≠Repeat



 赤い風船が逃げていく。
 俺の脇を駆け抜けてった少女は石畳に躓いて、派手に転んだ。小さな手から、か細い糸がするりと抜けて空へ昇っていく。少女は倒れ伏したまま呆然としてそれを見送り、恐らくは数秒後には泣き出すだろう。誰もが身に覚えのある、ありふれた不幸。
 俺は一歩進みでて、逃げ出す紐の先を掴んだ。
 逃走中の風船はどうやらちゃんとした売り物のようで、ロゴなどは入っていない。きっとお小遣いで買ったんだろう。俺はうずくまり、少女と目を合わす。はっとしたように立ち上がると彼女は急いでドレスを払い、照れくさそうに微笑む。
「ありがと」
 幼い指で金髪を耳に掛け、顎を少し引く。そして絶妙な角度の上目遣いで思わせぶりに笑う。お見事。その愛らしい背伸びに対し俺は敬意を払い微笑み返す。
「いいえ。お気になさらず、レディ」
 未来の小悪魔様。風船を手渡し頭を撫でると、少女はもう一度お礼を言って手を大きく降り去っていった。生成りのワンピースをきた背中がみるみるうちに遠ざかる、ダッフルコートの隙間から冷たい風が入り込み、併しそれは不快なものではなかった。朝の匂い。空は薄曇りで、あの日とは随分違ったが俺はかつてを思い起こしていた、俺とアーニーが同様に幼かった、とある日のこと。季節はちょうど今ぐらい。よく晴れた昼下がりだった。
 その日、年に一度のお祭りで大通りは賑わっていた。カラフルな、甘い香り、ワインレッドやパステルブルーの綿飾りが出店の屋根を飾って、硝子みたいなキャンディ、ポップコーン、安っぽいけれどきらきらとした様々な玩具が目に入る。特別な、浮き足立つような、カーニバルの雰囲気の中で俺達二人も浮かれていた。あの日弟の華奢な手に握られていたのも、確か赤い風船。
 風船は大通りの路上で、一つ2シリングで売られていた。色とりどりの風船をもって立っていたのは着ぐるみで、細かくは思い出せないんだがウサギを模していただろうか、目は大きすぎ、口もでかすぎて、幼い少年だった俺達は彼のデザインに恐怖していた。今もピエロを見かけると少し不安定な気分になるがそれに近いものだったかもしれない。だかアーニーが風船を欲しいと言うので、頑張って買った。
「兄貴、何食べる?」
「腹減ったな」
「だから何食べるって聞いてんの。俺チョコバーがいい」
「じゃあ、それでいい」
 チョコバーを売っている店は東西に延びる大通りのちょうど真ん中らへん、やや西寄りの、サード・アベニューとの十字路ん所と、東の端のと二店あって、十字路んとこのが美味かった。あの頃は栞田教でなくまだアークライトの治世、俺達は地域としては日本列島に住んではいたが文化は勿論英国式で、公用語も英語だった。その後栞田教となってからも俺達の住んでる地域はイギリス風の街並のままで、生活様式は変わらず、つまり、俺達はある程度自民族にあった生き方でこれまで暮らしてこれたのだった。まあ、言語は違うけど。
「早く行こ、」
 アーネストは待ち切れぬようで走り出し、人の隙間を縫って駆けていった。呼び止めようとして、俺が息を吸い込んだ瞬間彼は青年にぶつかって、――すっ転んだ。
「あっ、」
 倒れた時の衝撃で赤い風船は逃げ出して、彼も同じく呆然と、飛んでいく風船を眺め、違うのは俺も眺めてたことだ、俺には追いつけなかった、逃げていく紐を捕まえることも、弟を慰めることも、何一つ。できなかった。アーニーは、泣いたりはしなかったけど泣きたかったのは知っている。赤い風船を握ってたその左手で俺と手を繋ぎ、唇を噛んでいた、今の俺ならあの風船を捕まえることができただろうか、気をつけろよと微笑んで、彼の喜ぶ顔が見れただろうか。
 だが今の俺だって、何一つできやしない気もする。


