「なぁ、久遠。」
「なに?許人。」
「毎日来てくれるの、嬉しい、けど____平気なのか?」
 ずっと気になっていたことだった。あの人、久遠のお父さん、すごくひどい人、だから、俺のところに来てくれるの、バレたら……久遠もひどい目に遭っちゃう、かも。そう思った。
「………僕は、平気だよ?」
「平気? 本当?」
「うん。大丈夫。」
 そっか。ほっとした。けど俺は馬鹿だった。 そのとき久遠は、優しい笑い方をしていた。優しい笑い方をする人は、いつも、何かを隠してる。俺はちゃんと知っていたのに。


「許人、起きてる?」
 夜更けに彼の声が響いた。こんな時間、珍しい。
「起きてるよ。どうしたの_____久遠っ!?」
 姿を捉えて鳥肌が立った。額の端が割れてる、血が、血がいっぱい、どうしよう、
「な、何それ、どうしたの、血だらけ、」
「やっぱり?そっか、やっぱ血ぃ出てたんだ……自分じゃ分からないんだ。手当、してくれる?」
「うぁ、う、うん。」
 久遠から救急箱を受け取る。流れ出た血が腕を伝って、右手は血で染まっていた。白い手、汚れてる。俺は泣きそうになりながら彼を座らせた。
 救急箱を開けて、戸惑う。手当てなんてしたことない。
「………大丈夫?」
「え? う、うん。平気。」
 久遠は俺を頼ってきたんだ。俺がやらなきゃ。大丈夫、久遠が俺にしてくれたこと、思い出せば、大丈夫。
 消毒液を取り出して、久遠の額にかけようとする。とそこで、このまま流したら目に入るって気付いた。ガーゼを出して、添えるように、当てる。
「しみると思うけど、」
「平気。僕、何も感じないから。」
「? どういうこと?」
 消毒液を持ったまま尋ねる。茶色い瓶は傾いたまま、宙ぶらりん。不安げに。
「あのね、許人。」
 久遠は励ますように、勇気づけるように、俺に笑いかけながら言った。

