Like a breathing


 トーン   トーン
    トーン       トーン

 ほら、また、足音。広がって、響く。凪いで、凪いで、静まる前に、また、響く。トーン。トーン。
 ここは湖だ。僕は畔にいる。畔に置かれたイスに座っている。木の葉のざわめく音に紛れて、ほらまた、足音。あの子の音楽。
「今日は、ヴァイオリン?」
 僕は問う。瞼を閉じて。彼女の答えは言葉じゃなかった。タン、タタン。__はい、そうです。__僕は、暗号を読みとって、笑う。そう、今日はヴァイオリン。昨日はオルガン。この前はハープ。きっと明日は、クラリネットだ。
「綺麗だね」
「当たり前」
 おや、今度は言葉が降った。僕がゆっくりと目を開けてみれば、そこにあるのは澄まし顔。彼女はタタンとステップを踏んだ。波紋のように広がる音が、僕の鼓膜を優しく叩く。彼女の音色。彼女の呼吸。彼女の音楽はいつも尊い。
「踊ってみせて」
「対価はなぁに?」
「何が欲しい?」
「なんだっていいよ」
 今日の彼女はトゥーシューズを履いてる。最初から踊るつもりの癖して、どうしてそんな意地悪を言うの?
「私の音楽、私の哲学、アイデンティティ、レゾンデートル、それに見合う対価を、頂戴」
「僕そんなもの持っていないよ」
「よく言うわ。すぐ近くにあるのに」
 彼女は僕の鼻を指でつつく。僕が顔をしかめて仰け反ると、彼女はくるりとターンして一歩、僕の元から離れた。タン、タン、タン、四分音符のリズムで、彼女はトゥーシューズを打ち鳴らす。指先はヴァイオリンになり、湖の水面(みなも)を揺らした。彼女の足音は音楽になる。毎日、違う音色を奏でて。彼女の白い足、万能の楽器、彼女が道路を踏みしめるだけで世界はコンサートホールに変わる。僕は観客で、彼女は指揮者。僕は座椅子で、君は演奏者。
 湖の畔で彼女は舞った。木の葉をバックダンサーにして、色づいた樹々を舞台に見立て、サテンのリボンが儚げに揺れる、彼女の四肢がなめらかに、落ちる、水中にビー玉が沈みゆくようなスピード。薄桃色のトゥーシューズは、兎みたい。軽やかに跳ねる。僕は僕という存在から離れそれこそホールの一部になって彼女の音楽に酔いしれて彼女は僕を忘れてるそれがたまらなく、たまらなく、
「ねぇ、」僕は口を開いた。「愛してる」
「愛してる?」
 彼女は踊り子の真似事をやめた。トン、トン、トン、僕に近付いて。僕の頬に手をおいて、
「私の音楽を?」
「君の音楽を」
「私を?」
「君を」
「本当?」
「本当」
 彼女は僕の唇に触れる。自らのそれで柔らかく、触れる。
「もう一度言って」
「どうして?」
「私、私をあげたのよ」
 反芻されたのは彼女の台詞。対価を頂戴、それに見合う対価を。君の音楽、君、その代償。
「……君が、君を奏でる限り」



 僕は、永遠に君の観客(モノ)。

会誌に出したもの。一発書きだけど割と気に入ってます。

2012/01/27:ソヨゴ
inserted by FC2 system