 リビングのソファーにて。兄の帰りを待っている。テーブルの上には小瓶、中には白い錠剤があって三分の一ほどに減っている。小瓶に貼られたラベル、たぶん彼が書いたんだろう、だってスペルが間違ってる、……sreeper.正しくはsleeper、つまりこれは、睡眠薬だ。俺のじゃない。そう、兄貴のもの。
 今日の朝、寝ぼけてた俺はキッチンでオレンジを切ってて(兄貴の好物。普段は仕事で早起きな彼も休日は昼過ぎまで寝てて、一方俺は午前には起きるので俺が切っておいてあげている。偉いでしょ?)、小指の先を怪我した。絆創膏を求め薬品の入った棚を開けると、奥の方に、縮こまり、この小瓶が隠れていた。眠れない兄が恐らくは毎晩頼ってる、白い錠剤が。
 兄貴が不眠症だとは、薄々勘づいてはいたが、はっきり証拠が見つかった以上問いつめない訳にもいかない。俺が小瓶をポケットに忍ばせた瞬間兄の声がして、ちょっと出掛けてくる、なんかいるもんある?
「別に。無い」
「んじゃ、いってくる」
 兄は紺色のダッフルコートに身を包み、外へ出た。その背を無言で見送って俺は覚悟を決める、この十年に、この離れていた十年間に彼に一体何があったのか、何を隠してて、何に苦しんでいるか、俺達はあまりに互いを知らなすぎるから。知らないといけない。彼はいつも彼の苦しみを沈み込ませて見えなくする、澄んで、だが深い湖の底に隠してしまう、俺には見えない。影だけが水面に映り、俺は兄を苦しめる何かの存在を知っていて触れられない。昔から、確かに、そういうところはあったけど、……酷くなった気がする。いつの間に、あんなにも無口になったんだろう。
 テレビを点ける。灰のスーツの男が天気予報を知らせている。本日は東に低気圧、東京地方は降水確率70%、云々。午後からは雨が降り出すでしょう、お出かけの際は傘を忘れずにお持ちください。午前のニュース特有の間抜けなジングルと「外の様子」。現在のアキハバラの様子です、もう傘を差している人もいますね、それではまた明日。すぐさまけたたましい音量でコマーシャルが流れ始めて俺は辟易し、画面を消した。
「ただいま」
 玄関で鍵を回す音。おかえりを、いうつもりで、視線を右にそらして、“違和感”。
 引出しが少し開いている。一番下が、閉まり切ってない。がさがさと鳴るビニール袋、兄はたぶん今靴を脱いでいる、俺は何がしかの直感に従って棚に歩み寄る。身を屈め、引出しを開ける。この棚は兄しか使っていない。兄は整理整頓ができなくてよく物をなくす、だもんで本当に重要なものはこの棚に仕舞う、魔窟の如きあの部屋に埋もれてしまっては困るようなものは。曇り空からさす日差しは雲に濾過されて柔く、透き通る。硝子を透過してリビングを薄青く照らす。俺の頭上で、雨雲は今まさにその濃さを増しているんだろう、じき、雨が降る。 耐え切れずに。
 引出しに入っていたものは、診断書(カルテ)だった。
「アーニー。ただいま、――」
 口を噤む気配。俺はカルテを、手にしたままで、凍りついていた。 ナニ、コレ? A4の用紙に印刷されたアルファベットの羅列、俺は知っている、ラジオが特集していたから気になって論文も読んだそれは文字通り“不治の病”、まず原因も見つかっていない、進行を遅らせることも、症状を軽くすることもできない、空気感染や性行為での感染はしないがウイルスが原因でないとはまだ言い切れない。救いの無い病。癌が、今や治る病であるようにこれもまたいずれ克服されるだろう、だが、今は手の出しようがない。
 Happy Ending Disease. 略称、HED。
「なに、これ?」
 知らず、声が震えた。兄は目を逸らし、視線を彷徨わせる。
「なぁに、これ?」
「いや、」
「誤摩化さないで。……ねえ、嘘だよね?」
 矛盾した台詞。俺は視線で兄に縋り付く、彼は逃げ場を失って後ろめたそうに目を合わせた。(ああ。嘘じゃないんだ、)ねえ、こんなの嘘だよね?(本当に、)だって兄貴、馬鹿なんだから、風邪だって引いたことなくて(違う。昔から、よく熱を出した。肺が弱かった。吐くこともあった。何か原因がある筈だってちっちゃい頃からずっと思っていた、)だって悪いことだってしてなくて、(そう。でも、そんなの関係ない)まだ若くて(関係ない)まだ仲直り、した、ばっかりで、(そんなもの全然、)ねえ、(関係、)兄貴。
「死なない、よね?」
「……ごめん、アーニー」