「僕ね、痛覚がないんだ。」

「………え?」
「だから僕、痛いって思わないよ。今も痛くない。何も感じない。痛そうに見えるでしょ?でも平気、僕全然痛くないんだ。」
 手当できなかったのも、そのせいなんだよ。 面白いでしょ?と久遠は言う。 痛くないから、分かんないの。僕がどこケガしちゃったのか。
「頭だってのは分かってて、いつもみたいに放っといてたら危ないかなって。 だから許人にやってもらいに、」
「久遠。_____いつもみたいに、って?」
「………えっと…………。」
 途端に口ごもる彼の、左手を握りしめて問う。
「久遠のお父さん、ひどい人。俺を捕まえる前からきっと、ひどい人。 久遠、ひどいことされてない?この傷付けたの、あの人じゃない?」
「___うん。正解。」
 いわゆる、虐待ってやつ。久遠は蚊の鳴くような声で呟く。
「お父さん、僕のこと嫌いみたい。 何でかな?僕、いい子にしてるんだけどな。」
「久遠、」
「外にも出してくれないし、毎日殴るんだ、どこか、顔以外のとこどこか。服着てたら分からないから。蹴ったりもするよ、僕、悪いことしてないのにな。何でかな。僕はお父さんのこと、好きじゃないけど、でも好きだって言ってるのにな。 やっぱり僕は、悪い子なのかな。」
 ぽた、ぽた。雫が床に沈む。染み通って、消える。
「今日だって僕、変なこと言ってないんだよ。どうして許人のとこ行くんだって聞かれたから、許人が好きだからだって、もう許人のこと虐めるの、やめてほしいって………言った、だけなのに。」
 痛くない、痛くないよ、だから平気、平気、だけど。 久遠はぼろぼろ泣きながら言った。 何でかな、泣きたくなるんだ。何でかな。辛いな。
「___久遠。」
 こつ。 そっと、額を突き合わせる。
「何で殴られたの?髪の毛、濡れてる。この破片はガラス?葉っぱとか、花びらとか………花瓶?」
「………うん。」
 久遠はまた俯いた。そっか。 俺は久遠の額から、ガラスの破片を取り除く。
「痛くない、って、言うけどさ。久遠すっごく苦しそう。」
「苦しい?」
「そうだよ。ひどいことされて痛くなるのは、身体だけじゃないでしょ。」
 久遠はいい子だよ。優しいよ、すごく優しいよ。
「俺はカミサマなんて信じてないけど、でも、久遠は本当の神様みたいだ。」
 あの日、俺の傷を見てぼろぼろ泣いてくれた君。そのとき俺が感じたのは、ある種の、神聖さ。眩しいような。
 神様みたいだ。
「僕は……神様なんて嫌いだ。」
「どうして?」
「誰も救ってくれない。君を救ってくれない。だから嫌い、大ッ嫌い。あんなヤツ大嫌いだ。」
 僕が本当に神様だったら。僕は君のこと、救ってあげれた。だから僕は神様じゃない、神様だったら、僕は、僕はちゃんと、____君を。
「久遠、俺は救われたよ」
「なんで?だって、今もずっと、辛いまま、」
「生まれてきてよかったって、心の底から思えたんだ。久遠のおかげで。楽しいとか幸せとか、俺には少しも分からなかったよ。久遠が教えてくれたんだ。俺は十分、救われた。」
 生まれてきた意味が、俺にあるとするならば……きっと久遠に会う為だった。
「………許人。」
「手当、しよう?泣かないで。」
 首を傾けて問いかければ、久遠は静かに頷いて。
 俺は黙って包帯を巻いた。久遠の頬を流れてく血に、心のどこかで、傷つきながら。


「許人っ!!」
 今日は何だか様子が違った。久遠は急いで駆け下りてきて、僕の左足首に触れる。
「久遠?」
「鍵、盗んだ。これで逃げれるよ。」
 ちらちら、と彼は銀色の鍵を振る。重りが解ける?
「あ………」
「気付かれる前に、早く、しないと。」
 鍵穴にその鍵を差し込む。何度かがちゃがちゃいじってるうちに、かちっ。錠の開く音がした。
「解けた!!ほら、許人。外して?」
「え、あ……うん。」
 重りに手を伸ばす。俺は逡巡していた。 出れる、俺は逃げられる。でも、
 久遠は?
「久遠……俺やっぱり残る。」
「___え?何で!?もう変なことされないで済むのに、」
「でも、そしたらお前に会えなくなる。」
 ぴた、と久遠は動きを止めた。俺は構わず続ける。
「そしたら久遠、一人になる。辛いでしょ、やだ、俺はそんなのイヤだ。俺が幸せになるんだったら久遠も幸せじゃなきゃイヤだ。」
「そんな……だって、」
「だから俺は行かないよ。久遠が一緒に来るなら、別。」
 たとえ虐待されてても、クーデターとして生きるよりずっと幸せなのかもしれなかった。けど、今のままじゃ久遠はずっと苦しいままで、俺はそれだけはどうしてもイヤで。俺がそばに居たら、久遠を苦しめる人は遠ざけられる。ここで一人にするよりは、と、俺は思った。俺ががんばってどうにかなるなら、一緒にいたい。
「そばに、いて、いいの?」
「へ?」
「僕、足手まといになるかも。」
ならないよ。俺は微笑みかける。俺が守るもん。
「__ありがとう。」
「久遠、行こう?」
「うん。僕も、一緒にいたい。」
 立ち上がって、手を繋ぐ。出て行こうとして出口を見上げた。
 背筋が凍った。
「やっぱり逃がそうとしてやがったな、クソガキ。」
 久遠の、お父さんだ。
「と……う、さん。」
「それ相応の罰は受けてもらうぞ。」
 階段を降りきった彼は、久遠を思い切り殴り飛ばして。久遠の軽い身体は簡単に吹っ飛んで壁にぶつかる。
「久遠っ!!」
「許人っ、逃げて!!!」
 僕は平気だから、と、久遠は言う。君だけでも逃げて、お願い、逃げて。
 あの人はナイフを取り出し、振りかざした。久遠の瞳が見開かれる。白銀が映り込む。
 このままじゃ殺されちゃう、久遠が?これじゃ俺のせいだ、俺が居なかったらこんな目には、嫌だ、どうしよう、俺何ができるんだろう。
 焦って辺りを見回せば。目を捕らえたのは真っ黒な塊。俺を閉じ込めていたもの。ついさっきまで縛っていたもの。 久遠が外してくれたもの。
「____殺してやる。」


