別れましょう、と言われたので、そうだな、と応えたら、彼女は泣きそうな顔をした。あたし、まだ好きなのよ、カーティス。俺も好きだ、また返せば、だから嫌なのと彼女は答える。そういうところが嫌い。知ってる。知っていることを彼女も知ってる。多分、彼女は俺達の、こうした会話にもう耐えられないんだろう。何もかも分かり切ってしまった、“これ以上”にはならないやり取り、……彼女はしばしば俺のことをechoと称した。反響。木霊。
「まるで空洞に声を投げかけて、自分とお話ししてるみたい」
 言い得て妙だ、と思う。反響相手に恋はできない。
 彼女とは美容室で出会った。俺が客で、彼女は美容師。彼女はその当時やめてしまった店員の代わりに入ってきたらしく、俺の担当が彼だったから、成り行きで俺を受け持つことになった。彼女の腕前がいかほどなのか俺には正直よく分からないが(というのも、俺には髪型の良し悪しがよく分からない。あからさまに似合ってなければそりゃ分かるけどさ、童顔なのにモヒカンとか、でも普通自分にしろ他人にしろそいつに似合う髪型なんて分からないもんなんじゃ、ないんだろうか。みんな分かるんだろうか)、ただ、彼女は仕事をする時、いつも押し黙っていた。真剣な眼差しで熱心に鋏を動かす様は、何だか純粋で、チャーミングだった。支払いの時に彼女は自分の無愛想を詫びたんだが、俺はそのままでいいと応えた、その方が居心地がいい。ほっとしたように彼女は笑い、笑顔もやはり、チャーミングだった。
 映画の話になって、二人観たいと思ってる映画が重なってることに気付いたのが、確か三回目の晩で、何の気なしに俺達は一緒に行く約束をした。その場限りの口約束かと思っていたが律儀に電話がかかってきて、次の約束もそこで交わして、そんなようなことが何度かあって、俺達は恋人同士になった。彼女の傍は心地よかったが心地よかっただけではあり、彼女のことは好きだったが「愛だったか」と、問われると。俺にはよく分からない。多分、愛してると思う、でも愛なんてあやふやなものだし、彼女のことは愛おしいと感じているけど、それは俺の思い込みに過ぎないのかもしれない。彼女が愛おしいっていう錯覚。何処にあるのかも分からないモノをはっきり「ある」と言い切ることが俺にはできない。だから、幸せにできない。
「最後に、思い出が欲しい」
 三月の初め。彼女のリクエストは、俺に髪を切ってほしいというものだった。彼女が『彼女』でいる間俺に教えたいくつかのこと、その内の一つがヘアメイクで、曰く俺はなかなかにセンスがいいらしい。プロが言っているんだし、世辞だとしてもちょっと誇らしい。
 その日はまだ肌寒かった。彼女は水色のスプリングコート、俺は紺色のピーコートを着て、二人でアンダーグラウンドに乗った。彼女の家の近くに雰囲気のいいアパートがあって、そこはいま人が居ないから忍び込めるとのことだったが、俺は一応警察である。不法侵入を見逃すどころか共犯になる寸法だが、彼女は全く気にしていない。自らを咎める気持ちがちょっぴり俺をつついたが、言いだす間もなく俺達は改札を通ってしまっていた。
 電車の中。俺はチョコバーを一本、彼女は二本買って乗り、俺が一本を平らげるまでに彼女は二本とも胃に収めていた。思えば随分と食う女だったがどうして太らないんだか、時々そういうヤツいるよな、エディなんかもその類いだ、――窓の外を高速で流れるトンネル内の暗闇に、今席にいる全ての人が映し出される。彼女は端、俺はその隣で俺の隣は空席、三人分ほど離れた席に制服姿の学生がひとり。だらしなく足を広げていて、居住まいを正せばそのスペースにあと一人二人は座れるぞといった具合だが、まあ空いてるしいいだろう。足下のスポーツバッグは白く、エナメル製。身体つきなどを鑑みるにサッカー部ってところだろうか、俺は少し懐かしくなった。フォワード? ディフェンス? ミッドフィルダーかも、それなら俺と同じポジションだ。名門校なら話は別だがたかが学生の時点では、ポジションごとの体格差などあって無きがごとしなもんで断定はできない。ただキーパーではないような気がする、……そこで、ふと思った。彼女は俺の学生時代など知るまい。
 少年はヘッドフォンをしている。かすかに音漏れしているしどうやら大音量のよう、それでも俺は声をひそめ、ぼそぼそ彼女に話しかけた。
「俺さ、」
「うん」
「サッカー部だったんだ」
「へえ、そうなんだ」
「ミッドフィルダーで」
「ふぅん。どうして?」
「え。どうしてって、走りたかったから?」
「そうじゃなくて。何でそんな話?」
「……話してなかったなと、思って」
「話したことから数えた方がきっと早いよ。……私たちって」


