彼は俺の手を引いて飛び降りた。
 落ちていく身体、恐怖、俺は怯えて彼に縋って、彼は昔と同じ温もりで不器用に俺を抱きしめる。殺される覚悟はあった、それでも本能は俺を襲って、震える俺を慰めるように彼は一層強く、強く、どうして、なんでこんなこと、__湖の水面が見える。
 湖水に飛び込むその刹那。彼は、そっと囁いた。

Don't worry,Pussy Cat.



 その日、カーティスは珍しく飲みの誘いを断った。
「あれ、珍しいじゃん」
「まぁな」
 彼は片手間に返事してさっさと自分のロッカーを開ける。俺もまたロッカーを開けて、母国語で彼に話しかけた。
『デートの約束でもあんの』
『バーカ。俺は今フリー』
『え、マジで? なら付き合おうぜカーティス』
『ハ、願い下げだよキース。俺が女になっちまったらその時は考えてやる』
 ……俺は少々苛ついた。無論断られたからじゃない、俺は彼に出会って以来何度もこういう『冗談』を言ったが一秒後にはすべて拒否された。最短で0.2秒、一番時間のかかった3秒は彼がカクテルを飲み干す間だった。素っ気ない返事をされるのはいつものことだ別に傷付かない、そうじゃない、そこじゃない。俺が気分を悪くしたのは、
『__オイ、カーティス』
『んだよ相棒』
『俺はお前が女だったら、付き合おうなんざ言わねーよ』
 俺は、ホモセクシャルだ。女など好きになるものか。
『……あぁ』
 悪ぃ悪ぃ、とぞんざいに返し、俺の相棒はネクタイを解く。何の突っかかりもなく彼のネクタイはするりと外れ、その手つきはどこか気品があって、さすがは名家の跡取り息子だ。彼は口も頭も悪いが所作だけはいつも品が良い。振る舞いはどうしたって高貴で、俺はそれを目にするたびに育ちってヤツは怖ぇなと思う。隠しても、意識しなくても、品位は表に出てしまう。染み付いたものはとれやしない、__怒るだろうなぁ。こんなこと言ったら。
 彼は自らの生まれの良さを疎ましく思っているようだ。彼が貴族であることが、彼にとっては煩わしいらしい。実際、少しでも彼の生まれを褒めるような言動をすれば必ず彼から蹴りが飛んでくるし、その後の彼の行動はひどく粗雑なものになる。わざと道端にガムを捨てたりドアを乱暴に閉めてみたり、__そこら辺、分かりやすくてかわいい。バカ正直なヤツなのだ、単純で、真っ直ぐで、ひねくれたところがなくて、だから俺はこいつが好き。 欲望以外の目で見てもね。
 俺がジャケットを脱いでいる間に彼はもうシャツを脱いでいた。見ないようにとは思っていてもどうしようもなく、見つめてしまう。そりゃあお前抱きたいヤツが目の前で脱いでたら凝視するだろ? あぁ、イイ身体してんなぁ。いまだに『冗談』に過ぎないと捉えられている節があるが、俺は本気でカーティスが好きだ。だってのにこの相棒は肌を晒すのも躊躇しない、シャツのボタンも二個は開けるし腕まくりだってよくしてる、二人っきりの車の中でネクタイを緩められたときなんか誘ってんのかとだなぁ……全く、俺の自制心を高評価し過ぎだっつーの。こういうところも育ちの良さか、人を疑わないから困る。
 まぁでも、勤務中は絶対に居眠りをしないこの男が、俺の隣では目を閉じる訳で。彼の信頼の証だと思えば油断してくれているのは嬉しい。何度か我慢できなくなって彼の唇を奪ってはいるがそれはまた別の話だろう。 いいんだよ、バレてないんだし。
『お前着替えんの遅ぇな。 もう出るぜ』
 彼はライダースジャケットのジッパーを閉めてそういった。彼の髪の毛と同じ色をした、艶のある黒い革。__チクショウあれ本革じゃねぇか。多分すっげぇ高ぇぞ、くそっ、家柄は鬱陶しがるのに金は惜しみなく使うんだもんな。 都合のいい彼はくるくると車のキーを人差し指で回す。
『なーお前さ、いつなら空いてんの?』
『大概暇だよ。今日が特別』
『そんなら、明日は呑みに行ける?』
 通り過ぎようとする彼に俺は何気なく問いかけた。すると、彼は動きを止めて、__その横顔があまりにも静かで。
『……生きて帰れたらな』
 再び歩き始めた彼の右腕を、慌てて掴む。振り向いた彼の瞳の、深いブルー、湖の青、俺を見据えて動かない。……怖い。何故、こんな目をする。こんな、何もかも覚悟したような、殉職していった同胞達と同じ瞳で何故俺を見る。
『何しに行くんだ』
『何だっていいだろ』
『よくねぇよどういうことだ。説明しろ、俺は相棒だろ? 命に関わるようなことなら俺も着いてく、』
『駄目だ』
『どうして!』
『落とし前は自分でつける。__“あの子”も、そう言っていただろ』
 “あの子”。
 俺は、言葉をなくした。“あの子”、かつて神だった人。悲痛なまでの訴えをもってこの世界を0に戻した少年。仮に、相棒が見せた決意が“あの子”と同等のものであるなら、……俺が何言ったって無駄だ。
 手を放す。彼は笑って、俺の額を軽く小突いた。
『んな顔すんなよ。俺は死なねぇ』
『もし死んだらどうするんだよ』
『俺の葬式にストーンズ流せ』
『このまま死んで帰ってきたらテイラー・スウィフト流してやっから』
 ざっけんなてめぇ、祟るぞ。 彼は俺に膝蹴りをかまして出口の方へ歩いていく。鳩尾を押さえつつ、俺はカーティスの背に尋ねた。 なぁ、お前何しに行くんだ。
 彼は再び立ち止まる。そうして俺を振り返り、優しく、優しく、微笑んでみせた。俺は思わずその顔に見蕩れた、今まで見たこともないような、柔らかな、温かな、__それは悲劇へ向かう人間の安らかさにひどく近かった、死に向かう人間の__しかし、彼は死ぬ気など、これっぽっちもなかったんだ。俺がそのことに気付くのは、彼が部屋を出て行った刹那。
 彼の捨て台詞を聞いてから。

