I'm yours.


 目を背けるのにも飽いた。姉さんの話をしよう、俺の“所有者”のお話を。ずっと誤摩化し続けていたけど、きっともう無理なんだろう、最近は姉さんの夢ばかり見る。認めよう。姉さんは、アーニーのせいで狂ったんじゃない。もっと前、ずっと昔から、あのひとはおかしかったのだ、歯車が、ずれていた。取り返しのつかないほどに。姉さんの狂気の色を識っているのは、俺だけだ。親父も、お袋も、アーニーも、みぃんな知らない。俺だけだ。俺だけ、__姉さん。貴女の執着が、愛でないことは分かってる。貴女は俺を愛してなくてただ俺が「欲しい」だけ。でも俺は、“所有物”は、貴女を愛しています。貴女が、そう仕向けたのだから。
 錆び付いた記憶の中に鮮やかな一幕がある。俺が八つで、姉が十四の頃、ある夏の日に姉さんは、湖で泳いでいた俺にこう声をかけた。
「いいもの、見せたげる」
 俺はびしょ濡れのままあとを着いてった。姉さんの、真っ白なワンピースの裾がゆらりゆらりと揺れていた。ワンピースは少し透ける素材で、袖の辺りが特に薄くて張りのある素肌がうっすらと見えた。金髪が眩しい。姉さんは別荘の戸口で俺を待たせると、すぐにタオルを持ってきて俺の髪や身体を拭いた。滴は垂れなくなったが、濡れたシャツが貼り付いて息苦しかった。
 姉さんが瞳を覗き込んできて、俺もじっと見返した。姉さんの瞳は鉱石のようで、どこかの国のお姫様がペンダントにしていそう、きらきらした、大きな青。
「綺麗ね。私と、同じ色」
 姉さんは俺の手を引いて、リビングを抜け、廊下を曲がり、突き当たりの、自室へ招き入れた。クーラーの効いた廊下は床が冷たくて、ひんやりとして、湿ったままの素足は床に吸い付いて跡を残し、ああ、母に怒られる。廊下に備え付けられた窓から日が差し込んで、そこだけは、暖かくてきもちがよかった。すぐ歩み去ってしまうような僅かな日差しだったけど。
 別荘の姉さんの部屋に入るのは初めてだった。俺が、脱ぎ捨てられた下着に頬を赤らめ目を逸らすと、姉さんは手を放し、ドレッサーからマニキュアの瓶を一つ、手に取った。ドレッサーは、ロココ調のデザインでクリーム色の小さなものだ。窓辺でパステルグリーンのカーテンがはためいている。開け放たれた窓の向こうは陽光が輝いて、樹々の葉がきらめく。
「何の色だと思う?」
 姉さんは身を屈め、マニキュアの瓶をちらちらと振った。山吹色。甘そうで、飲みくだすと、喉の焼けそうな。
「蜂蜜。__ねえさんの色」
 その言葉はよく知っていたんだ。姉さんの金髪が、きれいだ、と母に言ったら、あれはハチミツ色というのよ、と母は答えて、俺はキッチンから蜂蜜の瓶を探し出して覚えたのだ、字と、色。honey。甘い響き。甘い物は、あまり好きじゃないけど。
「いい子ね」
 姉さんの華奢な手が俺の黒髪をさらさらと撫でた。照れて俯くと、鳥が鳴く。小鳥が愛らしくさえずってみせる。日射から逃れた部屋は翳って、涼しい風が通った。 完璧な真昼。
 姉さんはドレッサーから丸い椅子を引き出した。赤いベルベットのクッションが、ドレッサーと揃いの色の石膏の土台にくっついたもの。土台はギリシャの神殿の柱みたいな形をしている。俺は脱ぎ捨てられていたネグリジェが淡いピンクだったこと、そのネグリジェが置かれてた白いベッドのことを、思い出した。姉のベッドは金属製で、蔓のような模様が描かれていて、俺はラプンツェルを連想した、豪奢な城に住む姫でなくて、高い高い、狭い塔の、てっぺんに閉じ込められたお姫様が眠る場所。ベッドの傍には姿見があった。
「手を出して」
「手?」
「そう。左手」
 椅子に座り、姉はそう言った。俺が左手を差し出すと、彼女は俺の手を取って、器用にマニキュアのキャップを開ける。
「塗ってあげる」
 ふっと、シンナーの香り。風にかき消される。蜂蜜の中から透明な、細い筆が姿を現す。筆は縁で余計な液をこそがれ、俺の親指に触れた。はみ出さぬよう、残さぬよう、丁寧に筆は運ばれる。か細い糸が爪を染めていく。俺は息をするのも躊躇って、控えめに呼吸していた。筆を何かに喩えるとするならそれは羽根だった、ふわり、ふわりと、柔らかく、優しく触れる。ちょうど姉さんが俺の頬にキスするときと同じ様に。ふわり、ふわりと触れる。触れられるたび爪はちょっとずつ厚ぼったくなってきて、少しくすぐったかったが、やがてその感覚にも慣れた。結局姉さんは一つの爪を四回も塗った。乾いては塗り、また乾いては塗り、それを両手とも行ったから終わった頃には日が暮れていた。シャツはまだ生乾きで、肌寒かった。
「震えてる?」
 小首を傾げる。姉さんは、俺が頷くのを待ってから俺を抱きしめる。薔薇の匂いがした。姉さんの身体は温かく、俺はたまらなく心地よく感じた、廊下の、床に投げかけられた日差しと同じで暖かかった。姉さんが耳元で子守唄を歌いだす。とろとろと微睡みながら、俺はその歌を聴いている。

