エンゼルフィッシュのいる天井



 久々に彼女の家を訪ねた。
「やぁ、久しぶり」
「早く上がれよ」
 八年ぶりの旧友にいきなりの命令である。僕はため息を飲み込んで、古民家に足を踏み入れた。先程彼女と形容ししかし実は彼でありけれども僕は彼女と呼ばざるを得ない我が旧友は、僕が靴を脱ぐのも待たずにさっさと奥へ引っ込んでしまう。 程なく、僕も後を追った。
 部屋は全て一繋がりになっていた。間仕切る襖は全て開けられ、何もかも、開いている。縁側からは紫陽花が見えた。雨粒をぽつぽつ鳴らして、瑞々しい肌を誇るかのように。随分、上機嫌のようだ。
 家の中は薄暗かった。灯りも何もついていない。
「日も暮れたぜ。灯りの一つも付けたらどうだい」
「世は節電節電と騒いでるだろう」
「核拡散防止条約の反対署名をした男が何を」
「こら、男扱いするな」
 おっと、口が滑ってしまった。いつだったか、「女の方が色々と得だ」などと彼、__彼女は言いだして、彼を女扱いすることを僕に強制しだしたのである。だもんで僕は彼のことを彼女と呼ばざるを得ない訳だが、不可思議なのは彼の態度だ。僕が『女扱い』をしようと、荷物を持とうかと尋ねてみたりドアを開けたり椅子を引いたり、レディーファーストを心がけるたび、彼は激しく憤る。俺は男だ、馬鹿にしてるのか。 僕の旧友はよく分からない。
「あぁ、失敬失敬。ところで君、今日は一体何の用だい」
「ん、危うく忘れるところだった。ちょいと修理を頼みたくてね」
「修理?」
 降ってくんのさ。
 そう言って彼女は天井を指差す。と同時に、僕の目の前に、小指ほどの大きさの何かが真っ逆さまに落ちてきた。
 それは小指だった。
「ひいっ」
「おや、こいつぁ稀だぜ。滅多に降ってこねぇんだ」
 彼女はなんでもないように言ってひょいと小指を拾い上げる。ほら、見てみろよ。なんて笑って、そのまま僕に投げ渡してきた。 たまったもんじゃない。
「ひいいっ、やめろよ」
「こら落とすなよ。せっかく落ちてきたってのにまた落とされちゃうんざりするだろ」
「小指さんも?」
「小指さんも」
 彼女は小指を再び拾い上げ、ころころ手の平で転がした。彼女の真白い手の平の上で少し茶色いそれは目立って、何だか慣れないステージの上で浮き足立っているように思える。彼女の肌は(男ではあるが)絹のように可憐であって、無骨で汗臭いその指は、何だか照れているようだ。やがて少々飽きっぽい彼女はやっぱり小指にも飽きちゃったようで、まだ照れくさそうにしているそれを、振りかぶり、畳に投げつけた。
「いつもは魚が降ってくんのさ」
「魚? なんだ、いいじゃないか」
「よかねぇよ小魚だぜ。食い物になんてなりゃあしない」
 ほら。 彼女が斜め右を指差すので僕の眼球も従った。するとまた間抜けな速度で手の平サイズの何かが落ちる。見下ろすと、それはエンゼルフィッシュ。
「あれ、小魚じゃないじゃないか」
「でも食えねぇだろ」
「食えないねぇ」
 小魚も落ちてるよ。 あちこち指差す彼女の指に追いつくように視線を移す。なるほど畳の上では、まだ息のある小魚が、ダシにされるのはごめんとばかりに喘ぎ喘ぎ悶えている。
「生臭くってしょうがねぇんだ。修理してくれるかい?」
「うん、でも時間は頂くよ。これは骨が折れそうだ」
「時間ならたっぷり持ってけ、最近手持ちが増えたんだ」
 若いの騙してふんだくったから。彼女は快活に笑う。
「そりゃ豪勢なこった。君、いくつまで生きるつもりだい」 
「このまま行くと千と四つだな。だからさお前、五百歳ぐらいになるように、持っていってくんないか」
「助かるよ。今のままだと、後二日で寿命来ちまうんだ」
 さてさて寿命は保証された。これで存分に仕事が出来る……の、だが。
「おい君、腹が減らないか」
「ん、それもそうだ。もう78時だものな」
「夕飯の支度をしよう」
 買い出しにでも行ってくるよと玄関に向かった僕を、何故だか彼女も追ってきた。僕は振り返って問いただす。
「なんだい? 着いてこなくてもいいよ」
「なぁに言ってんだ、女に荷物は持たせられねぇ」
「こら、女扱いするな」
 僕は激しく憤る。 失敬失敬、と彼は笑った。
文芸の会誌に出した(出す)もの。不思議な世界が書きたくなって。

2011/07/21:ソヨゴ
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