ジュエリー・ブルーに溶け混ざる血液



 海の呼吸が聞こえる。
「青いね、広海」
 神崎は波を眺めて、言う。俺の名と同じ広い海は彼の言葉をかき消すように、大きく大きく、呼吸する。俺は彼に肯定を返す。
「うん。青いよ、海は」
 冬の日差しは低い。低いがやはり温かい。太陽に限って言えば、夏よりも冬の方が優しかろう。昼だというのに太陽光は既に夕暮れの気配を見せる。そのどこか淡い、黄ばんだ光を、俺は目を細めつつ見つめた。ざざあ、ざざ。呼吸は止まない。潮の香りは、少し生臭い。
「暖かいね、広海」
「うん。だがもうじき冷えるだろうよ」
「でもまだここにいたいな、僕」
「俺も。だから、日が沈むまで」
 俺は太陽から目を逸らし、代わりに神崎の横顔を捉えた。神崎はそっと目蓋を下ろす。砂浜と、大海原と、淡い空色に縁取られた顔立ち。何だかいつもより儚げに見えて、俺はそこから死を読みとる。見えないけれどここに在るもの。そう、遠くはない未来。
 神崎の身体が結晶化するまで大した時間は残っていない。既に片方の腎臓は、アメジストに変わってしまった。他の臓器だってそうだ。最近、神崎の肺は段々とコハクに変わってきているらしい。それゆえ彼は時々咳き込む、結核のような息をする、苦しそうにうずくまる彼の背をさすってやること以外に俺にできることなどない。傍らに居る少年は、もうじき死んでしまうのだと、俺は知っていて、そして知らない。本当に知る時が来るのは彼が息をやめてしまったあと。
 こうしてる今も彼の血液は徐々に結晶化しているんだろう。そうやって最期には、きらきらとした、綺麗な石になる。宝石になってしまった彼は美しいだろう、と想う。今よりずっと美しい彼は今よりずっと冷たくなって、俺の目の前に横たわる。その時は必ずくる。ただ、今でないだけで。
「永遠、ってどう思う? 広海」
「永遠?」
 彼は俯いて目を開く。男の子にしては長い睫毛が彼の瞳に細く影を落とす。__僕の身体は朽ちないんでしょ。灰にもならない。腐らない。土に還れない僕の死体はいつまでも鉱石のまま、__それって、と彼は呟く。 永遠じゃないかなぁ。
「神崎は、どう思うの」
「僕は、……怖いな。“終わらない”んだもの。ねぇ広海、永遠は、いつまでも理解できないことだよ」
 そうだね、と俺は返した。俺達はまだ“終わり”を知らない。けれどいずれは知ることになる。でも、“終わらない”ってことを、俺達が理解する時は永遠に来ないんだ。一万年生きても、一億年生きても、それは永遠に比べればどうしようもなく短い時間で、永遠は、永遠に、遥か彼方にあるものだ。水平線と同じこと。
 それは多分、すごく寂しいことで。
「僕の血も、温かければよかった」
「そしたら俺と同じだったね」
「そう。広海とおんなじで、さらさら流れる赤い血がよかった」
 僕の血は、冷たいし、硬い。 そういって神崎は、足下のガラスを拾い上げる。見知らぬ誰かが捨て置いた破片で神崎は指先を切った。小さな傷から溢れ出した血は、ダイヤモンドになって零れる。ころころ、ころころ、雫になるたび、血液は色と形を変えた。サファイア、エメラルド、スピネル、オパール、……体育座りの俺達の周りを宝石が飾り立てていく。俺はルビーを手に取って、そこから海を覗き込む。
 真紅の中で海原は濁った血のように映った。
「広海の血は、綺麗で、いいね」
 神崎は迷子の目をしている。独りぼっちで取り残されて、誰も迎えに来てはくれないと知ってしまった目をしてる。宝石はころころ、尽きず、日の光を受けきらめいて、時々俺の眼球を刺した。 「神崎の血も綺麗だよ」 「こんなもの。生きてない」  神崎の血がようやく、止まった。俺は、俺の身体が、憎くて、__宝石でなくたっていい、たとえば神崎の指先を切ったこのガラスの破片だっていい、土に還らず、彼の傍に。しかし俺の身体は生きている。タンパク質で構成されている。俺の身体は腐ることができだから彼とは一緒に居れない。独りぼっちの迷子は、きっと、__俺はガラスの破片を拾って。
 左手首を、薄く切り裂いた。
「広海、」
 神崎は目を丸くしている。俺は表情を変えないままだ。俺達が無言でいるうちに、裂け目から血が滲みだし、俺の、赤い、生臭い血は、ぽたぽたと砂浜を染める。
「神崎」
「なに、」
「俺の血をあげる」
 俺は手首を神崎にかざした。神崎はいきなりのことに、戸惑いと、わずか怯えを見せて、けれどやがては小さく頷く。彼の唇が恐る恐る、俺の傷口に口付けた。彼は冷たい宝石で、だけど唇は温かい。彼は俺の赤色を飲む。甘えるように何度もキスをする。舌が俺の傷口に触れてそれは痛くて生温くて、どんな行為よりきもちよかった。柔らかな唇。彼の息遣い。湿った、ほのかな、温かな、優しい、__彼の頬は上気していてその肌の下はローズクォーツ。 交わうよりも、深く。混ざる。
「神崎、」俺は語りかけた。「君が死んだら、俺も死んであげる」
「僕、」彼は俺に答える。「広海となら、怖くない」
 神崎は唇を離して、右手で俺と手を繋いだ。絡み合う指を見ながら俺は、__彼が飲み込んだ俺の血は彼の中で結晶化する。俺の血は何になるだろう、トパーズ、ジルコン、……なんだっていい。俺は美しい宝石になって彼の体内で永遠に輝く。俺の一部は彼の中にいて彼のいずれかの臓器を飾る。迎えにはいかないさ、ただずっと、傍にいる。
「そろそろ行こうか」
 俺の問いかけに彼は微笑んだ。いまだ塞がらぬ傷口から、俺の血液がつうと伝って、それは、肘先から自由になる。真紅の雫はゆっくりと落下し、

 そうして、ぽたり。サファイアに落ちた。
また書きたい二人。

2012/01/08:ソヨゴ
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