(眠れ。眠れ。)



 夏休みも終わりが近付いてきて、俺は爪の蜂蜜色が気になりだした。登校したら、級友たちになんて言われるだろう。だから俺はマニキュアを落としてくれと頼むことにした。母親に。姉さんに、は、言えなかった。言う勇気がなかった。
 夕食の時間。姉さんは、俺の爪をしっかりと見ていた。俺は何を言われるだろうと、いや、何をされるだろうと、酷く怯えていたのだけれど、姉さんは無言のうちに夕食を終え、眠りについた。風呂上がり、自室へ向かう姉さんの背中を見ながら俺はほっと安堵して、でもそれは間違いだったな、今なら、分かるけど。
「カーティス」
 呼びかけられたのは、翌朝。誰もいないリビングでだった。
「ついておいで」
 姉さんの微笑みは、いつもと変わらず穏やかだったけど、青い瞳の奥の光がいつもと違う色をしてること、俺には分かってた。俺は、いつでも、姉さんの傍にいたのだから。誰よりも近くで見ていたのだからどんな色だって知っている。
 逃げなきゃ。
 今は駄目だ。今ここで逃げようとしたって捕まってしまう。父と母と、それからアーニーは、アーニーが入る予定の小学校の下見に行っていた、この別荘から遠くはなれた本家の近くだ、夜まで帰ってこない、二人きり。逆らわないで後を着いていこう。それで、機会を窺って、逃げよう。でなきゃきっと×されてしまう。
「どこに行くの?」
 俺はナイフとフォークを置いて、目玉焼きに混入していた殻を取り除いてから、言った。


