「何見てんだよ」
 柔い草の端(は)が心地よく頬をくすぐる、春の昼下がり。校舎裏の林に寝そべり本を掲げ読む俺の目を、彼は隣でじっと見つめていた。視線に耐えかね尋ねると彼は半ば身を起こし、眼前に広がる本を取り上げ代わりに自ら空を塞ぐ。逆光の陰に覆われてなお、その瞳は天より青い。
「きれいな目をしているね」
「は?」
「君の目はほんとうにきれい」
 『サロメ』は彼の手に開かれたまま。二百年近く前に書かれた唯美主義の戯曲なんぞを読めと命じてきた当人が読書の邪魔をしてる訳だが、彼は悪びれる風もなく俺をまじまじと覗き込み、やがて本を草の上に下ろした。重力に従ってさらりと落ちる黒髪が、指の隙間にその感触を思い出させる。
「昔、南のほうのね、なんていったかな小さな島に、連れてってもらったことがある」
「へえ。自慢か?」
「違うよばか。それでね、そこで初めて僕は海を見たんだ、沖を眺めるとどこまでも深い青色が続いていてそれもとってもきれいだったけど、なにより僕の胸を打ったのは湾の近くの海の色だった。岩に取り囲まれた浅瀬を、崖の上から覗き込んだ色」
 彼の手が俺の目許を滑り、彼は小さく息をつく。俺の目は自然と傍らの、地に伏せられた本へ流れた。顔に陽が当たる。彼が居住まいを正したんだろう。
「涼やかで熱いエメラルドグリーン。南方の浅い海の色、夏の太陽を飲み込んだ碧、――ね、君の目はそういう色だ。君はきっと夏生まれだよ、いつだって夏の匂いがするもの」
 顔を横に傾けたまま視線だけを戻して俺は、同じく太陽の光を浴びて一層鮮やかな青を眺めた。彼にとっては俺の瞳は幼き日の夏の色だそうだが、俺はといえば彼の青に対して語る言葉を何も持たなかった。だって、なんて言えばいい? 下水道の入り口で生まれ、掃き溜めで育ったこの俺が。
 俺はお前よりきれいなものを、何一つ知りはしないのに。



Somewhere far, far away.


 いきなりベラベラ語り出しやがってコイツは誰だと思ってんだろ? その答えは数十秒後に分かる手筈になっている。そら、枕元で携帯が小煩く喚き始めて寝ていた俺が目を覚ます、beep、beep、アラームってのはどの状況でも癪に障るようできてるらしい。腕だけ伸ばして携帯を掴み、手首を返して画面を睨む。そこに表示された名前でますます俺の気分は落ちる、落ちるっつーか墜落だな、このままボスフォラス海峡あたりに突っ込んでおダブツしてえくらいだ。しかしまあこんな俺にも社会生活における体裁、及び体面ってモンがあるので、緑色のバーをスライドし着信を拾う。
「ハローハロー、みんな大好きエドワードだよ。休日にのみ許される惰眠の特権を貪っていた僕に一体なんのご用事かな? 内容次第でフツーにキレるぞ!」
「起きたてとは思えねえテンションの高さだな。俺なんかの着信で叩き起こして悪うございましたね、まあでもいいだろ、カートのことだし」
 分かったか? とはいえ俺は読者諸君にとっちゃあ新顔、登場回数もまだ二回程度、どんなヤツだか分かりゃしないだろ。だからそのへんは追い追い話すよ、というより、俺は俺自身が何者なのかを語るためにこんな役目を仰せつかっている。つまり、“語り手”を。
 では改めて自己紹介といこうか。俺はエドワード・スティールバード、24歳だ。戸籍上はな。実年齢のほうは定かじゃない、なんせ生まれた日も分からないのでね、どころか名前だって拾われた時に勝手に養家が付けやがったモンで親が付けた名前は知らない、ハナから付けられちゃいない気もするが。俺が生まれたのはスラム街の外れ、自分で“狩り”ができるようになるまでどう生きてたやら覚えがないが、少なくとも記憶ってヤツが多少ハッキリし出した頃から俺は一人で生きていた。それ以上でも以下でもない。一人で生きていけたなら、俺には親は要らなかったってこった。なくても支障がなかったんだからあっても支障がなさそうに思うが、どっこいそうも行かなくて、ま、その辺りは次の機会に。
 そろそろ現実に対処しよう。人を小馬鹿にしたようなご陽気な調子で受け答えつつ俺は状況を把握する、なんでもカートが弟くんと喧嘩してズンと落ち込んで、どういう訳だかキースの家に現れなにやら一悶着あり、ようやく落ち着いてきた頃に弟くんから連絡があった、兄がどこにいるか知らないか、と。メールボックスを確かめたところ同様のメッセージがあって、俺がメールの通知音程度で起きるタマじゃねえことが改めて確認できたが、それはそれとしてどうしてカートはキースを頼った? 俺じゃなく?