 ああ。貴方は、本当に死ぬんだ。

 やり切れない怒りが、憎しみが、一気に胸で膨れ上がって俺はもう堪え切れなくなる。カルテを握りしめ、丸め、窓に投げつける。診断書は、直後の俺の絶叫にかき消され音もなく転がる。
「ねぇっ、何コレ、どういうこと、説明してよどういうことなの、」
「アーニー、」
「兄貴、死んじゃうの? なんで、まだ会ったばっかで、なんで、」
「ごめん、」
「謝んなよ!!! 謝られたって、なんになんの、なんにもならない、謝ったら兄貴は死なないの、生きてられんの、違うでしょ、ねえ、意味ないよそんなの、……いつ知ったの」
「え?」
「いつ、兄貴は、知ったの。このこと」
 膨れ上がる。膨れていく。吐き出す宛てもないままに、破裂しそうな感情は結局兄に向かっている、分かってる、彼のせいじゃない、彼を責めたってそれこそ本当に何にもならない分かっていた、分かってるのに、責めるべき先が、見つからなくて兄を詰っている、彼は誰にも吐き出せないからきっと傷付く、傷付いて、一人で傷付いて、“俺の所為”で、
「――半年、前」
 俺はどうして、強くあれないんだ。
「半年、前?」
「ああ」
「じゃあ、俺と出会った頃には、」
「ああ、……知ってた」
 裏切られた、気分だった。お門違いだってことくらい俺の頭脳は理解している、でも心は違う、心は兄に、アンタに裏切られたと言って兄を刺し殺そうとする、いつものように、鋭いナイフで、そんなことを若し口にすれば兄は必ず傷付く。 なのに。
「じゃあ、兄貴、あと半年もすれば死ぬって分かってて近付いたの? それ、そんなの、俺はやっと、やっと幸せになれるって、もう一度家族になれるって、思って、だから、だから信じたのに、だって、」
「ごめん」
「謝らないでって言った」
「けど俺は、」
「そんなの、エゴじゃないの? 兄貴はさぁ、死ぬ前にただ罪悪感から逃れたかっただけなんじゃないの、」
 違う。こんなこと言いたいんじゃない、こんなこと言ってまた兄貴のこと傷付けたい訳じゃない、訳じゃ、
「そうじゃない、」
「本当? ならどうして死ぬって分かった途端に俺に会おうとしたの? ねぇ、俺は兄貴のこと信じたのに、心配するなって、うまくいくって、また一緒にやり直そうってだから兄貴のこと信じたのに、こんな風に置き去りにするの、俺一人置いてけぼりにするの、またヒトリにするの、嘘吐き、兄貴は、兄貴は俺を利用しただけだ」
「違う、……アーニー、そんなんじゃない」
 兄貴はビニール袋を置いて、屈んで、俺の肩に手を置いた。その手を受け入れればよかった、兄貴の気持ちは、分かってたんだから、兄貴は嘘吐きなんかじゃない、――けど俺は肩に置かれたその手を憎しみを込めて振り払う。
「裏切り者」
 ナイフを構えてる、十年前に彼を傷付けたあの刃と同じような形の。何度も何度も色んな人を切り裂いてきたナイフ、俺が、弱いから、色んな人を傷付けてきて、また、俺を守ってくれる、優しい人を、こうして、また。
「もう、会わない方がずっとよかった。」
 そしてナイフが兄貴の胸を、深々と刺す感触がした。
 呆気ないくらい易々と刃は彼の心臓に達し、気づいた時には、手遅れだった。俺は兄貴の顔を見れなくなって弾かれるように走り出す。玄関を抜けて、家を出る、あの、瞳。俺が彼を突き刺した瞬間のあの瞳。深い、深い、綺麗な青が見開かれて余計に青く映った、ああ、はっきりと、兄を殺した感触がこの手の平に残ってる、これで何度目だ、何度目だ? 曇天が濃く煙っている、日の光を失って風は冷たく凍えていた。走り続ける俺の肌を裂くように吹き付ける風は、入り込み、俺の肺を刺す、心臓が痛む、でもこんなの、こんなもの痛みとは言えない、俺がしたことに比べたらこんなのは生易しすぎる。
 ねえ。俺は、また失うの?


