お友達にはなれなさそうだ、というのが俺の蔵未への第一印象だった。というのも昔の、まだ大佐じゃなかった頃のあいつはかなり荒れていて、厭味を言ったり皮肉を言ったり、刺々しい言葉で応酬したり、結構近寄りがたかったから。俺だって、命を救われたっていう借りがなかったら関わろうとはしなかったろう。それが今じゃ無二の親友だってんだから人生ってのは分からない。まぁ第一印象なんてモンは往々にして当てにならないが、蔵未の場合は特にそうだった。実際のあいつは、俺が思っていたよりもずっと強い人物だった。誰より強くて、誰より優しくて、そして誰より苦しんでいる。脆いくせに無理をして、満たされたいのに磨り減らして、頭は良いくせに上手く生きていけなくて。あいつは、不器用だ。どうしようもなく不器用だ。もどかしいほど、痛々しいほど。それ以外の生き方をきっとあいつは知らなくて、たとえ知っていたところで自らそれを捨てちまったんだろう。真っ直ぐすぎる。誠実すぎる。ラクして、ズルして、たまにはさ、そういうことも必要なのに、__あいつは逃げない、逃げ方を知らない。逃げ道は知っているくせに逃げ込み方が分からない。自分に都合のいい現実などどこにも無いと思っている。 そして、空しいことにそれは事実だ。
「空っぽなんだよ。」
「、え?」
「空っぽ。空虚。何も無い。」
 唐突にそう言って、蔵未はコップに氷を落とす。もう何杯飲んだだろうか、ウィスキーの瓶は半分以下になっている。empty、かな。一番近いのは。独り言のように台詞を吐いて蔵未は氷に指を突っ込む。琥珀色の液体の中で氷が二、三回踊る。それはどっかの安っぽいオブジェが照らされて回りだしてるみたいで、そんなの錯覚なんだけどさ。
「いきなり何の話だよ。」
「心の中。俺の、」言って、胸で親指を指す。「ここ。」
 ふっと息を吐き出すと、蔵未は顎を机の上に載せた。指を氷の中から抜いて今度は机の上に置く。ウィスキーで濡れた指先はやはり女のそれより綺麗だ。色んな女(ひと)と付き合ってきたけどその中の誰より綺麗な手だと、俺はこっそり思ったりしている。無論、言わない。何されるか分かったもんじゃない。
「__心の中?」
「そう。」
 短く肯定が返ってきた。俺は目線を合わせることはせず、胸ポケットから煙草を取り出す。箱を叩いて煙草を抜き取ると、かつて蔵未に言われた言葉が頭の中に浮かび上がってきた。荒れてた時期の蔵未に一度、尋ねたことがある。好きでもないくせになんで煙草なんて吸ってんの? 返ってきた答えはこう。 早く死ねそうだから。
「何も無いんだ、何も無い。本当に空っぽ。思い返してみるとさ、生まれた時からそうだった気がして……なぁ、父親が居ないって話、したことあるっけ。」
「……ない。」
「そっか。 言ってなかったか。」
 俺ん家さ、母子家庭なんだ。蔵未は起き上がって、今度は机に頬杖をついた。かなり眠そうだ。相当、酔いが回ってるらしい。
「お袋が身体弱いから。元々親父はあんま稼いでなくて、俺ができた時逃げちゃったらしい。養えねぇと思ったんだろうな。でもまぁどうにかこうにか暮らせてて、三年経って孝二が産まれて、十年経って孝志が産まれて、その頃にさ、お袋がとうとう倒れちゃってさ、それまでは何とか働いてたけどそれも難しくなってきちゃって、最初からそうだったんだ、産まれたときから、俺が、しっかりしないと……だから自分の為とか、そういうこと、考えたことがなかった。」
 俺は黙って煙を吐き出す。灰色の有害な煙は、天井まで立ち上っていく。
「だって長男なんだよ、俺。三歳ん時に孝二が産まれるまで俺はあの家の唯一の男子で、産まれてからは益々、母さんを支えないとと思って、母さんのこととか、孝二のこととか、孝志のこととか、ばっか、考えて、たら、何か、__分かんなくなっちゃったんだ。自分は、何が欲しいのか。」
 その時初めて、自分のことを空っぽだって思った。ぼそぼそと蔵未はくり返す。 空虚だなあって。