「なるほどねえ。アーニー君にはもう知らせたのかい?」
「あー、まだだ、とりあえず、……カートがお前に来てほしいっつっててよ。携帯忘れたらしい」
「ふぅん? カートともあろうものが随分珍しいことだねえ、よっぽど参っているのかな」
「俺の目にも分かるくれえだし、相当なんじゃねえの?」
 おっと。お前らの疑問は察しついてるぜ、様子が違いすぎねえかってことだろ。俺の外ヅラのがお好みなら大変申し訳ないが、俺は“私生活”でまでふざけた喋り方をするつもりはない。通話中にも関わらず表情が合わせて動いているのは単に惰性だ、見せる相手がいないにしたって真顔で喋るほうが難しい、ピンとこないなら試してみるか? じゃあ、無表情のまま抑揚をつけてこう言ってみろ、「やあおはよう! 全く今日も一段と輝かしい朝だね、曇りだけど!」
「おい、ネディ? 聞いてるか?」
「聞いてるとも! 君の声が耳障りでちょっとウンザリしちゃってただけ」
「こんの、……まあ、そういうことだから。アーニー君には俺からメール打っとくよ、お前が着く頃にはあの子も無事に着いてんだろ、たぶん」
 さて、やっと通話が終わった。回線の切断を告げる単調なシグナルを聞きおおせてから舌打ちする、そのまま携帯をベッドへ放るとシーツが不細工な音を立てた。しばし天井を見つめ、勢いをつけて起き上がる。カートが会いたいと言うのなら今すぐにでも駆けつけてやりたいとこだがそのためにはまず早急に顔を洗い髭を剃り、ボディローションの一つも叩き、マシな服へと着替えなきゃならない、実に面倒な工程だ。焦点の合った視界の中央にプラスチック製のコップが映る。土産物屋で買った安物、でも透き通るような青色の。
 とはいえそれは彼の青とは違う。俺は未だにアイツを喩える言葉を何も知らないし、多分この先も見つけられない、なぜか、その事実が清々しい。知らず知らずに俺は笑ってそれから洗面所へと向かった。そういや昨日風呂入ったっけ?……シャワーくらい、浴びとくか。一応。


「“白雪”が来る」
 不思議と濁りを感じない真白な雲の連なりを、ブラインド越しに眺めて彼はやや上の空に呟いた。俺は彼の淹れた紅茶に口をつけてよそ見しながら、真意に思いを巡らせてみる。暦は九月。雪が降るには早い。
「白井雪久中将、ですか」
 こちらも独り言つように。准将は中身の詰まった溜息を吐き、俺を振り返った。
「ご名答だよ沢霧大佐。海からわざわざお訪ねになる、お前に用があるんだとさ」
「お高く止まった塩害野郎が、陸のしがない狙撃手に一体なんのご用事ですかね」
「そうかっかなさんな。白井雪久は“そういう意味では”忌々しい男ではないよ、彼の興味は陸海のつまらん諍いの外にある。でなければはるばる陸の本拠地まで足を運んできやしない」
 なるほど。どうやら准将は彼を見くびられるのがお嫌らしい、仲が悪いと聞いてたんだがそうでもなさそうだ、――や、違うな。そう単純でもなさそうだ。小耳に入れたところ、比乃准将と白井中将の因縁は予備生時代から綿々と続くものらしく、もはや色々積み重なりすぎて本人たちにしか理解できない関係と化してるんだろう。ま、俺の知ったことじゃない。
「そんなもんですかね。しっかしなんで俺なんだか、蔵未だったらまだわかりますけど」
「お前さんも似たようなもんだろ。会わせたい奴がいるそうだが、回りくどく勿体ぶった言い方しかしない男だからな彼は、詳細はさっぱり分からなかった」
 准将もそういうところありますよね、と口走りかけて慌てて堪える。窓の外を見やる彼の眉間にはこれ以上なく皺が寄っていた。視線の先にあるのは、海だ。どんよりと寄せては返す海原。
 領土のほとんどが島国である栞田教、旧アークライト教では、軍の創設当時から海軍の力が強かった。結果として立場を弱くし辛酸を舐めてきた陸軍の潮目が変わったのは十年ほど前、紅茶を淹れるのが異様に上手い一人の首席卒業生が配偶先に陸を選んで以降。彼はその後指揮の才覚をもって次々と成果を挙げ、評判という名の看板を片手に優秀な人材を青田刈りしまくり、いつしか陸の戦果と戦力を海顔負けにまで引き上げた。ゆえに、比乃朋之は陸の《ファースト・ジーニアス》と呼ばれる。不遇の陸軍に現れた最初の天才(しゅごしん)ってワケだ。続く天才は誰かって? 言わせないでよ、恥ずかしい。
「ところで、」完璧なタイミングとトーンで、彼はそれとなく問いかける。
「蔵未の様子はどうだ、最近」
 俺はまた、紅茶に口をつけ、低いテーブルの向こうを見つめる。しばらく待ってカップを戻し、できうる限りさっさと、答えた。
「見てらんないですよ」
 息の漏れる音。ややあって、革張りの椅子がギッと鳴る。彼が腰をかけたんだろう。