 辿り着いたのはライ麦畑でどこまでも金色だった。姉さんは一面の、視界に収まりきらないほどの金色の中を進んでいった。じきに姿が見えなくなって俺は思案した、逃げるなら今? 恐らく、あの時逃げ出していれば俺は助かったんだろう、だけれど姉が見えなくなって、俺は無性に不安になって、その日は快晴だった、雲一つなかった、夏の終わりを告げる蜩が五月蝿いくらい鳴いていたのに太陽は熱くて、熱くて、血が今にも沸き立つようで、ニセモノみたいに濃い青い空と金色と陽炎が、俺の心をぐらぐらとさせた、姉さんが、陽炎に溶けてそのまま消えてしまうような気がした、ぞっとした、そんな訳ないのに、俺は姉の姿を探してライ麦畑に立ち入ってしまった。
(一度、死んで、生き返ってから、いつ命が尽きるだろうと、ずっと考えていたんだが、案外早く来たものだ。残された時間で、俺には何が出来るだろう。)
「ねえさん、ねえさん、」
 麦の穂は、俺の背丈寄り幾らか高く、姉はおろか、自分自身の姿まで見失ってしまいそうだ。ライ麦畑は広かった。果てがなく、いつまでも、金色の森が続いている、迷いの森だ。地平線が見えない。ここには空と金色しかない。汗がだらだらと溢れ出し、背を、胸を、首筋を額を、腕を、足を、膝の裏を、くすぐったく滑り落ちていく。酸素が茹だって息がしづらい。湖へ行きたくなった。しんと静まった湖面に飛び込み、自由になりたい、全部洗い流して、__陽炎が地面を融かす。足下が揺らめく。くらくら、する。
「ねえさん、」
 その時、風が吹き抜けた。爽やかな風だった。姉さんが俺に声をかけ髪と身体を拭き目を合わせ冷えた廊下を歩いた先でマニキュアを塗った日に、姉さんの部屋のカーテンを揺らしていた風に違いなかった。おなじように優しい。
 振り向くと姉さんがいた。姉さんは俺の両肩に、手を置いて、瞳を細めた。
 どさり。
「……ねえ、さん?」
「印を付けなくちゃ」
 姉さんは俺を押し倒し、馬乗りになった。俺は呆気にとられてしまって、ろくな抵抗が出来なかった。しても無駄だっただろうけど。
「しるし?」
「印よ」
「なんのしるし?」
「名前の代わり」
「なまえ? だれの?」
「私のよ」
「どうして、」
「習ったでしょう。ママや、先生に」
「なんて?」
「『持ち物には名前を書きましょう』」
 姉の右手にはアイスピックがあった。
「なにするき、」
「貴方ってば、印を付けたのに消しちゃうんだもの」
「なにするきって、」
「悪い子なんだから。いたずらっ子。そんなところもかわいいけれど、名前を消されたら、困っちゃうわ」
「ねえ、やめて、なにするき、」
「でも私も悪いのね。消えちゃうペンで書いたから。水性ペンで書いたようなものね泳いだら消えてしまう、貴方泳ぐのが好きだから、遅かれ早かれ消えていたわね」
「こわいよ」
「今度は消えないわ」
「はなして、」
「痛いかもしれないわ。暴れるともっと痛いわよ」
「ねえさん、ぼく、いやだ、いやだよ、」
「黙って」
 姉さんはブラウスに手を掛け、一気に、引き裂いた。釦が飛んで、そのうちのいくつかが姉さんの顔に当たった。お腹の上の辺りまでしか開かない様になっていたのに、姉さんは下まで引き裂いていしまってブラウスはシャツみたいになって、ママがおこるよ、ねえさん、ねえさん、姉さんは左手で俺の身体を押さえつけるとアイスピックを握り直した。空が青い。ああ空が青い。青すぎて、何だかこのまま押し潰されてしまいそう、蜂蜜色と、群青色と、鋭く尖った銀、綺麗だ、夢の中なのかなあ、違うよね、瞳の奥が、姉さんの瞳の奥が、綺麗だ、殺される、綺麗だ、綺麗だ、
 切っ先が胸に突き刺さる。肌が裂かれた瞬間に、俺は気を失った。


