その時、世界は反転したのだ。


 私は時計を確認しながら大通りを駆け抜けていた。行き過ぎる人々の群れに書類を持っていかれそうになる。電車が、遅れてしまっていた。余裕を持って出たはずが気付けば針はぐるりと回り、無情な時刻を指している。待たせるわけにはいかぬ相手だ、……急がねば。
「埒があかない、」
 私は次の曲がり角で路地に逃げ込もうと考えた。多少遠回りにはなるが、これだけの人混みでは思うように進めない。結果的にはその方が早く着くはずだと思った私は、間もなく現れた路地裏へ、この身をひょいと投げ込んだ。そこからすぐに駆け出すつもりで。けれど、私の脚は止まった。止まらざるを得なかったのだ。
 そこにいたのは、“人ならざる者”だった。
 路地に佇む一人の少年。学生服に身を包んでいる。後ろ姿を見せていた彼は、息荒く飛び込んで来た私に驚き、振り返った。折った膝に手を当てて長身の彼を見上げた私は、……世界が、崩れ去る音を聞いた。
 圧倒的だ。
 彼を一目見た瞬間に世界は塵芥と化した。浮世にある他の何より、彼は、彼は超然として、……今まで私が目にしてきた物全てがまるで無価値であったと、その時、私はようやく気付いた。そう、世界は反転したのだ。 もう二度と戻りはしない。
 緑髪の少年は、私をその翡翠の瞳に、__いや、違う。彼の瞳は、翡翠などよりずっと深遠で、透き通り、底が見えずに、妖精の棲む泉にも似て清らかに揺らめいていた__映した。赤い唇を仄かに開き、彼はそっと、ため息をつく。飴細工のごとき艶。地上のどの果実より瑞々しく潤う唇。きっと、ゆるやかに蕩けるのだろう。その味は甘く、そして、密かに酸味を持っているはずだ。しかしもぎ取ることは疎か手を触れることすら叶わない。彼は、夢幻のようであった。確かにそこに見えているのに、触れることは不可能である。……私はそのような考えに囚われ、狂おしいまでに身を焦がした。あぁ、触れたい。口付けをしたい。天女の衣より滑らかなその肌に口付けたい。白魚のような指を手に取り、手の甲へ、接吻を。許されるはずもなかった。彼は私のような者が触れていい存在ではない、__おい、私は何をしているんだ? 何故立っている? 恥ずかしげもなく! 何と愚かしい真似をしている、__私が、するべきことは一つ。
 ひれ伏せ。
 私は彼に歩み寄り、その足下へ跪いた。彼の再びの嘆息が聞こえる。その御顔を仰ぐと、彼は、伏目がちに私を見つめた。絹糸で出来た睫毛が彼の瞳を翳らせる。そして、実に物憂げに。 彼の口は開かれた。
「貴方は、」
 鈴の音のようであった。神の宿る森の奥から、響いてきたかのような声。私の鼓膜はむせび泣く。 歓喜である。
「俺に、遭ってはいけなかったのに」
 寂しげな、哀しげな、呆れまじりの声色であった。幾度目かの出来事に飽き飽きしているような調子だ。彼の翡翠に見つめられ、自然と私の喉は震える。情けなくか細い声が出た。名を、尋ねただけの。
「名前、……柳だよ」
 偽名だけれど。 彼は付け足し、そしてまばたく。私はその名を大事に抱いて、自らに溶け込まそうとした。上手くいかない。いや、溶けている。私自身が溶け込んでいる。取り込まれる。吸い込まれる。これでいい、そうであるべきだ。私は存在していてはいけない。全てを捧げて、それでも足りない。私には、存在する価値がない。私に生きている意味などないのだ。
 そう、

翡翠の侵蝕

 彼が、この世に居るのだから。

柳が中学生の頃の話。サラリーマンはモブです。

2011/08/28:ソヨゴ
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