりずっとすごいのに。  追い打ちのような一言にますます心がひねくれる。どこ見て生きてんの、兄貴。何でそんなことが言えるの。可愛げのない弟に何でそんな優しくできるの。何で俺が迎えに来ても嬉しそうに笑えるの。訳分かんないよアンタ。何でそんな遠くにいるの。
「……あ、ケーキ屋。」
 ふと声を上げて。兄貴はその場で足を止める。視線の先には、かわいらしい看板。
「買っていったら喜ぶかな」
「孝志?」
「あぁ。」
 ちょっと寄り道していいか?兄貴が顔を覗き込む。いいけど、と素っ気なく返して、俺は静かに傘を閉じた。
 店内に入る。ショーケースに並べられている色とりどりのケーキの群れに、ほんのわずか食指が動いた。兄貴は隣で財布を開いている。ぼろぼろだ、早く買い直しゃいいのに。
「っと、やべ。」
「どうしたの?」
「いや、金がさ。二個分しかなくて。」
 いいや、お前何食いたい? 財布を閉じて兄貴は言う。
「え…ちょっと、兄貴は買わないの?」
「んー、まぁ俺はいいかな。」
「でも兄貴の金じゃん。」
「そうだけど。別に欲しいのねぇし。」
 うそつけ。
 兄貴の好きなモンブランはショーケースにちゃんと並んでる。孝志の好きなショートケーキも、俺が好きなチョコレートケーキも。そしてそれら二つの値段は、モンブランより少し高い。バレバレの嘘を吐く人だ____何で、何でなんだよ。
「モンブラン、そこにありますけど。」
「へ?」
「兄貴好きでしょ、モンブラン。」
「……えっと、」
 最近嫌いになったんだよ、なんて。これまた分かりやすい嘘。ガキ扱いされてるみたい。
「この前さ、兄貴彼女とデートしてたよね?」
「は?え、見てたのか?」
「ばっちり見てた。アンタ喫茶店でモンブラン食ってたじゃんよ、美味そうに。」
「………敵わねぇなぁ。」
 はは、と言葉に詰まって苦笑。降参だよと兄貴は笑った。 確かに、俺はモンブランが好きです。
「でもいーの、今日は。孝二お前チョコケーキでいい?」
「だから、」
「いーの。つべこべ言うんじゃねぇよ。」
 ぽん、と軽く頭を叩いて。兄貴はさっさとレジへ向かった。俺は何だかやり切れなくて一足先に店を出る。兄貴は、もどかしい。いつも他人ばかり。兄貴、兄貴はしたいことないの?いつも我慢してるんじゃないの?たまには好きなことし手よ、兄貴。たまにはやりたいことやってさ、それで、それで少しは自分のことも、自分のことも考えてみてよ。何でなの。何で、いつも。
「お待たせ。帰ろうか、」
「兄貴はさぁ。」
 背を向けたまま俺は返した。戸惑いが空気を伝う。それでも、俺は全部無視して。
「兄貴はしたいこととか、ないの。いつも他の人のことばっかで、それってさ、虚しくないの。たまには自分のこと考えたら?なんかさ、なんか………うざったいんだよ。兄貴見てるとイライラすんの。」
 違う、違う。こんなこと言いたいんじゃない。傷付けたいわけじゃない。俺は兄貴のことが好きで、だからたまには好きなことしてほしい、自分のこと大事にしてよって、それだけ、それが言いたいだけ、なのに、何で俺はこんなことしか、こんな言い方しか、できないの?___サイアク。
「イイ子だよね兄貴はさ、人のことばっか考えて、自分より他人優先で、本当イイ子だよね、ねぇそれって楽しい?人の顔色伺うの楽しい?人の為に尽くすのが好き?何ソレ超気持ち悪い、うざったい、何なんだよ、少しはさ、少しは、……あーっもういらつくなぁ!!」
 がしゃがしゃ頭を掻きむしる。違うよ、違う、うざったいのは兄貴じゃない、俺だ。こんなことしか言えないなんて。こんなんだから、俺は、俺は、

