男の人を家に呼ぶのは初めてだ、とマリアは思う。彼女の隣を歩いているのは長身の青年だ。グレーのYシャツに濃いめのジーンズ、それだけで、様になる男。彼女が見上げる程度の高さに彼の小さな頭があって、その整った顔立ちはどこか彫刻を思い起こさせる。“端正”、という形容が、よく似合う目鼻立ちだった。彼女は彼と一緒に歩いていることが恥ずかしい。無論、彼が原因ではない。見れば見るほど「釣り合ってない」と思ってしまうからだった。……せいぜい中の上な、己が。
「どうかした?」
「へ!? ううん別に」
「そう? なら、いいんだけど」
 彼は納得しかねる様子。彼女はそのことに焦りつつ、脳みその別のスペースをぐるぐると回転させる。__私の顔が赤いことに彼は気付いているのだろうか、気付いているなら、もう分かるだろうに。どうかしたもなにもどうかしてるんだ、恋はわずらい。頭の病気。好きな人の隣を歩いてまともでいられるはずがない。彼は、知らない。何も知らない。自分がいかほどの価値を持つのか。こんなにも隠せていない気持ちすら彼には見えないらしい! いっそこの胸の高鳴りで彼の鼓膜を揺らしてやろうか、否、たとえ鼓動が聞こえても彼はこう言うに違いない。 「凉谷さん、走ってきたの?」
 恋の行く末を憂うため息が、彼女の可憐な唇から零れる。首を傾げた彼の脳内でクエスチョンマークが膨らんだ。__凉谷さん、楽しくなさそうだなぁ。俺に来てほしくなかったのかな? いやでも、俺は誘われたんだし……女の子はよく分からない。失言はしていないはず、何かやらかした覚えもない、じゃあ何故こんなに物憂げなんだ? 嫌いな相手を家に誘う、なんてこと、彼女はするのだろうか。しないと思う、それはないと思う、好かれてるかは分からないけど少なくとも嫌われては、……嫌われてたら、ショックだな。
 馬鹿馬鹿しい考えである。彼の危惧は杞憂そのもの、いっそ空が落ちてくるより確率の低い事柄といえる。彼女が、彼を嫌うはずがない。もし彼女が彼を嫌っているなら、今頃私達は落ちてきた雨雲でびしょぬれなはずだ。彼女の心が憂いを帯びるのはひとえに彼が鈍感なせいで、彼に恋なんてしてるからこそ、彼女の心は、沈んでいるのだ。
 とはいえ。彼女の心がいつになく浮き足立っているのも事実で。沈んでみたり浮かれてみたり、忙しないことこの上ない。彼女は、自分の気持ちに気付く気配もない彼を見ていると憂鬱であったが、大好きな彼と二人っきりで歩いてると思うと有頂天だった。しかもこのあと、彼は家に来る。なんだか恋人同士のようだと考えてみたりして、彼女の顔はまた赤くなる。__今、私はどこに居るんだ。全てが夢のように思える、夢か、嘘か、はたまた妄想! けれどこれは現実なんだ、実際に彼は隣にいて、これから彼は私の家で、私と一緒に映画を観る。__彼女は浮遊感に襲われていた。空気の冷たさも彼の靴音も、実感がない、まるで上澄みだ。根っこが生えていないのだ。二人が今歩いているのは、彼女が朝日きらめく中を毎日駆けてゆく通学路である。彼女にしてみればよくよく見知った、慣れ親しんだ風景であるのに、今日だけはいやによそよそしい。ベージュ色に舗装されたざらつく歩道、傍らの街路樹、水っぽいナポリタンをだす喫茶の看板、赤い自販機、地味な文房具屋、いつもの景色、何故こんなにも素っ気ない? 青年は彼女に向かって見蕩れるような笑顔を向けた。__あぁ、いやだ! 憎らしい人!
「……愛と憎しみは正反対じゃない」
「ヘレン・ケラー? なんでいきなり」
「別に。なんか実感したから」
 好きだから、憎たらしいんだ。心の底から彼が憎いのは私が彼を好きだから。__少々ピントがずれていることは彼女とて承知している。かの宗教家が説こうとしたのは恐らくそういうことではないが、今の彼女にとってみればそんなこと、些末なことで。森羅万象この世の全てを自分の色恋に巻き込んでしまうのは、恋わずらいのせい。哲学者数学者文豪、彼らのどんな名言も、恋する乙女の手にかかれば下手なポエムに早変わりだ。彼女は自らの性格を冷静、だと捉えていた。その認識は間違ってはいなくて、実際、自分が冷静でないことに気付ける程度には冷静である。__あぁなんてこと、思えば私は、恋なんてものをしたことがなかった! こんなにも心臓がうるさくなるとは知らなんだ、中学の時マラソンで4km走った後だってこんなにはうるさくなかった、隣に彼がいるだけで! なんてざま! 滑稽だこと!__彼女はまだまともな方だ。自分がまともでないことには、ちゃんと気付いているのだから。
「本当愛って複雑だよ、蔵未くん」
 実感のこもったその呟きは、……彼の頭の中の疑問符を、増やす結果となったのだけれど。