「Make a happy ending,Keith」




 目覚めると彼が泣いていた。そこは雨の降る路地裏で、どんよりと重く沈んでて、うつぶせに倒れた彼は太った男に組み敷かれてた。幼い少年の瞳には犬の死骸やら空き缶やら魚の骨やら嫌なものが映って、それらは彼を追い込んで絶望させてしまおうとする。遊ばれて、殺されて、嫌なものたちの仲間入り。__おいでよ。楽だぜ。
 もし、俺が外側から彼を眺めていたのなら、彼の涙は雨粒に紛れてしまって見えなかっただろう。でも、俺は内側にいた。彼の中から彼を見ていた。だから俺は知ってるよ、彼が助けてと泣く度に、必ず脳裏に顔が浮かんで、きっと恋しいはずのその顔を彼は必死で掻き消していたんだ。大好きなはずの、愛してるはずの、今すぐにだって抱きしめてほしいそんな人達の姿を笑みを、壊して、忘れようとして、だっていくら乞い焦がれても彼らは彼を守ってはくれない。逃れようとして暴れる彼を男がビール瓶で殴った。彼はぴたりと動きを止める、抵抗しなくなった彼に気を好くしたのか知らないが男は自らのベルトを外した。ジッパーが下りて、モノが晒されて、男はそれを彼に押し付けて、彼がぎゅうと堅く目を瞑るとそのまま彼に擦り付け始める。生々しい感触、動き。彼は地面に爪を食い込ませる。泥が彼の小さな爪に入り込んで彼を汚した。男が彼のズボンに手を伸ばし引き裂くように脱がせて捨てる、うなじをねっとりと舐められながら彼はやっぱり「助けて」と呟き、そうして、あの人に手を伸ばす、__お兄ちゃん、お兄ちゃん、助けて__けど届く前に彼は諦めた。思い出したんだ。あの日兄に蹴られて、嘔吐した時の胸の痛みを。
 男は彼をひっくり返した。地に叩き付けられた彼に男は突き立てて貫いて、彼は金切り声で叫んで俺は見ていられなくなった。こんな目に遭わなきゃいけないほど、彼は悪いことしたのかな?……違うよ。彼は愚かだっただけ。愚かなだけならまだよかったのに加えて彼は賢かった。賢い人間の愚直さは、悲惨だ。ああ可哀想に彼は「正しさ」をこの世の中から掘り起こしちゃった、だけども彼は「正しさ」の意味をきちんと理解してはいなかった。「正しさ」は、人を刺し殺すナイフ。そんなもの振りかざしちまえば、迫害されても、仕様がない。
 激痛に混じる「感覚」に段々と彼は侵され始めた。初めて知るその「感覚」が、彼には怖くて仕方がなかった。悲しいかな、彼は未だにあの「感覚」を恐れているんだ。さすがに未経験じゃないけどさ……××××恐怖症、ってヤツ? 俺はあの子の将来が心配だよ、ちょっぴりね。
 やだ、いやだ、たすけて、こわい。 彼は脅えながら喘いで、その声が逆に男の欲を煽ってしまっているということに、……気付けってほうが残酷かなぁ。彼は兄の面影を求めることもやめてしまって、どうやら生きることそれ自体を投げ出しかけているみたいだった。さて、困ったのは俺だ。 今、こんな状況で、俺が生まれてきた理由。
 彼を守れってことだろう。
「アーネスト」
 俺は内側から呼びかける。彼は、俺の声にはっとして、
「あ、……だれ、きみ、だれ、」
「誰って。“君”だよ、アーネスト」
「俺?……俺は、ヒトリだよ。」
 彼は凄惨な笑顔を見せる。俺はいたたまれなくなった。そう、彼は実に正しい。彼は紛れもなくヒトリボッチ。ヒトリだったから、俺が生まれた。じゃなきゃ俺なんか必要ないもの。
