かわいそうなヤツ。
そう言った虎の表情は、今まで僕が一度も見たことが無いモノだった。 ひどく、醒めていた。
その後虎は、短いため息をついてから、何もなかったかのように席に座って。僕一人だけが戸惑って、その場に立ち尽くしていた。悠が遠慮がちに座りなよ、と声をかけ、それをきっかけにしてようやく僕は席に座ることが出来た。得意なはずの数学は、少しも集中できなかった。

波長の温度

部屋に入り鍵をかける。ベッドの上に身を投げ出す。目を閉じたら眠ってしまうな、とぼんやり思う。
あの時の虎の表情が眼前に浮かんだ。醒めていた。心の底から、憐れんでいた。でもその同情は冷たくて。
恐かった。
ぞっとした。虎のあんな顔見たことなかった。幼なじみで親友で、生まれたときからずっと一緒で。
誰より知ってるつもりだった。誰より知ってるはずだった。それは間違いではないんだろう、僕らは互いに誰よりも、互いのことを知っている。けど____僕は全てを知ってるわけじゃない。
優しいアイツが、あんな冷たい感情を、持つことがあるなんて。アイツはかわいそうだと思ったら、助けようとする人間だ。助けられない人ならば、無意味な同情なんかしない。ああそうか違うぞ、違う、あの時の虎が彼に抱いていた感情は………憐れみだ。
憐れみ? そんなの、アイツが思うようなことじゃないだろ、何で? アイツはそんなヤツじゃないのに___何で。
僕は忘れていたらしい。虎は、隠す人間なのに。
虎が僕に言っていないことは山のようにあるはずで、その中には僕が知りたいことも知るべきこともきっと含まれているのだろう。言って欲しいと思っても、知りたいことは言ってくれない。アイツは嘘吐きなんだから。にしたって、だとしても、今日知ったことが多すぎる。
親友を名乗るのならば、もう少し知っていたって良かったんじゃないの。いつだってそう、結局は僕は虎に助けられてばっかり。戦争のときも、その他もだ。僕が助けられたことは何度もあるのに、僕が虎を助けたことなんて____あるのかな?
うわ、泣きそう。
一人で泣いても仕様がないので、堪える。うっかり千弘に聞かれちゃったらたまんない。姉貴に気付かれんのもごめんだ。これは一人でどうにかしなきゃ。 泣いてどうする?
虎、君はつまりはこれっぽちも、救われてなどいないんだろ?悲しみも恐怖も苦痛も何一つ忘れられないまま、傷口から血を流したまま。それで自分の助け方が分からないからほっといて、周りの人だけ助けてさ、でも君はどうするの?苦しいまんまで生きてくの?そんなの、そんなの嫌だ、僕は………僕はさぁ。
「………ん?」
バイブ音が響いた。携帯の着信だ。起き上がって画面を見る。流れてきた着信元は____あぁ。
「もしもし。」
『よぅ。』
「虎……どうしたの、何か用?」
『いや、用ってワケでもねーんだけど……あのさぁ、』
お前、泣いてんの?
そんな訳、と言いかけて気付く。 頬が濡れていた。
「____泣かないつもりだったのに。」
『何で泣いてんだ? ヤなことでも、あったか?』
「違うよ、」
『違わねぇだろ?お前が泣くなんて滅多にねーじゃん___どうしたんだよ。』
声が温かくて、余計に涙が溢れた。違うんだ、ダメなんだ。
意味ないんだよ、虎。……僕が救われても意味がないんだよ。
「ねぇ虎…………僕、最低だね。」
『は?』
「助けてもらってばっかりで、さぁ。救われてばっかりでさぁ。……僕だってさ、大事なのに、すごく、すっごく、大事、なのにっ……僕だって、僕だって助けたいのに、僕は……何も出来ないしさぁっ………」
泣かれたって困るだろうに。僕が泣いたところで虎は悲しむだけなのに。 分かっていても、涙が止まらなかった。最低だ、本当最ッ低、親友なんでしょ?何で、大事な人一人救えないのか、僕は。
『……助けたいって思う時点でお前は最低なんかじゃねぇよ。それによ、俺は平気だっつったろ。』
ほら。ほら、君は、僕の言わないことまで気付いてくれる。 僕は、君が言えないことに気付けない。
やっぱ最低だ。
『父さんのことも母さんのことも、平気だよ。 特に父さんのことはな、関わらなければいい話だ。あの人はあの人、俺は俺。干渉されなきゃそれでいい。』
「けど、だけどそれでも、親子でしょ? 関わらないわけにはいかないよ、今日だってあの子」
『ああ、あの愚か者か。』
ぞくっ、とする。
「ねぇ虎……あの子のこと嫌い?」
『嫌いとか好きとか判断できるほど、関わってない。』
「けど……だって、かわいそうなヤツ、って。」
『それは、』
ぷつっ。会話が途切れた。 妙な沈黙の後、虎は再び口を開く。
『本当にそれだけの意味だ。』
「何で、そんなこと。」
『アイツは父さんがどういう人間なのか、きっと分かってないんだろうと……思ってな。』
あの人を慕うことの虚しさを、アイツは知らない。
