「お前、化粧しないのか?」
 沢霧はベッドの上から李伶を見下ろし、尋ねた。

瞼に咲く、

 李伶は軍服を脱ごうとしていたところだったが、彼の問いかけに手を止める。5、6個外れたボタンからは下着越しでない肌が覗いた。李伶は少し首をひねって、それから、いつもの調子で答える。
「しなーい。したことない」
「へぇ」
 自分から訊いておきながら沢霧は興味無さげだ。膝の上に頬杖をつき、ただ気怠げに李伶を見ている。その視線は冷淡なままゆっくりと降りて胸元で止まる。杏仁豆腐のような肌だ、と沢霧はぼんやり思った。 俺の、嫌いな甘さ。
「じゃあ、してやろうか李伶」
「へ、何を?」
「化粧だよ」
 彼の答えを聞いた瞬間、李伶の顔に花が咲く。してほしい、してほしい、ほしいほしい欲しいほしい。頭が幸せで飽和する。李伶は沢霧にいつも何かを“される”ばかりで、してもらったことなどなかった。殴られる、蹴られる、犯される、それらは確かに彼女にとって一つの幸せの形ではあったが、しかし彼女が心から望む幸せとは、少し違っていた。彼女の心はとっくに狂ってもう戻らなくなっていたが、それでも彼女が欲しがる物は、昔も今も変わらない。
 愛し合うこと。
「化粧? お化粧してくれるの? 嬉しい嬉しい嬉しい嬉しい、嬉しい、好き、沢霧好き」
「黙れよ」
 忌々しげに顔をしかめて沢霧は切り捨てる。彼がベッドから立ち上がると、バネが小さくギッと呻いた。彼は戸棚まで歩いていって二番目の引き出しを開ける。中を探る沢霧に、李伶は問いかけを投げた。
「沢霧、お化粧持ってるの?」
「持ってるよ、買ったモンじゃねぇけど」
 引き出しの中身は全て女性モノの小道具だった。これらは彼の昔の女が、__もしくは、そうと勘違いした者が__彼の部屋に置いていった物だ。櫛やヘアピン、ピアス、ネックレス。それから雑多なメイク道具。ブルーのシャドウやしつこいルージュが視界に入るたびに彼は、朧げに思い出す。持ち主の顔とセックスを。
「……煩わしい」
 零れ出た呟きは紛れもなく彼の本心だった。彼はしつこい女が嫌いだ。彼は愛情に対して淡白である。女は狙いを定めると、自らの痕跡を相手の巣に残していく。何でもいい、何か目につくもの。髪の毛でもアクセサリーでも、何か自分を思い出させるもの。その女の習性を沢霧は忌み嫌っていた。あぁ、煩わしい煩わしい。ただの遊び相手だというのに。
 メイク道具をいくつか拾うと沢霧は引き出しを閉じた。裸足でカーペットを踏みしめて、音もなく、歩み寄る。両膝を曲げて座り込む彼女に、あぐらをかいて目を合わせる。彼が化粧をしてやろうと思い立ったのは彼女の肌ゆえのことだった。混血の彼女の肌は実に、魅力的である。白人の白さもさることながら、東洋人の血が齎した絹のようななめらかさ。色を、付けてみたくなった。柔らかな筆で肌をなぞる時、どれほどの愉悦が伴うのだろうか。そう考えると、止められなかった。
「目、閉じろ」
 囁き声で命令する。李伶は、素直に瞼を閉じる。その瞼は繊細だった。どこかレース細工にも似ていた。優雅な模様が目に浮かぶようで沢霧は小さく息をつく。瞼の奥の黒は見えない。しかし、血管は透けるようだった。彼は透明なケースを回して、パステルブルーのシャドウを指に取る。
「動くなよ」
 両手で包み込むようにして彼女の顔を押さえると、彼は親指にのせたシャドウを、丁寧に右の瞼に延ばした。薄い、破れそうな瞼が、ほんのりとブルーに色づく。思った通りだ、と彼は考える。 思った通りだ、美しい。
 左の瞼もまた同様に、左の親指で彩っていく。薄青の流砂が瞼に広がる。彼の指は鮮やかに、上品な曲線を描いた。李伶は息を閉じ込めている。時折、吐息が隙間を伝う。肌と肌が密やかに触れる。鼓動すら耳障りな、静寂。
 指先で整えてから、沢霧は一度顔を放した。彼女の瞼に広がる青はさながら蝶の翅である。今にもふわり、震わせそうな。どこか静かな森の奥で、花に宿り翅を休める蝶。蛍光灯に輝くブルー。納得いくまで眺めると、彼は頬紅に手を伸ばす。片手で開いて筆を掴んだ。左手は、李伶の頬へ。右手はゆっくり円を描いて、頬紅の上に筆を舞わせる。桜にも似た控えめなピンク。
 彼は目を閉じた李伶の頬に、優しく、優しく桜を落とした。李伶の頬がほのか色づく。筆は穏やかに李伶を撫でる。彼女は少しくすぐったそうだ。右の頬が終わると沢霧は、左の頬も同じようにした。その手つきは愛おしげで、普段の彼とはまるで、違う。彼女を殴り、痛めつけ、時には締める彼の右手は、今は彼女を慈しんでいる。
「李伶、」
 ルージュを手に取ろうとして、彼は途中でやめてしまった。代わりに、彼女へ呼びかける。李伶は瞼を開いた。ぱちり、ぱち。長い睫毛が揺れる。沢霧は、くぅと瞳を細めて。……あぁ、この黒い睫毛は。飾り立てる必要などない。
「なぁに?」
 蕩けた問いが空気に溶け込む。灰色がかった黒い瞳は沢霧をじぃっと見つめ、その虹彩には銀色が映った。彼は、彼女のうなじへ手をやる。細い首筋を捕らえ、逃がさない。
「お前、綺麗だよ」彼は笑った。「綺麗だよ、李伶」
 彼女の黒が喜びを纏った。星屑のようにきらめいた。至福に抱かれた唇が開かれるその前に、彼は塞いで、飲み込んでしまう。喰らうでもなく、しかし侵すように。初めて愛のあるキスをした。奪うのではなく、与えるようなキスを。彼女は幸福に瞳を閉じて彼の首へと腕を回す。彼は彼女を抱き寄せて、舌を、中へ差し入れる。



 これは俺の気に入りの玩具。
愛してないわけじゃないんだ。

2011/09/14:ソヨゴ
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