「そうか。弟さんと何かあったらしい、というのは聞いてるんだがね」
「前から“何か”はありましたけど、まあ、限度を超えたっつーか」
「解決はしていないのか」
「弟さんとですか? その件だけに限って言うなら、……してないワケじゃ、ねえと思いますけど」
 孝二が彼に謝る場面に、居合わせはした。基地内の、喫煙スペース付近の廊下の一角に彼らはいて、タバコを片手に休憩へ向かっていた俺はたまたま話を立ち聞く格好になった、なんとなく、気まずかったので顔を出してはいないんだけど。あのとき蔵未は弟が詫びる前に遮って、却って謝罪をしたのだった、「この前は悪かったな」と。ひどいことを言って悪かった、あんなのは本心じゃないから、またいつでも、会いにきてくれよ。
 孝二は下を向いて震えていた。同情の余地などないはずなのに、俺は一瞬彼の心中を察してしまい、あまつさえ、蔵未の言葉が残酷なように思いもした。結局のところ孝二が兄に対し抱えていたフラストレーションの正体は、俺がごく稀に蔵未に対し感じる苛立ちと同じなんだ。なぜお前はお前のことを大事に思ってくれないんだ、……俺の大事な人なのに、なぜ大事にしてくれないんだ。
 孝二が握りしめた拳を振りかざすことはなかった。
「兄貴は、少しも、一個も悪くないじゃん。悪いのは俺だろ」
「孝二、」
「ごめんなさい。あんときも、今までも、……傷つけてばかりで、ごめんなさい」
 続きは聞けてない。直後、間の悪いヤツに呼びかけられて俺はその場から立ち去った、蔵未は、なんて答えたんだろう。二人の会話を聞いていてふと浮かんだのは嫌な疑問だった、もしかして本当は、蔵未は気づいていないのか? 自分が愛されているということに。愛を感覚できないのならいくら注いでも伝わりっこない。誰がそばにいても、満たされない。
「なんで目の前にあるものが、」思わず、声が零れ出る。「見えなくなったりするんすかね、人は」
 准将は口を閉ざしていた。曇天に閉ざされた部屋に、冷めた秒針だけが、響いている。


 語り口は軽妙で、その実どこか尖っている。バカにしたような物言いと皮肉が上手で、意地悪で、でも声の芯は温かい。ぶっきらぼうでいい加減だけど他人のことをよく見てて、必要な時に必要なだけの優しさをくれる、そういう人。正しく寄り添うことができて正しく黙ることもできる人。お察しの通り僕はエディにずっと憧れていてそれで、彼みたいな人になりたくて、彼の真似をし出したのだった。最初はそんな僕をからかっていじめてばかりいた彼は、やがて意趣返しとばかりに僕を真似し始めて(それだって僕のからかい方を変えてきただけだと思うけど)、いつの間にやらお互いに、板につきすぎて取れなくなった。
 エドワード・スティールバードは、僕、カーティス・シザーフィールドの、唯一無二の親友で、五歳の頃から慣れ親しむ幼なじみでもある。かつての言動と比べると二人とも随分と様変わりしてしまったけれど、僕に関して言えば今の“俺”だってもうすっかり僕の一部であって、無理に真似ている意識もない、第一思春期に男の子がちょっと乱暴な仕草や言葉に憧れたりするのは普通でしょう? それらがいつしか定着することも。でもねエディのほうはどうかな、彼のオーバーな身振り手振りや芝居がかった言い回しは、今や小さな頃の僕の特徴とは程遠く、面影は些細な語彙や語尾にわずかに残るばかり。無論全く自然じゃないし、不自然に見せてもいるんだろう。彼がああした振る舞いを日常生活で用いる意図は、きっともっと違うものなんだ、例えば、仮面。例えば、防具。親しくなってからは案外と多弁な面を見せもした彼だが、出会った当初はちっとも僕に口を利いてはくれなかったし、考えてることや感じたことの五分の一も話してくれない男だった、要するに彼は、黙する代わりに余計なおしゃべりで埋め尽くす作戦に出たのだ。「木を隠すなら森の中」ならば、「本音を隠すなら無駄口の中」。
 僕の部屋の窓辺には大きな広葉樹が伸びていて、ちょうど天辺が上の階の桟をかすめるくらいの高さだった。エディは僕に会いに来るとき、僕をおどかそうとでもしてたのかもっぱらこの木を伝い登って、ガラスの表面を手の甲で叩いた。僕が驚いて窓を開けると彼は外枠に指をかけ、ひょいとその身を滑り込ませて、来てやったぜ、と誇るのである。言うまでもなく僕の学友に窓から訪ねてくるような子はただの一人もいなかった、歳が十にも満たなかった時分、僕は彼を何か人とは違う別の生き物と思い込んでいた気がする。邸から出て裏へと周り部屋の真下に立ってみれば、彼がやすやすと登ってみせる大樹はひどく高くそびえて、僕には登るべくもなく見えた、エディは、怖くないのだろうか?