 あまり思い出の無い街だ。俺と彼女が会うのはもっぱら俺の住む街でだったから。美容室もそこにあったし、もっと言うと彼女の住所はいわゆるベッドタウンってやつで、何かにつけて不便だった。けど、時折、俺の方から彼女に会いにいくこともあった。そういう時にワケを聞かれると俺は困って、だって理由なんてない。
「会いたくなった」
「それだけ?」
「ああ」
 冬。まだ、季節は冬。淡い光が彼女の髪を柔らかく照らしている。彼女の髪は栗色だが。光に照ると、眩しくて、元の色はよく分からなくなる。きらきらと、日の色だけが俺の目に映る。街路樹の葉も、窓硝子も、皆きらきらと清純だ。海が朝日に染まる様に似て。自分が春に産まれたせいか、春はあんまり好きじゃない。弟は、春が好きだという。冬に生まれたせいだろうか。
「あたし、見ちゃった。あなたが働いてるとこ」
 一度、彼女にそう言われた。ほんの少しだけぞっとした。
「随分感じが違うんだね」
「――似合ってた?」
「え?」
「警官服」
「……うん。様になってたよ」
 だが一方で安心もしていた。彼女は聡いから、気づいただろう。俺がどういう生き物なのか。智恵のある、賢い人、俺は違う、俺は馬鹿だから、自分がどういう生き物なのか分からない、もしくは生きているのかさえ。俺は“echo”だ。誰かの望んだ“自分”しか、見えない。
「あなたを責めるのはやめる」
「どうして?」
「悪いのは、あたしだったから。あたしが、“あなた”を求めたから。」
 そう。賢い人、貴女は正しい。
「ニコール」
「……うん」
「君は聡いから。俺が“俺じゃないモノ”を、演じたら、気付いてしまうだろ」
 俺に望むのが『彼氏』でも『兄』でも『友人』でもなくて『俺自身』なんだとしたら、俺は空洞になるしかない。反響する声がない限り君の耳には届かない、君が見本を与えてくれなきゃ「真似できない」。
 だから君は満たされない。
「カート、」
 ふと、回想でない彼女の声が今現在の鼓膜を揺らす。ニコールは俺を見上げて、それでいて独りごちるみたいに俺の向こうを見つめて笑った。
「あなたって、ね。誰だったんだろうね」