「………え、」
 高く振りかざされた手は、いきなり力を失って、僕の命を奪う前に垂れ下がった。重い身体がのしかかってくる。その重みで潰れそうになりながら、僕は急いで許人を探した。
「__許、人?」
「く……おん、」
 僕と目が合うと彼は、呆然としたまま僕の名を呼んだ。 久遠、久遠、俺………何したんだ?
 僕は震えを感じながら父さんの頭部を覗いた。思い切りへこんでる。血が溢れて、黒髪が濡れて_____死んでる。確かに彼は死んでる。
「許人、君は……」
 だらりと伸ばされた彼の腕には、先程まで彼を捕らえてた重りが握りしめられてた。その重りからはぽたぽたと、血が、滴り落ちている。
 あぁ、それで殴ったんだ。
「久遠、ごめん、」
「許人、大丈夫?目が……」
 父さんの下から抜け出て許人に駆け寄る。両腕を掴んで揺さぶれば、許人は泣きながら僕に謝った。
「久遠、ごめ、ん、俺、殺した、久遠の父さん、殺しちゃった、ごめんね、ごめん、久遠、ごめん……」
「いいんだ、助けてくれたんじゃないか。許人、逃げよう?殺したことまでバレちゃったら、僕ら二人とも危ないよ。」
力ない頷き。それでも僕は肯定と受け取って、彼の手を引いて階段を上った。凶器はもちろん、地下に閉じ込めておいた。


「やぁ、栞田久遠くん。」
「………泡宮さん。」
 階段を上った先、小部屋を抜けた大広間。そこにいたのは、亡き父の同業者だった。
「そこにいるのは誰なのかな?もしかしてクーデター?またイタズラしてたの?君のお父さん。」
 あの人も下衆だよね、ってごめんごめん、子供の前で。 嘲るように彼は笑う。
「まぁクーデターは見逃すわけにはいかないね………と普段のぼくなら言ってるとこだけど。今日はちょっと、事情が違うんだな。」
「……事情?」
「___久遠くん、カミサマにならない?」
 ぼくら謀反を起こすんだ。泡宮さんは両手を広げる。 どう?魅力的だろう?
「大勢の人間が君の思い通りに動くよ?乗らない?」
「………嫌だよ。僕はカミサマが嫌いだ。あんなやつらになりたくない。」
 握りしめる手を強くする。許人は、心配そうに僕を見つめた。
「そう言うと思ったよ。だから交換条件だ。 そこのクーデター、見逃してあげる。」
 思わず、息が詰まった。
「君にとっては大切な友達なのかな?その子が死んでもいいのかな?君がカミサマになるってんならその子のことは見逃すよ?」
「だ、だめ、俺はいいから、だめ、____久遠が嫌なことやっちゃだめ、」
 許人は慌てて僕の肩を揺さぶる。僕は許人の顔を見れない。
「君には痛覚がない、その特殊な体質は、君が特別な人間だって人々に錯覚させるのにもってこいの性質なんだよ。だからカミサマは君でないといけない。政治的なお話は、ぼくの言う事聞いてもらうけど。」
 泡宮さんは言い切ると、笑いながら右手を差し出した。 どうする?久遠くん。俺はどっちでもいいよ。
「____許人に手は、出さないでよ。」
 静かに許人の手を放す。歩き出した僕の手を、今度は許人が掴んで。
「だめだよ久遠!! 嫌なんでしょ?何で?俺は平気だよ、嫌だよ、」
「僕も嫌だ。許人が死んだら、嫌だ。」
 振り返って、微笑みかける。許人の真っ青な目が、濡れて、まるで海と湖みたいだった。
「大丈夫、また会える……どうしても不安なら、お互いに貸し合おう。」
「貸す?」
「そしたら、返さなくちゃでしょ。返す為にまた会える。」
 でも俺、物なんて、一つも。震える声で呟く彼。
「それなら……“言葉”を貸して。」
「“言葉”?」
「うん。 僕はこれから、君の真似する。だから君も、“俺”の真似して。」
 僕の言葉でちゃんと、許人は気付いたらしい。下唇を噛みながら。
「___分かったよ。“僕”も真似する。」
「ありがとう。」
 許人はその手を放した。俺は振り返らずに、歩いてく。屋敷を出ようとした瞬間、背後から彼は叫んだ。
「久遠!!僕助けにいくから!!!絶対、絶対助けにいくから!!! 返しにいくから!!!だから待ってて!!!」
「……………うん。ずっと、ずっと待ってる。」
 もう一度だけ振り返って、俺は笑った。許人は切なそうに顔を歪めて、それからやっと、笑い返した。


