過去話です。
 軽薄な人は嫌いだ。
 軽い人は嫌いだ。薄い人は嫌いだ。へらへらと無責任で、調子のいいことばかり言ってて、そういう人は嫌いだった。だから出会ったばかりの頃は彼のことも好きではなくて(もっとも彼は私に対してとても優しかったから、嫌うことは出来なかったけれど)、それが段々変わってきたのはあることに気付いてからだった。時折、彼が見せる“摩れた目”。この世の全てが馬鹿馬鹿しいと見下すような、そういう瞳。ふとした拍子に振り返ると彼はよくそんな目をしていて、だけど私の視線に気付けばすぐに彼は隠してしまった。その、深い森の中に。モスグリーンの瞳の奥に。人当たりの良い笑顔に戻った彼からは何も読みとれなくて、私はもどかしい思いに駆られて。好きでも何でもなかった彼が途端に気になり出したのは、あの目があまりにも、寂しい色をしてたからだろうか。いつでも輪の中心にいる彼がどうして寂しさなど抱くのか。分からなくって、知りたくなって、そのうち、__埋めてあげたくなった。
 けれど。
 たった今、隣にいる彼はあの目と同じ瞳をしている。摩れた瞳は虚空を見ていて、私がすぐ傍にいることも忘れてしまっているようで、何だか、ひどく悲しくなった。私は恐る恐る、その指に自分のそれを絡める。彼は穏やかにはっとして、私を優しく見下ろした。
「どうした?」
「あの目をしてました」
「……そっか」
 ごめん。彼の返事に首を振る。謝ってほしいわけでもないし責めるつもりも毛頭なくて、ただ、私は隣にいると、伝えたかっただけなのだ。彼は手の平をくるりと返して私の指を捕まえる。私よりいくらか太いその指は男の人のものだった。無骨さに、私は安堵する。
「章吾」
「なぁに」
「世界が、嫌いですか」
 私より少し体温の低い彼の肌を感じながら、目を合わさずに私は聞いた。どんな答えが返ってきても悲しくなると、そう思いながら。好きだよと返ってきても私は信じられないし、かといって、肯定されても、__貴方が辛いのだということを、確認するのは、辛いこと。
「……好きではない、な」
 握って、離して。握って、放して。彼は私の指で遊びつつ中間地点の答えを返す。握って、放して。握って、放して。私も彼も繋ぎ目を見ている。繋いだ手を。傍にいる、証を。
 彼がこの世を好きになれないのは、この世が不条理だからだろうか。
「なんにも悪くない人が、死んでいくのを見るのはさ」
 抹茶の瞳が翳るのが、見なくったって私には分かった。彼は指で遊ぶのをやめて私の手を握りしめる。その手が、どこか縋ってくるようで、私は年上の彼の弱さをどうしようもなく『かなしい』と思った。そして同時に、『いとしい』と。
「忌わしいよ」
 彼の両親は既に亡い。彼を残して逝ってしまった。15の、クリスマスだったそうだ。彼がちょうど宿の寄宿舎から恋しい我が家へ帰っていく日。久々に会う家族の姿を思い浮かべていた彼は、乗るべき列車がホームを出るのに気付かずに、コーヒーを飲んでいた。予定の列車を逃した彼は慌てて家族に連絡したが、受け取る者が居なかったという不自然さには、気付かなかったらしい。一本あとの電車を駆け下り慣れ親しんだバスに乗り、喜び勇んで家族の元へ帰ってきた彼を待っていたのは、__瓦礫の山と化した実家と、焼け焦げた、両親だった。
 一瞬(と彼は形容したが、本当はきっと、もっと永い間)思考が止まってしまったと、彼は冗談を言うときと同じ調子で私に伝えた。現実味がなかったよ、俺の家だけ崩れてたからさ。友達ん家も隣の酒屋も平穏無事なままだったからさ。曇りがちな日だった。日の光が薄くて、灰色と水色のフィルター越しに見てるようだった。それでも、炎ってのは赤いな。赤くて黄色くて強い光だ。地面の方に目をやると人型をした炎があって、あぁ、あの真っ黒なのが親父とお袋かなってさ、どっちがどっちかは分かんなかったよ、二人とも同じくらいの背格好だったから。そういえば、脂肪って油なんだよなぁ。よく燃えるんだよ、人の身体って。
 その後どうしたの、と聞いたら、寮に帰って寝た、と言われた。15の彼が寮に帰ってまず始めにしたことは、両親に見せる予定だったテストの結果や貰った賞状をシュレッダーにかけることだった。父親母親それぞれのために買ったプレゼントは土に埋め、寮を出る前の晩に、気恥ずかしいと思いつつ書いた両親宛の手紙だけはライターで燃やしたらしい。煙になったら、と彼は言った。煙になったら読めるかと思って。 しかしその後しばらくは、火を見ることが出来なかったそうだ。
 彼は彼自身の不幸をあまり語ろうとはしない。彼の不幸は確かに不幸だがこの世の中ではありふれている。だけど、と私は思う。ありふれているとしたって不幸は紛れもなく不幸だろう。不幸に慣れてしまうことこそが一番の不幸だ、とは、__誰の言葉だったっけ。
 15。今の私と同じ。死を受け止めるにはまだ若すぎる。実際に彼は未だに、家族の死を悲しめないと言う。「唐突すぎたんだ、きっと。だから未だに飲み込めないんだ」。今、私が同じ目に遭ったら、その現実を飲み込めるだろうか。私と同い年の彼は、大好きな人の理不尽な死をただ黙って受け止める他なく、だけれどそれを受け入れることは、彼にはできなくて、多分私にも出来ない。
 忌わしい、と彼は言う。 この世は、とても忌わしい。
「でも、まぁ、最近は、この世もそんなに嫌いじゃねぇよ」
 章吾は私を慰めるように私の方を抱き寄せる。悲しいのは、辛いのは、苦しいのは章吾の方なのに、章吾は私を、温めようとする。
「厭な世界だと思うよ、今でも。だけどさ、なんか許せる気がして」
「どういう風の吹き回し、ですか」
「簡単なことだって。お前がいるからだ、李伶」
 彼の大きな手の平が私の右肩を包み込んでいる。彼は私を見ようとはしない、そのかわり、私がここにいることを確かめるみたく引き寄せる。私は、彼に頭を預けた。
「散々な目に遭わされたけど、憎いけど、だけどもういいよ。お前に会わせてくれたからいいよ。チャラにしてやるよ。忘れてやるよ。お前が生まれてきてくれて出会ってくれたからもういいんだ。許してやろうかなって、思うんだ。この世を、__愛してやろうかな、って」
 お前がいるのは“この世界”だから。
「……私のせいですか」
「おかげ、って言うべきじゃねぇの?」
 彼はいつものようにおどけて私のことを抱きしめる。愛してんぜ李伶、なんて。誠実なくせにジョークのように。全く「真面目」が続かない人だ。その広い胸板に自らの顔を押し付けながら、私はそっと、瞼を閉じる。__貰ってばかりのような気がしてる。今も、昔も。出会ったときから。でももしそれが、錯覚であるなら。
 李伶、と彼は呼ぶ。 李伶、俺の世界は変わったよ。
「お前のおかげで」
 彼は私の欲しい言葉を見透かしたように、囁きかける。……それでも、私は彼を信じた。

 私に出会ったその瞬間から、世界はまるで、違って見えたと。

アナザーワールド


「だからいつまでも、傍にいてくれ」
その願いは、果たされなかったわけですが。

2011/11/16:ソヨゴ
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