虎は温度のない声でそう言った。僕は電話で良かった、と心底思う。表情を見ていたら、何も言えなくなっていただろう。
「……良かった、嫌いなわけじゃないんだ。」
『好きではねぇけど。』
「それでもいいよ。___それでも、いい。」
僕はね、 言葉を選ぶ。どんな言葉なら、君に届くのだろう。
「僕は、さ、虎のこと、親友だと思ってるんだよ」
『な、何だよいきなり……恥ずかしいっつの。』
「僕にとって虎は、唯一無二の親友なんだ。すごく大事な存在なんだよ、本当に、大事な。そりゃ悠だって大事な友達だよ、だけど、僕にとって、虎は____やっぱりちょっと違うんだよ。」
上手く言葉が出てこない自分に、イラつく。 国語真面目に受けときゃ良かった。
「だから、その、嫌、なんだ。虎がつらいまんまなのは、嫌なんだよ。大事な人だから、苦しんで欲しくなんかない。虎が苦しいのはいや、絶対いや、絶対絶対嫌なんだ、だから、だけど……僕に何が出来るのか、僕には全然、分からなくて。」
何でもいい。ちょっとでもいい。君を楽にしたいんだ。
けど親友のはずなのに___出来ることが見当たらない。
「そもそも君の場合はさ、僕が大事に思ってるってことそれ自体、信じてないような気がするよ。何を言えば信じてくれんの?僕頭悪いから分かんないよ、どんな言葉なら届くんだよ、好きって、好きだって言ってるのに、親友だって思ってるのに、少しも伝わってないんだろ?信じてよ、言ってよ、じゃなきゃ僕分かんないよ、どうすればいいかわかんないよっ……」
責めたいわけじゃないのに。何で自分のことばっかり、虎に求めてばっかり、自分が苦しいから、見ていたくないから、君に苦しんで欲しくない、だなんて。こんなんだから僕は、僕は、
『分かったって____泣くなよ。』
しゃくり上げる声が止まらない。泣き方だってそう、虎が泣くときはいつも声を出さない。すぐそばに居ても気付けないほど静かに泣く。気付かれないように。それで誰かが心を痛めたら、嫌だから。 それに引き換え僕は何? 泣き声を堪えることすら出来ないんじゃないか。
そうやって君に心配させて、君に負担ばかりかけて、助けてもらって。親友って貸し借りじゃない、それは分かってるけど、でもあまりにも貰いすぎだよ。
「何でっ…僕だって、なのに、何も、」
『落ち着け、な? 泣くな、泣かなくていいから。』
「もらってばっか、僕ばっかり、虎の、虎の方が、だって、ずっと、苦しい、のに、虎の方が優しいのに、虎は悪いことなんか、してっ、ないのにっ、何で、ごめんなさい、何も出来ない、親友なのに、ごめん、ごめん____」
謝るな。 と、虎は言った。
『いいんだよ、なんでお前が泣くんだよ。 俺は結構救われてるぜ、お前がいてくれてよかったよ。俺が苦しんでんのは嫌だって、そんなこと言ってくれるヤツ、他にいねぇよ。』
「でも、僕、僕は、なにも、」
『思ってくれてるだけでも嬉しいんだぜ。 ありがとな、だから泣くなよ、つらくなるから。 俺だって泣いて欲しくねえんだ、お前には。』
僕が泣けば君はつらい。それくらい分かってるよ。でも止まんないんだもん、苦しいんだもん、どうしようもないくらい。僕はどうすればいいの、どうしたら君を救えるの、大好きな君が苦しまないようにするには僕は何をすればいいの。誰より大事な友達なのに、なんで何も出来ないの。
「っ、何で、うぁっ、ふっ、虎ぁ、ぁぁ、ごめん、」
『___ごめんな。ごめん、和弘。』
虎、謝らないで。何で君が謝るの。君は何もしてないでしょう?
助けたいだけなのに。思えば思うほど、僕は君を追いつめてしまう。
「____ごめん、もう、切るよ。もう切る。」
『っ、和弘、』
「ごめんね、虎。」
虎が何か言い返す前に電話を切った。コツ、と、膝に頭を当てる。僕が泣いてどうするんだろう。苦しいのは僕じゃないのに。馬鹿。
階下でチャイムが響いた。出て行く気力はない。きっと姉貴が、出てくれてるだろう。
「和弘ーっ、和弘、お客さん!」
姉貴が僕に呼びかけている。僕は黙りこんだ。ごめんなさい、誰にも会いたくない。
階段を上る音が聞こえる。なんて言い訳しよう。
こんこん。ノックの音。 僕はごめんなさい、と部屋の中から声をかけた。ごめんなさい、今は誰にも会いたくないんです。
「___知ってるよ。」
「え?」
その澄んだ声、冷えた湖のような声。よく知っていた。でもなんで、どうしてあなたが?
急いで立ち上がり、鍵を開ける。彼は僕を確認すると、やぁ、と片手を上げた。
「いきなりごめんな、和弘君。」
「…………柳さん。」
上がらせてもらうよ。
柳さんはそう言って、戸惑う僕に微笑みかけた。

ちょっと続きます。

2010/12/05:ソヨゴ
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