「___そうか。そんな理由か。」
「うん。それが事の始まり。」
 栞田は紅茶を口に運んだ。俺はその様子を見ながら、ほんの少しため息をつく。
「……アイツの事、誤解してたな。」
「真白のこと、できれば嫌わないであげてほしいよ。無理かもだけど。アイツが殺人鬼だってのは歪めようのない事実なんだし。」
 でも、あれは俺のせいだ。
 栞田の言葉に疑問を返す。 お前のせい?
「アイツ人なんか殺せないの、ほんとは。俺の父さんを殺した時も気ぃ抜けちゃってたし。 でもそんなんじゃ、俺の事、殺せないなんて言っちゃって。わざと自分が壊れるような事をした。おかしくなっちゃえば、きっと久遠も殺せるから、なんて。」
「……何でそもそも、殺そうとしてんだ。」
「冗談でしょ?分かってるよね、大佐。」  認めたくねぇから聞いたんだけどな。俺は角砂糖を一つ、紅茶のなかに投げ込んだ。
「お前……死にたい、のか。」
「うん。もうずっと前から。」
 角砂糖が溶けていく。ゆっくりと、砂のように。崩れてく。戻らない。
「カミサマでいるなんて、俺には無理だよ、耐えきれない。ずっと苦しいの、なってからずっと、俺はただの人間で、神様なんかじゃないんだから、人の人生なんて、そんな、背負いきれる訳が___ない。」
「けど自殺なんてできやしない。お前が死ぬ事で打ちひしがれる人間は、数えきれないほどいるから。」
「そう、俺が“生きる意味”だから。」
 久遠が苦しいのは嫌だ。あの日、真白は俺にそう言った。 だから僕が殺してあげなきゃ。久遠はずっと苦しいままだよ。だから僕が、殺してあげるの。
「____不器用なヤツだな。」
「うん、すごくね。」
 だから俺は待ってんだよ、ずっと。約束だもん。
 栞田は紅茶を見つめた。少し波が立っている。湯気は薄くなりつつある。
「アイツはお前を殺せるのか?」
「分からない。でも俺の為なら何だってするよ、アイツは。 俺自身を殺す事すら。」
 俺が真白にそうするように。
 栞田は、寂しげに答えた。 

君だけの神様だったら、僕はなってみたかったよ。
ぐりょが絵描いてくれたああああ;;;→こちら
2011/01/23:ソヨゴ
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