 僕にとってエドワードとは、僕にはとても辿り着けない場所へ軽々と届いてみせるそんな存在だったのだ。そして不思議と僕の胸には妬みは湧いてこなかった、彼と触れ合うとき感じるのは眩しいような羨望と、彼みたいな存在がそこに居てくれることへの、感謝にも似た思いだけだった。
「なんで星なんか好きなんだ?」
 ある夜、彼にそう尋ねられた。空気の澄んだ秋の晩で、珍しいほど星がよく見えた。僕は窓辺から、彼は木の枝から、だいたい同じくらいの高さで隣り合って星を眺めていた。エディにとっては星だろうが花だろうが宝石だろうが、どういう価値のあるものでも“なんか”と言えるものでしかなく、だから僕は彼の言い様にさして頓着せずに答える。
「うーん、なんでだろ。遠くにあるから?」
「遠く?」
「そう。どこか遠いところに、ずーっと昔からあるものだから」
「遠いと、何がイイんだよ」
「うーん、……あのね、僕がどう頑張っても、届かないところにとてもきれいで素敵なものがあるんだって思うと、少しだけね、気がラクになるの」
 てっきりバカにされると思ってたのに、予想に反して彼は茶化すこともなく、葉を押しのけて夜の空を仰いだ。小さな小さな星の光は何億年も前のもので、途方もない年月と距離を経て僕らの目に届いている。遠いところ、と彼は呟く。どこか遠い、遠いところ。
「そう考えると、悪くねえな」彼はやんわり目を細めた。「触れられっこねえモンがあんのは、――」
 彼があのとき、何を呑み込んだのか、僕には知る由もない。おもむろに僕を振り向くと彼は、僕の瞳をじっと見つめた。僕がたじろぐと、彼は片眉を上げて、また星々へと目を移す。なぜだか彼のその表情が妙に脳裏に残っていて、たまに鮮やかによぎるのだ、川底にひかる砂金のように。
 光がちらと差すたびに、僕はいつも惑ってしまう。記憶の底から届く光は他の砂つぶに埋もれてしまい、どこからやって来たものなのか、すぐに、分からなくなってしまうのだ。


 なんで、んなこと、思い出したんだろう。
 勢いよく張られた頬を、片手で押さえ呆然としながら、俺は目の前の彼女を見つめた。一昨年の冬に別れた恋人、彼女がどうしてアーニーと共に現れたのかもよくわからないが、会って早々俺が驚きを告げる間もなく平手打ちを食らった事実はさらに不可解だ。怒りをたたえた彼女の向こう、小さく映るドアの前には、見慣れた長身が立ち尽くしこちらをぽかんと眺めている。やがて、その唇が愉快そうに歪み、……ああ、この顔で思い出したんだ。柔く細まった碧眼の奥。
「話が、あるわ。カーティス」
「ああ、」
「突然殴って、悪かったけれど」
 玄関先からさも楽しげな、煽り文句が飛んでくる。いやあびっくり、カートが女性にビンタされるとこ初めて見たよ。頬を覆う手を下ろしつつ、悔し紛れに俺も言い返す。お前が頬を張られるとこなら何万回と見たけどな、エディ。
「そりゃあ当然。僕はヤなヤツだからね!」
 憎たらしい笑みと目を合わせる。夏の色をした彼の瞳は、俺に向かってまっすぐに、変わらず、光を投げかけている。

「手が届かない」ということと、「触れられない」ということとは、似ているけれど少し、違う。
2017/08/04:ソヨゴ
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