とある風呂上がりの話


 何か勉学で分からないことがあったら兄さんに聞くのが一番早い。先生に聞くよりもずっと分かりやすいんだもん。兄さんは、“天才”と呼ばれている人だ。天は二物を与えずなんてとんだ嘘っぱち、兄さんはいくらでも持ってる。でもその代わりに兄さんが、俺らに触れられないと言うなら、不細工で頭悪くってってその方が良かった気がする。独りぼっちは、辛いと思う。生まれた時からずっとそうなんてきっとすごく苦しかったはずだ。すぐ傍にいるのにな。いつでもガラス越し、何故か触れられない。触れているのに隔たって、近くにいるのに遠いんだ。寄り添っていたいのに。 
「あ、兄さん!」
 そんなことを考えながらノートを抱えて逡巡してると、風呂の戸が開く音がした。俺は洗面所の外から声をかける。 どうした?鈴の音のような。
「え、えと、あの、その、」
「少し落ち着け、慌てるな。どうした?何かあったのか?」
「う、ううん、あの、別に大したことじゃないんだ。」
 数学で、その、よく分かんないところがあって。 どぎまぎしつつ続ければそんなことかと笑い声。今行くから少し待ってろ。 その言葉の一寸後に、兄さんは引き戸を開けた。
「おまたせ。どこが分からないんだ?」
 部屋着姿の兄さんはそう言って小首を傾げた。髪の先からは水滴が垂れていて、兄さんは真っ白なタオルで軽く頭を拭いている。グレーの無地のトレーナーは、細身の兄さんにはちょっと大きい。 鎖骨の辺りまで襟ぐりが及んでる。__美澤さんからもらったもの、だっけ。確かそう言っていたような。
「おい悠、何をぼんやりしている。」
「あ、……ごっごめん、あの、ここなんだけど、何かよく分かんなくって。」
 気を抜いていたせいかほんの少し見蕩れてしまった。俺は気を取り直して付箋を頼りにノートを開く。P(x)が云々かんぬん。色々解いていくうちに何だかごっちゃになってしまって、全然分からなくなってしまった。兄さんにこんなこと聞くの、もったいないとは、思ったんだけど。……最近話せてなかったし。
「あぁここか。確かに少し複雑だよな。 色々解いていくうちに分かんなくなっちゃったんだろ?」
「えぁ、うん……実はそう。何かぐるぐるしてきちゃって。」
 やっぱり、お見通しかぁ。 習った時は分かってたのにとぼそり一言呟くと、兄さんはふわりと笑う。そこで差が出るんだよ。数学に限った話じゃないが、“分かる”と“解ける”は大きく違うぞ。
「この問題に関してはあまり難しく考えない方がいい。剰余の定理を使うといいよ。それから、こっちは解き方は合ってる。けれどよぅく見てみろ、ほら。平方完成で間違えているよ。」
 兄さんはノートを覗き込みながらするする間違いを正していく。一人で悶々としていると気付けないミス、分かりづらい理由。全て一瞬で片付けてくれる。時々こっそり耳打ちのように、裏技じみた別解を俺に教えてくれたりもして。何をどうすればこんな解き方、__やっぱ、天才なんだなぁ。
 ……だけど。
「それからな、ここは、__悠。聞いてるか?」
「ふぇ? う、うん!聞いてるよ!」
 段々と兄さんの話に集中できなくなってきた。理由は単純。 どきどきするんだ。
 俯きがちの横顔とか、濡れそぼった睫毛とか、滑らかに動く唇とか。やはり見蕩れてしまう。兄だとか家族だとかそんなことは関係ない、兄さんは特例だ、こんなに美しすぎる人では。数式だの解き方だの集中できる訳がない。いつの間にやら言葉より声そのものに意識が向いて、その涼風のような響きの声に今何を言われているのか、俺は把握できてなかった。ほのかに湯気の立つ身体。見上げるような翡翠の瞳は透明なほどに透き通ってて、いつまでだって見てられた。とっくに訝しまれているというのに性懲りもなく俺は見蕩れる。 悠、悠。呼ばれている気がしたが、ろくに返事を返すこともできない。 吸い込まれる。
 目の前の兄さんが、呆れるようにため息をついた。白い絹のような手が俺の頬に伸びてきて、ゆっくりと、添えられる。俺がそのことを認識した瞬間、__だった。
 ふに。
 唇に柔らかい感触。湿ってて温い、濡れたような。潤った弾力、吐息の焦れったさ。遠くへ行ってしまった意識が微かに舞い戻ってくる。数秒経って、俺は気付いた。 キスされた。
「っ!?」
 気付いた途端に動転する俺のことなど放ったらかし。兄さんは俺の唇を、その赤い舌でぺろりと舐めた。そのまま静かに唇を離すと、俺に向かって微笑する。俺はまた縫い付けられる。
「戻っておいで、悠。どこへ行く?__俺は、ここにいるよ。」
 頬の手が後頭部へ。兄さんは姿勢を正し、俺は自然と上を向く。再び兄さんが身を屈めその唇が近付くと同時に、俺は、柔く瞼を閉じて。
 もう一度赤と赤が重なる。 いつの間にやら、ノートは床に落ちていた。

久方ぶりに柳悠でっす。

2011/04/22:ソヨゴ
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