「___俺に何の価値があるんだ?」

 一瞬。背筋が凍った。
 聞いたことのない声だった。無機質で、灰色な。驚いて振り返ってみれば兄貴の顔は能面みたいに、無表情で、何か……ぞっとした。
「俺は何も持ってないよ。好きなこともない、したいこともない。俺の何を優先するって?何を?何も無いのに? 俺なんてどうだっていいじゃん、俺は何も持ってないんだ。大事な人の方がずっと大事、俺なんかよりずっとずっと。俺は何が欲しいのかも分からない、そんなやつはさ、そこら辺で朽ち果てちゃったって別に構やしないんだ。要らないよ、俺みたいなのは。だから俺はどうだっていいんだ。」
 無表情のままつらつらと、一定に、永遠に。たまらなく怖くなって俺は思わず下を向く。誰にでも優しくて、怒らなくって、いつも笑ってて。そんな兄貴の心の中は、本当は、____もしかしたら。
 空洞なんじゃないだろうか。
「孝二、もう帰ろう。」
 風邪引いちまうぜ。 その声に顔を上げれば、兄貴はもういつもの兄貴で。早鐘のような心臓を抑え隠して俺は頷く。兄貴、兄貴は何を抱えてる?今一瞬だけ見えた暗闇、ねぇ、アレってさ、アレは何、もしかして、“何でもない”の?そこはただの空洞なの?あの暗闇には___“何も無い”?
 そんなのってないよ。


 だけどそれはむかしの話。まだ兄貴が黒縁の、楕円の眼鏡をかけていた頃の。大学に上がってコンタクトに変えて、それから兄貴は、とある人に出会って。 それが、凉谷マリアだった。
 一度二人が歩いているのを見かけたことがある。その時の兄貴の笑顔は、俺が見たことないものだった。心の底から楽しそうに、嬉しそうに、はしゃぐように。子供のようにからかう姿もじゃれ合いながら歩いてく姿も、俺が見たことがない兄貴で。それは俺に“何も無い”と答えたあの日から年月を経て、兄貴が何かを手にした証拠。あの凉谷マリアという女性は、兄貴の空洞を埋めてくれたただ一人の人物だった。きっと兄貴の全てだったんだ。何もないといった彼の心を満たしてくれたのは、あの人の存在そのもの。兄貴の心の中にはきっと彼女しかいなかった。全てだったんだ。全て、でも___唐突にそれは消えてしまった。
 今でも時々俺は怯える。二人の姿を見た後で、俺はものすごく悔しくなって。兄貴が笑っててくれるのは嬉しい、だけどその笑顔の理由が、俺ら「弟」ではなくてあの人だったということが、たまらなく悔しかったんだ。俺は“家族”なのに。俺は迷惑かけてばっかで、あの人は笑顔を与えて、そんなの悔しい、そんなの、ずるい。
 だからひっそりと思ってしまった。 あの人、死んじゃえばいいのに。


「……疲れた。」
 眼鏡を外し目頭を押さえる。ずっと自を見ていたせいか眼球がひどく痛くて、俺は思わず苦笑した。ちょっと根を詰めすぎたようだ。
「あー……甘いもん食いてぇ。」
 言うだけならタダ。空しい呟きとは知りながら、あえて口に出してみる。そうすりゃ自ずと諦めもつく。家に今、甘味はない。我が家の台所事情はよーく分かってるつもりだ。 一応、長男なもので。
「___つべこべ言ってないで、やるか。」
 短く息を吐き、気合いを入れ直して眼鏡をかける。今日中にやっとかないと後々大変なことになる。
 と、その時。
「兄貴。」
 こんこんというノック音のあと、孝二が部屋に入って来た。驚いて見上げると彼は、乱暴に箱を投げ渡して。
「え、これ何?」
「じゃね、兄貴。」
 オイ待てって。 俺の制止は完全無視。小憎たらしい弟はさっさと部屋を出て行ってしまった。ったく、これが反抗期ってヤツか。
「いきなり何だっつうの。___あれ?」
 白い箱。もしかしてなんて思いつつ中身を見れば………案の定。
「……アイツ。」
 箱の中身はモンブランだった。小さなメモに素っ気ない愛情。 『せいぜい頑張れば?勉強。』
「素直じゃねぇなぁ。」
 呆れるふり。本当は、嬉しくてたまらない。アイツまだ気にしてたんだ、本ッ当、アイツは………笑顔になってしまうのが分かる。相当だらしねー口元してるぞ、今の俺。見られたら大変だ。
「何だかんだかわいいヤツだよ。」
 本人に聞かれたら何言われるか。だけど、本音なんだから仕方ない。世界でただ二人だけの弟。どちらも大事な、俺の“家族”。
 笑顔をくれる唯二の存在。

無欲は罪、なんですよ。聖書の中でも。

2011/03/29:ソヨゴ
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