祈りを捧げる。教会の聖壇に向かい、跪き、指を絡めて。ステンドグラスが写し出す様々な色の光達は、差し込んでくる太陽に似て、深海のような教会の一筋の光となっていた。胸のガラスのペンダントが、虹色をちらつかせる。誰もいない教会で。私は長い間、ずっと目を閉じていた。
 その声が聞こえるまで。
「なぁ、何してんの。」
「………どなた?」
「んー、お前の知らねぇ人。」
 それくらい、分かっているのだけれど。私は立ち上がってほこりを払った。背後から強くさし込む光。振り返れば、彼は扉を開いてそこにいた。
 左手のチェーンソー。
「貴方は………」
「僕が誰とかどーでもよくねぇ?僕はいつだって僕でしかねーし。」
 それよりさぁ、何してんの。 彼は気怠げに問い返す。
「_____祈りを、捧げていました。」
「祈り?何祈ってたの。」
「誰も、傷つかないように。」
 変なの、と彼は応えた。自分の望む事はないのか、と。
「___特には、ありません。だから私は全ての人が救われるよう、祈ります。」
「………ふぅん。」
 いい子なんだね、お前。
 呆れるでもなく、讃えるでもなく、ただそれだけの感想を彼は私に投げつけた。否…投げつけられたと感じたのは、私自身の負い目のせい。
「___“もし願望が馬であるなら、乞食も乗るだろう”。」
 戸惑う彼に答えを示す。 昔の言葉です。
「いい子、などではありません。私は自分では何もしないで、ただ、祈っているだけです。神に願いを押し付けてわがままに祈るだけ。逃げているのです。愚か者です。私も___兄も。」
 ニイサマ、愚かなお兄様。願いも望みも見失っている彼を見るたび感じるのは、軽蔑と憐れみと、ほんの少しの家族愛。分かっている、貴方はとっくに狂っている。いっそ現実も見えないほどに愚かであれば良かったのに。どちらへも行けない私達は、中途半端ゆえもがき苦しむ。足場がなく、溺れるような。私達には行く場所がない。
 どこへも行けない。
 行く当てのない私達は“祈り”へと逃避する。その願望を押し付ける。神に、贄に、犠牲者に。十七歳の少年に。 私達はきっと、地獄へ堕ちるべきなのでしょう。
「こんな世界は嫌、なのです。かといって、変える術など分からない。変える力もありません。一人では何もできないのです。だから見えないふりをして、いたずらに神に祈り続ける。神に想いを押し付ける。残酷です、私達は。救いを求めるばっかりで彼には何も返さない。私達は愚か者ですよ。」  もし祈るだけで全て叶うなら、乞食だって祈ってるだろう。 祈りは、届かない。届く先がないのだから。
「分かってんなら祈ってないで、お前が世界変えちゃえばいーじゃん。」
 簡単に言うなぁ、なんて。心の中でひっそり思う。
「私には、そんな力は。」
「んなこと分かってんよ、バカ。一人でできるワケねぇじゃん。」
 世界は一人でできてるワケじゃない。色んな人が、回してる。
「でもさぁ、みんな“一人一人”だろ。みんな違ぇけどみんな一緒だよ、願ってることはみんな同じ。正直モンもひねくれモンも願ってるのは同じこと、『いい世界になれ』、そんだけだろ。」
 聞きながら私は、身の震えるような何かを感じた。中心から湧き上がる、波長のようなエネルギー。
「みんな待ってんだよ、誰かが声を上げんのを。誰かが言えばついてくんよ。一人じゃ何もできねーけど、一人じゃなきゃあできんだろ。最初は“一人”だろーけどどうせ“みんな”になんだよ、だから、やってみりゃーいいんじゃねぇ?」
 何でもないことのように、淡々と彼は言い連ねた。先ほど感じた何かの正体、私自身を突き動かす力を持ったその衝動。やっと分かった、その言葉。
『世界は変えられる』。
「私に……私に、できるでしょうか。」
 声が震えた。 問いかけに、彼は首を傾げる。
「知らねーよ。だって僕やったことねぇもん。」
 そう。
 誰もしたことがない、ならば、できるかどうかなど分からないではないか。凡小な私にそんなこと、判断できる訳がない。やってみなければ分からない。やる前から決めつけるなど、真に阿呆のすることであった。私は阿呆であったのだ。
 ペンダントを握りしめる。恐怖もある、不安もある、それでも私は生きている。生きている人間に、為せぬことなどないではないか。
「ん、じゃあ僕そろそろ行くね」
「え?___あ、はい。」
 バイバイ。学生服の彼は素っ気なく言って立ち去った。後ろ姿に手を振りながら、もう会えないであろうことを悟る。
 ちらつく影。死の、香り。
続き

2010/02/28:ソヨゴ
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