 目が覚めるとそこはベッドの上。傍らには姉さんがいた。胸の辺りがじん、と痛む。傷口が熱を持っている気がする。
「見る?」
 頷いて起き上がる。姉さんの指差す先に大きな、細長い姿見がある。なんだ、ここは姉さんの部屋か。ブラウスは当然はだけていたけど、傷口は上手いこと、生地の向こうに隠れていた。……衿をつまんでめくる。
「__ああ、」
 “It's mine”と、刻まれていた。
「パパとママが帰ってきちゃったわ。カーティス、腕を出して頂戴」
 俺は姿見から目を離し、ゆっくりと姉に向き直る。(It's mine,It's mine,It's,)右腕を差し出した。姉さんは、(いうことをきかなきゃ)いつかみたいに俺の手を取って、その時気付いたのだけど、姉さんの部屋の扉は忙しく乱暴に叩かれていた、(ぼくは、ねえさんの“ショユウブツ”だから)姉さんが注射器を持っていることは知っていた、容器を満たす液体が、(いうとおりに)毒薬の類いだってことも、俺は姉さんの目の奥のどんな色でも知ってるよ、だから分かってた、姉さん、俺を、(ぼくを、)殺したいんだね。
「アメリア、何してる、開けなさい、」
「カートに何をするつもり、アメリア、開けて、開けてちょうだい!」
 姉さんは俺の腕をすうっと、指先で撫でて、恍惚として、嗚呼白いわね、貴方の肌、白いわ、貴方に印をつけたときも赤が映えて美しかったわ、愛らしい、私のモノ、私の、なんて細い血管、繊細なのね、壊れちゃいそう、大切にするわ、と言った。針が翠で描かれた模様の一筋に入り込む、姉さんの美しい指が、透明に、透明に、殺意を注ぎ込む。透明に。
 針が抜けた瞬間に、ふっと、力が抜けた。そのまま倒れ込む俺を姉さんは抱きとめて、耳元で囁く。苦しくない? カーティス、苦しくないかしら。自分が痙攣してるのが分かった、胸の辺りから、温かくて、生臭いものがこみ上げてきて吐き出すとそれは血で、あ、服が、姉さんの服、戸外から呼ぶ声がする、カーティス、どうしたの返事をして、何があった、カーティス、カーティス、
「パ、パ……ママ、が、よんで、」
「パパと、ママ? いーえ、そんな人いないわ。要らないの。棄てなさい」
 私だけよ。私だけ、貴方に要るのは私だけ。貴方は、私のモノよ。親? 誰のことを言ってるの? 貴方の親は、私でしょう?
 不思議と苦しくはなかった。痛くもない。ただ目の前がかすんでゆくだけ。姉さんの言葉は毒薬と共に俺の体内を巡る、染み込む、俺は、貴女のモノ、貴女の、このまま死んで、どうすればいい? 幽霊にでもなればいい? それとも、
「貴方は、生まれ変わるのよ。私の可愛い“息子”として」
 ねえ、そう、貴方には、言うべきことがあるでしょと、姉さんは俺の背を撫でながらねだった。  俺は右手を、戸の方へ伸ばした、声はぅわんぅわんと響いて機械のうなり声と大差無い、ふと見ると、指先が溶けてた。アイスクリームが融解する様。粘り気のある液体は指先を離れた途端純度を増して雫に変わる。薬物の色をしたブルーになって落ちていく。身体が透けるみたいだった、毒だ、毒薬。姉さんが湖水に溶け込んで俺は毒薬になっていく。吐き出した血の赤いのが、不思議だった。指は溶け、融解は既に手首にまで至る。
 (青。姉さんの青。姉さんの、サファイアの、蝶々の青、ネオンの青、天王星の青、鳥の羽の青、洞窟の青、指先から、滴り落ちる毒薬の青。)
「“I'm yours”」
 そして、何も見えなくなった。


 病床で、お袋が泣きながら語った話によれば、姉は十四歳の夏医者から宣告を受けたそうだ。貴女は子を産めない、と。卵子が死んでしまっていると。幼少期に彼女は一度高熱を出して倒れたのだが、その際の熱が原因だと言われたらしい。つまり彼女は、代理出産も望めないということだった。血の繋がった、赤ん坊は授かれないと。
 普段から将来の夢は、愛し合える人を見つけてその人との間に子を産み、幸せな家庭を築くことだと、言って憚らぬ姉だった。元々あまり精神の安定した人ではなく、情緒の乱れやすい、アンバランスな人だった彼女は、それで一気にバランスを崩しておかしくなってしまったようで、また、不幸なことに歪みは表には出てこなかった。俺の前にしか。
 産まれてくるはずだった無数の我が子を失った姉は、代わりを求めた。身を灼く様に。狂おしいほどに。アーネストでは駄目だった、“あれ”は母が産んだ母の子だと彼女が実感出来ない時分に産まれた子供が俺だったのだ。アーネストが産まれた頃には、姉は子の産まれてくる仕組みやそれが自分の子でないことも、理解してしまっていた、俺じゃなきゃ駄目だったんだ。“代わり”は、__姉さんは最初から自分のモノだと思ってたんだろう。家庭的で、子供が好きだった彼女は6歳年下の弟の面倒をよく見ていた、もしかすると実の母よりずっと。執着してたんだ。初めから。私の弟、私の、かわいい、その想いが、子への焦がれと結び付き異常な変容を遂げた。姉さんは、あの日俺を抱きしめて子守唄を歌っていた、蜂蜜色の印を付けた日だ、子守唄を、愛おしげに、身を灼くような切望とともに。



(眠れ。眠れ。母の腕で。)
私の可愛い子。

2012/08/23:ソヨゴ
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