「何が欲しいのか何がしたいのか、望みとかあるのか、分かんなくて、ただとにかく“何も無い”って、空っぽだって、思った。でもまぁいいかなって、母さんと孝二と孝志が笑ってられたらそれでいいかなって、思った、思おうとした、けど、……嬉しいんだよ確かに、三人が幸せそうなのはすげぇ嬉しい、だけど何か、何か違うんだ、いくらみんなが幸せそうでも俺の空っぽは埋まってなくて、何か違くて、何か空しくて、でも今さらどうすりゃ良いかなんて全然分かんなかったから、だから、__放っといた。マリアに出会うときまでずっと、自分のことは放っといた。」
 放っといた、か。……なるほど蔵未らしいなぁと、黙りこくったままで呟く。自分に対してならいくらでも薄情になれるのが彼だ。それは素晴らしいことでもあって、同時に最悪なことでもある。 自分を愛せない人は、誰にも愛してもらえない。
「それでさ、大学入って、そこでマリアと知り合って、好きになって、付き合って、そのうち分かってきたんだよ。俺は、俺は多分、誰かに俺のこと一番に想ってほしかったんだ。好意じゃなくていい、嫌悪でも憎悪でもいいから、ただ誰かに俺のこと一番強く想ってほしかった、母さんは自分とか弟のことで精一杯だし、弟は俺が守らないと、愛さないと、だから、俺は俺のこと、まるっきり無視してたから、だから、誰かに代わりに、俺のこと、……すごく卑怯だけど。」
「__別に、卑怯じゃねーんじゃねぇの。」
「……そうかな。」
 口には出さないつもりだったのに。俺はほんの少し後悔する。 そんな俺の悔恨は気にせず、彼は指の動きを止めた。
「俺が俺のこと考えないから、代わりに誰かに想ってほしくて、別に俺だけを、とか、そんなこと思わなかったけど、ただ他の誰かを想うより強く俺のこと想ってほしくて、そうしてもらって、空っぽを、埋めようとしてたんだと思う。ずるい、と思う。そういうのは。俺はマリアに押し付けてた。もちろん俺はマリアのことを誰よりも愛してたけど、ずるいよやっぱり、卑怯だ。すごく卑怯だ。代わりに愛してもらうとか、卑怯だ、卑怯だよ。」
 卑怯、卑怯。重ねられる単語。言い返したかった。その為の言葉だってあった。でも、言わない。蔵未は吐き出したいんだろう。一人でぐるぐる考えてたことを、酔った勢いで、全部。遮ってはいけない。否定して、邪魔して、そんなこと、彼は望んでないだろう。
「自分でも分かってる。異常だ。おかしいよ。七年間も毎日ずっと、忘れられないなんて異常だ。だから多分生きてた時から、マリアがまだ生きてた時から、俺はちょっとおかしかったんだよ。マリアしかいなかったから、心の中どこを探してもマリアしかいなかったから。だからいなくなっちゃって、死んじゃって、また元の空虚に戻って、きっとどこか壊れちゃったんだ。お前とか、小豆屋とかと、飲んだり騒いだりしてんのは楽しいよ、空っぽだなんて思わないし苦しいとも思わない、ちゃんと満たされてるよ、でもダメなんだ、一人になると、一人になると全部、全部流れ出ちゃって、また空っぽで、苦しくて、辛くて、もう嫌で、その繰り返し、ずっとそう、……もういい加減疲れたよ。」
 ねぇ。 消え入るような声で、泣き出しそうに紡ぎだす。 ねぇ、章吾。
 生きてなきゃダメ?
「……ごめん、蔵未。俺には答えられない。」
 俺は一度、諦めてしまったから。こいつが生きて幸せになる道を諦めてしまったから。もう二度と諦めたくない。分かってる、これは蔵未の唯一の我侭だ。唯一こいつが、自分の為に、狂おしいまでに願っていること。叶えてやるべきだろう、俺は、蔵未の親友なんだから。まだ何の恩返しもしてない。けど、俺には無理だ。どうしても無理だ。だからこそ無理なんだ。嫌なんだ。悔しいんだ。何があっても諦めたくない。それがたとえ、縋ってきた手を振りほどいて突き落とすような行為だとしても。ごめんな、蔵未。それだけはできない。他のことなら何だってしてやるよ、してやる、けど、__知ってるよ。お前の望みはこれだけなんだろ。
「__だよ、な。ごめん。」
 ありがとう、章吾。 蔵未はふわりと微笑むと、そのまま机に突っ伏してしまった。眠っちまうかな、……ありがとう、なんて。
「……何で俺を責めないの、蔵未。」
 俺はお前を、裏切っているのに。


タワゴトsleeping

壊れたままでも、無理矢理生きなきゃならないんだろうか。

2011/04/20:ソヨゴ
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