 俺は仕方なく、彼に嘘を吐く。
「ヒトリじゃないよ。俺がいる」
「……たすけて、くれるの?」
「そうだよ」
 俺は彼の目を借りた。視界の端で破片が散ってる。さっき男が彼を殴ったガラス製のビール瓶の死体。原型が想像できる程度に控えめに砕け散った破片の、その中に一つ、鋭い欠片。取り残された細長い刃。
「見える?」俺はアーネストの手を取って彼に握らせる。「ナイフだ」
「ナイフ?」
「殺さなきゃ」
「だれを?」
「コイツをだ。喉元かっ切って君が殺すの」
「……できないよ、」
「いいの? このままじゃ、十中八九君は死んじゃうよ」
「やだ、いやだ、」
「じゃあ殺せ」
「できないよ、」
「じゃあ死ねば。君の身体だし、君が決めなよ。 」
 俺は何だか面倒になって犯される彼を見放した。彼は男に突き上げられてびくんと大きく背を反らせ、もう俺が何を言ったところで聞こえることはないように思える。なのに、俺の意地悪な言葉は、彼の脳内でリフレインしていた。彼はそれらに答えるように何度も何度も譫言を、__できない、できないよ、こわい、たすけて__ため息がでた。 仕方ない。これが俺の役目なら、ね。
「それなら、俺が殺してあげる」
 俺は破片を強く掴んだ。あまりに力を入れすぎて破片は俺すら傷付けたけどそんなことはどうだってよかった、男が認識する前に、男がその間抜けな面を惜しげもなく晒してる隙に、俺は破片を振りかざす。
 スローモーション。
 赤茶のガラス。降り落ちる雨。15°に割れた切っ先。首筋。くすんだ肌に刃が埋まる。血液が滲みだすのが分かる。俺はあらん限りの憎悪を鋭さに込めて両手で握り、横に、引き裂く、この男が、アーネストの服を引き裂いたのと全く同じようにして、皮膚を、意識を、命を、息を、喉元が切り開かれていく、男の中に空洞ができる、外界とヤツの体内が一つに繋がった瞬間に、
 血が噴き出した。
 シャワーの音だ、と思った。不規則なレインドロップと違ってその音はひどく一定で、放っときゃいつまででも続きそうだ。不意に戻ってきた現実に俺はすっかり拍子抜けして、ぼんやりと冷めてしまった頭でちゃちい噴水を眺めてた、ガーゴイル? 獅子の像? 小便小僧よりゃ勢いがあるか。俺はアーニーの記憶を漁ってしっくりくる形容を探した。結局、彼の実家近くの公園の噴水が一番似てたが、詳しく語ってみせたところで君らには伝わんないだろう。ペンギンの形した、すっとぼけたやつなんだけどさ。
 15秒経って血が止まった。男は腑抜けた笑みのまま俺の上に倒れ込んでくる。アーネストの小さな身体は(そりゃ、あの時“意識”してたのはアーニーじゃなくておれなんだけど、元々は彼の身体な訳だしこう表すのが適当だろう)男の太り果てた肉体の重さに耐えうる強度ではない。危うく、圧死しそうになった。
「っあ、」
 俺は泥の中でもがいて男の下からなんとか這い出た。死してなおまだ硬いソレが俺の中からずるりと抜けて、あれは、嫌な気分だったな。
 立ち上がり、破片を放る。落下した破片は三つに割れて、雨水がそれに鏡を張って揺れながら俺を映し出す。安っぽい姿見は、俺の姿を歪めてみせる。生まれて五分で人殺しかと俺は自分を嘲って笑う。でも、それが俺の存在理由。__君の為だけに俺は生まれた。
 “レンド”。それが、俺の名前だ。