 しかし別れを告げたのは彼女で、フラれたのは俺の方なのにどうして彼女が髪を切るんだろう。男が失恋で髪を切るのは気味が悪いので遠慮したいが、俺はニコールの長い髪が好きだったから、少し残念だ。時々映画を借りてきて一緒に部屋で観たりしたけど、彼女はスポーツ関連のDVDだと大概寝た。『帰ってきたチャンピオン』もしくは『フィールドオブドリームス』をぼんやりと眺めてる間、隣からは気持ち良さそうな寝息が聞こえ、俺はニコールの、長い長いブラウンの髪にそっと触れる。キャンディのリボンみたいな、もしくはマロングラッセの蜜だ、その潤いは艶めいてするりと指を落ちていく。今度は絡ませて、口付けた眠り姫を迎えにきた彼の気分で、密やかに。
 彼女の選んだアパートは築何十年という代物で、白壁であっただろう外壁は排気ガスにくすんでしまい、マスカラの溶けた涙のごとく雨垂れがへばりついている。所々にヒビ、蔦が絡まり、爽やかな冬晴れの中そこだけ暗雲が立ちこめて見えた。だがどこか、暖かい、可愛らしい雰囲気もあって、こんな家に帰れたら楽しいだろうなとは思う。部屋の内壁はきっとレンガで、昼でも薄暗いんだろう。でも真新しく、白々しい現代風の家々よりは、少なくとも俺の好みではある。
 さて、その部屋の内装はおおよそ予想通りだった。落ち着いた色合いのレンガ、使い古されたフローリング、窓枠も硝子も古びていて真昼の光は外にあるばかり。
「ここでやんの?」
「そうだよ」
「でも、」
「なに? どうかした?」
「水とかさ。ドライヤーとか、どうすんの」
「電気は通ってるみたいよ、水は、念のため持ってきた」
 すると彼女はバッグから何本かペットボトルを取り出し、小包装のシャンプー、リンス、トリートメントにドライヤー、櫛、鋏、ピン、頭皮マッサージ用のスプレー類、――散髪に必要な全ての道具を取り出した。なるほどでかい荷物だと思った、呆れると、彼女は言う。 まだ、あるよ。
「これ。シャワー代わりに」
 彼女の手にあったのは、園芸用の鉄のジョウロ。
「それ使うのか?」
「ええ」
「へえー。お前、水やると花咲くのか」
「そうよ。気高いバラが咲くわよ」
「君はせいぜいパンジーだろ」
 もう少し華やかに喩えてよ、と彼女はむくれ、おざなりに謝りながら俺は銀色のジョウロを受け取る。確かにバラは言い過ぎだが、パンジーよりはもっと綺麗だ。いやパンジーが綺麗じゃないって訳じゃないけど、……なんだろう。スイートピー。ポピー。ヒナギク。
「あなたはリンドウね」
「は?」
「なんとなく、……ウソ。青色が似てるから」
「それもウソだろ」
「え、」
「知ってるよ、その花の意味」
 でも俺にそれ以上、求められても無茶だよ、ニコール。
 音の無い声で答えを返し、彼女に椅子を勧める。彼女は、何か言おうとしてそっと口を噤み、コートを脱ぐ。俺達は何度こうやって心の中に閉じ込めただろう、互いに、口に出したって何にもならないと知ってしまって、産まれてはまた仕舞われた無数の言葉が俺達の間を常に漂っている。もし、このうちの一つでも、もしくは全てを声に出していたら、行き着く先は違ってただろうか、それともやはりこの場所へたどり着いてしまったんだろうか、辿り着いたんだろうな。俺が変わらない限り。
「ニコール、」
「うん?」
「どんな感じにしたい? 髪型」
 ペットボトルの中の水をジョウロに移しながら、俺は、彼女の方を見ず尋ねた。響き方からしてどうやら俺を振り返りながらニコールは返す。バッサリ、切っちゃって。
「それで、あなたの嫌いな髪型にして」
「え?」
「もう一回出会っても、好きにならずに済むように」
 一瞬、手が止まりそうになって、けれど結局は止まらないまま俺は水を移し切り空のボトルに栓をする。彼女の言葉が右耳の奥でずっと質量を持っている、その形を確かめながら俺は声を水面へ投げ込む。
「なら、色も変えてくれ」
「色? どうして、カートが好きなのは金髪でしょ?」
「そうだよ。だけど、ニコールの栗色はすごく好きだった」
 依然、顔を見ず応えた、だから、俺がそう返したときの彼女の表情がどんなだったかは分からない。だがニコールはしばしの沈黙ののち喉を震わせた、震わせて、泣き出したいのを堪えるように言葉を紡いだ。 今度は、俺を見ずに。
「だったら、カートも髪の色変えて。金髪にしてよ」
「どうして」
「だって、そのきれいな黒い髪、嫌だ、また会ったとき目にしたら触れたくなるから、そうだ目も嫌だ、宝石みたいな青色、変えて、もっと汚い色にしてよ、ずっと見てたくなっちゃうから、もう顔ごと、焼くかなんかしてよ、きっとまた私好きになるから、そうしなきゃ、そうしても、多分、だって、だって私、――」
 その後の言葉は聞き取れなかった。俺は立ち上がり、歩み寄り、彼女の背に手を当てながら、彼女の栗色を見つめていた。俺に嫌われたいんなら、君だって全部変えてくれ、髪も、目も顔も声も手も、好きなままじゃ、いけないか。ニコール。愛しているかは分からない、そういう激しい感情を抱いたことが俺はない、ただ、愛おしいとは思う、愛おしいとは思うから俺はきっと何度も思い出すだろう。そうして失ったことだけを、考える。そこにいないことを。 「……ごめんなさい」
 そのまま空に溶けてしまいそうな小さな声で、彼女は呟いた。涙を収められないまま。
「あなたを責めたってしょうがないのに。ほんとに、しょうがないのにね」
 まだ冷ややかな三月の光が、窓の外を浄化してこの薄暗いアパートの中にもわずかに入り込んでくる。彼女の首に腕を回して、後ろから抱きとめた。彼女の耳に頬を寄せ、目を閉じる。もしそれで、貴女が楽になるんならいくらでも俺を責めればいい、何もしてやれなかった代わりに何をされたって文句はない、いっそ、殴り飛ばしたっていいのに、嫌いになってもいいのにな、でも、人の気持ちって、そういうものじゃないんだな。多分。
「ニコール。好きだ」
 彼女にだけ届くよう、小さく、囁く。彼女は笑い、俺の頭に手をのせて軽く撫でながら、呟く。


echo


「そういうところが、嫌いよ。カート」

短編集に入れようかなと思ってた話。ちょっときざったらしくなっちゃった。

2014/03/25:ソヨゴ
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