殺虫鬼



 彼女は虫が嫌いであった。
 猛烈に、どうしようもなく、彼女は虫が嫌いであった。普段はひどく大人しい子で、それこそ「虫も殺さぬような」いたいけな少女であったのに、彼女は虫に対してだけはいくらでも凶暴になれた。叩く、すり潰す、脚をもぐ。彼女は虫の前でだけ恐ろしい殺人鬼となった。 いや、殺虫鬼だろうか。
 彼女には人の好き嫌いがなかった。しかしどうしても虫に似た人を受け入れることができなかった。性格でも、外見でも、虫を連想させる者がどうやっても好きになれない。それでも学生の時分はまだ避けていれば良い話であった。それが社会人ともなると、そう甘ったれてはいられない。たとえ彼女が病的なまでに虫を嫌っていたとしても、会社にとってはそんなこと話のタネにもならないのである。虫のような同僚、虫のような上司。それらから逃げられなくなり、彼女はついに、おかしくなった。
 彼女は『虫』を排除し始めた。
 見境は、なくなった。彼女が虫と断定すればそれはもう虫でしかないのだ。虫でしかないなら、潰しても善い。刻んでも善い。刺しても善い。締めても善い。水に沈めても善い。屋上から突き落としても善い。頭を金槌でかち割っても善い。首をはねとばしたって構わない。善い。善い。善い。 殺したって、善い。
 程なく、彼女は死刑となった。

 さて、えんま様の御前に連れられて、彼女は死後の審判を待った。彼女が生前犯した罪はあまりに重いものであったが、しかし彼女には自信があった。地獄送りにはならぬという自信だ。彼女は確かに正真正銘の殺人鬼となってしまったが、それを補ってあまりあるほどには、彼女は善行を重ねていた。 少なくとも、彼女自身はそう思っていたのである。
 もちろん彼女の善行はさほど価値あるものでもなかったが、その善行ゆえ、えんま様は大いに悩まれた。普通だったら、このまま地獄送りであろう。けれど彼女は他の部分では真に善良な人間であった。 さて、どうしたものか。
 悩んで悩んで悩みに悩んで、えんま様は結論を出した。傲慢な彼女に相応しい、有り難い刑罰を。
「輪廻を、巡って参りなさい。そして貴女が犯した罪を、貴女自身で、浄化なさい」
 彼女にはまだ、その言葉の意味が分からなかった。

 気付けば彼女は草むらにいた。生前見慣れた雑草はビルほどの高さでそびえている。 どうやら、彼女は虫になったようだ。
 えんま様、なんて残酷な!
 あれほど忌み嫌っていた存在。今や、自分がそれなのだ。その時の彼女の絶望と言ったら! だがしかしえんま様の罰は、この程度では済まなかったのである。
 彼女が草むらを這って出ると、彼女の視界の真ん中には大きな日本家屋が映った。何やら懐かしいと思ったら、おや、彼女の生家ではないか。そうだ、ほら、ばばちゃまがいる。母様も、父様も、兄様姉様妹も、__
「きゃああ!」
 と、唐突に。 頭上で小さな悲鳴が響いた。
「虫がいる!」  忌み嫌われるモノとなった彼女は首を反らして天を仰いだ。青空を遮っているのは、幼き日の“彼女自身”。“彼女”は嫌悪を露にして小さな右足を振り上げる。 その時、やっと彼女は気付いた。 あぁ、もしかして、私は。
 私はこれから、輪廻を巡って、__私に殺され続けるのだろうか。
「死んじゃえ!」


 足が、容赦なく彼女を潰した。
文芸の課題で書いたもの。B5一枚に収まるように、という縛りが案外きつかったですが、楽しく書けました。

2011/06/22:ソヨゴ
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