 あの日テレビで観た軍人が俺を訪ねてきた時は、驚きで立ち竦んでしまった。逃げなきゃ、そう頭の中で警報が鳴り響いた時には、俺はもう腕を掴まれていて。
「逃げるなよ。殺したりしない、……カミサマが死んじまったんだ。クーデター殺す意味なんかねぇだろ?」
 言い方は少し嫌味だったが、声音はとても柔らかい。俺の腕を掴む手も、引き止める以上の意味を持たない強さで保たれていた。俺は、とりあえず警報を止める。改めて見上げると軍人は二人いた。えんじの軍服と黒の軍服、髪色はそれぞれコーヒーとプラチナ。
「何の用ですか」
「野暮用だ」
「お手紙。渡しにきたんだよ」
 食べないでね、と茶化す銀髪に、黒髪の男が蹴りをお見舞いする。銀髪はその場にうずくまりしばらく再起不能となった。黒髪は蹴りを入れておきながらあのヤギの歌をハミングし、ポケットの中をごそごそと探る。
「痛そう、」
「痛くしたからな。あ、一応確認していい? 君の名前は、」
「アーネストです」
「ん、合ってるな。はいラブレター」
 黒髪は軍帽を外しながら手渡した(ラブレターはよくてヤギは駄目なの? と余計なことを言った銀髪は今度は銃底で殴られていた)。俺は手紙を受け取りながら、宛名に妙な既視感を覚える。Dear Ernest。この汚さ、rとnを繋げちゃう癖。
 ひっくり返す。 From,Curtis。
「っ、要りません」
「もらっとけ。伝えたいことがあるんだってさ」
 慌てて突き返そうとした俺を静止して彼は頭を撫でる。彼の手は温もりがあって、それでいてひどく華奢だった。太陽は彼の背後にあって彼の微笑みは陰って見える、広い手の平と細長い指が何度か俺の髪の毛を荒らして、俺は、この感触を、どこかで、……デジャヴ? いや、確かに俺は、この人に会ったことがある。テレヴィジョン越しに会う前に。ずっとずっと、遠い昔に。
「あの、」
「じゃ、俺達は帰るぜ。ほらいつまでダウンしてんだ沢霧」
「誰のせいだと思ってんだよ」
 銀髪は恨めしげな声を出し、しかしその割に威勢良く立ち上がって俺に手を振った。バイバイと言って去っていく彼に軽い会釈を返していると、黒髪の彼もまた、同じように別れを告げる。俺は彼ら二人の背中が芥子粒ほどになってしまうまで、いつまでもいつまでも見送って、引きずり出された記憶のフィルムと空間に漂う残滓とを比べ、__あぁ、やっぱり。コウイチさん。何年前のことだろう、俺が15のガキだった頃、__俺は封筒に目を落とす。開く勇気がでないまま、古い記憶を引き出しに仕舞う。また彼に会えるだろうか? 会えるとしたら、その時は、きっと。
 扉を閉めて寄りかかる。鉄製のドアは冷えきっていて冬が背中に染み込んできた。俺は、目を閉じて秒針を聞く。規則的な音に耳をすませる。何度目かの呼吸のあとに、俺は静かに、封筒を開いた。
 中にあったのは真っ白なカード。日時と、場所だけ書き記した文字。俺はカードに示されたその場所をよく知っていて、故に大きな違和感を抱いた。すんなりと飲み下せない齟齬。むずがゆいような居心地の悪さ。……その正体に気付いた途端、思わず、嘆息が零れ出た。




「……スペル、間違ってるし」
次のお話はカーティスサイド。

2012/02/22:ソヨゴ
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