 病名を告げられたのは半年前の、日付もちょうど今頃。カスパーゼが執り行っている健康診断の再検査で、医者の深刻げなカオとふざけた病名とが釣り合わず最初は吹き出しそうになったが、説明を聞くうちに、これは死の宣告だと気づいた。それからは、頭が真っ白になって、……いや、違ぇな。呆然とした。医者の言葉は理解できていた、だが根を張りはしなくって、幽霊を掴んでいるようにするりするりと抜けていく。医者は、繰り返し違う言い方で、何度も俺の死を告げた、「貴方は、一年後に、死にます」。発症後しばらく変化はない、しかし半年もすれば悪化し始めて身体機能が衰えていきます、目や耳も、使えなくなりますから、仕事は頃合いを見てやめるとよろしい、今でなくとも良いが。
 二人には、伝えなきゃと思ったが、彼らの反応を見るのが嫌で留守電にいれた。わざわざ仕事を遅刻して二人が家にいない間に。だがさすが、エディは鋭くて、その日に限ってまだ家にいた。 かかってくる気がしたよ、カート。
「幸死病だった」
「……そう」
「それだけ、だけど」
「分かった。……うん、分かったよ」
 エディはそれ以上、何も言わなかった。後日キースが物言いたげに俺の傍に駆け寄ってきた時もエディが目で制していた、見ちゃいないが、見なくても分かる。キースには悪いけど俺は心底エディに感謝した。どんな質問に対しても答えを返す自信が無かった、いいたくなかったし、聞きたくもなかった、だからずるずる今の今まで誤摩化し通しできてしまった。 これじゃ、駄目だよな。
 雨が降っている。アーニーは傘も持たずに家を出た、きっと寒がってる。五月も半ばだというのに今日の雨は酷く冷たくて、そう早く、迎えに行かなきゃ、――自信が無かった。彼のことを、探し出してやる自信が。
 宛もなく歩いている。ビニール傘をひっきりなしに雨粒が叩く。安物の傘の外側で水滴が曇天を曇らせ、流れ、俺は泣けなかった、泣きたいような気分ではあったが不思議と涙は出なかった、大気が拒んでいたんだろうか。水分は飽和している。これ以上、もう必要ない。
「あ、」
 ふと、足を止めると、目の前に見慣れたアパートがあった。キースの家。行く先もなく彷徨ったせいで、自然足が歩き慣れた道を選んでしまったか、でなければ、会いたかったのか。 どうして、彼に?
 こんなとき俺が頼るのは決まってエディだ。さっきも言ったが、キースは悩みを打ち明けるのに向いた性格はしていない、純粋な疑問に従って悪意なく俺を追いつめて、ますます気分を陰鬱にするだけ。エディくらい、ズルい方がいい。アイツは抜け道を示してくれる、たとえ解決にはならなくともそれは俺の心を軽くした、……でも。今はここに居る。
 雨が降り続いている。 会いたい、気がした。

続き

2013/05/14:ソヨゴ
inserted by FC2 system