「あれ、凉谷さん猫飼ってたの?」
 リビングに足を踏み入れた彼は、めざとく白い子猫を見つけた。
「あ、うん。もしかして苦手? ごめん、」
「いや、むしろ好き。飼いたいくらい」
 ほら、おいで。 彼は屈みこんで子猫を手招く。名前を尋ねる彼の声に、彼女は一言「ベル」と答えた。
「へぇ、ベルか。女の子?」
「うん。メス猫」
 青年は慣れた手つきで白い子猫を抱き上げる。子猫も嫌がる素振りはなく、嬉しそうにみゃあと一声。飼い主はそれを恨めしげに見ていた。 ちくしょう、ベルめ。
「いい名前もらったな、お前」
 彼は子猫を懐に抱く。子猫は彼を気に入ったようでぺろぺろと、彼の頬を舐めた。彼は、くすぐったそうに笑う。やめろよと言いつつ降ろそうとはしない。もちろん、飼い主は不満顔だ。彼女の機嫌は下降線を辿りゆるやかに、落ちていく。怒ったように眉根が寄って唇がへの字に曲がった、彼女の鮮やかな桃色の瞳はさらに熟れ(細められたので陰がかかって、ちょうどそのように見えたのだろう)ほんの少しだけ濃さを増す。想い人とたわむれる子猫に飼い主は、湿った視線を向ける。青年はビターチョコレートの瞳を子猫の黒目と見合わせていて、彼女の桃色には気付かない。
「かわいいなぁ、お前」
 慈愛に満ちた響きであった。彼の唇は緩くたゆんで淑やかなカーブを描く。優しすぎるほど優しい、微笑み。その表情は彼がいかに動物好きかを表している。ほのかに漂う、異常さを。その行き過ぎた庇護欲は、……彼の“欠陥”の、裏返しだ。
「こらベル、あんまりひっつくんじゃないの」
「平気平気。 はは、甘えんぼだな、お前」
 彼は自分を大切に出来ない。自らを優先順位の最下位に置いて生きてきた彼は、自分に優しくすることが出来なくなってしまっていた。全ての人に優しくできる人間なんてこの世にはいない、必ずどこかに歪み(ひずみ)が出る。彼の場合は自分自身が、その歪みの対象だった。彼は自分を無視してしまう、蔑ろにしてしまう、しかし彼は「自分が嫌いか」と尋ねられればこう答えるのだ。 「嫌いでは、ないよ」
 愛情の反対は、憎しみではない。
 無関心だ。
 彼は自分に興味がなかった。
 意図して自分を無視するのではない、いや、初めはそうであったのに、いつの間にやらごくごく自然に存在を無視し始めて、今では、忘れてしまったも同然。嫌いなわけじゃない、好きなわけでもない、彼にとっての彼自身は「どうでもいい」存在だった。存在に、なってしまった。初めはそうでなかったのに。彼の心は空洞だ、容器だけあって、中身がない。自分自身への愛がないゆえに他人に与える愛もなくて、それを無理矢理与えようとしてどんどん容器も削られていく。いずれ壊れてしまうのは明白なことだった。削りきって穴が空くのは、そう遠い未来ではない。……はずだった。
 彼女に出会うまでは。
「くすぐったいっつの、__あ、凉谷さん」
「え、なに?」
「お手洗い借りてもいいかな。映画観てる途中に行きたくなったら、ヤだからさ」
「ん、いいよ。廊下行って、三つ目のドア。左側ね」
 ありがと、と短い返事。彼は子猫を床に降ろした。と、何を思ったか、そのまま子猫に顔を近づけて、__
「あっ!」
 キスをした。
 触れるだけの、些細な。
「じゃあなベル。……あの、どうかした?」
「ひょ!? いや別に!?」
「そ、そう? なら、いいんだけど……」
 青年は首をひねり、ひねり、後ろ髪を引かれつつ(まぁ彼は短髪な訳だが)とりあえずトイレへと向かう。残された彼女は、安堵。ふぅと息を吐いて、それから、子猫をぎぃと睨みつけた。何かを察して逃げようとする子猫を捕らえ、羽交い締め。
「こら、なにやってんのよベル」
「にゃ、」
「イケメンだからってでれでれしちゃって、このやろ、むかつくこのやろ、」
 ぐいぐいと頬を引っ張られて子猫はじたばたもがき始める。彼女が逃亡を許すはずもなく、哀れ、空中に抱え上げられた。彼女は涙を滲ませながらぶつぶつと、恨み言。__このやろ、私は、私はなぁ、蔵未くんが、好き、なんだぞ、それなのにお前こら、暴れんな、許さない、許さないからなうらやましい、猫だってだけで抱き上げてもらえて、かわいいとか、この、ちくしょうむかつく、__逆恨みとはまさにこのことだ。
「……ベル」
「にゃあ?」
「……お裾分け、しなさい」
 突然の要求に驚いて彼女の瞳を見返した猫は、その瞬間に戦慄する。彼女は妙に据わった目のまま子猫を顔まで引き寄せた。そうして、固まりきった子猫に、視線を合わせ、……そのまま。
 むちゅっ。

「__間接キスだ、このやろー」



白猫とキスとボックスハート

 戻ってきた青年が、頭の中の疑問符を宇宙レベルに膨らますのは、__それから数秒後のことである。

くらマリと白い子猫の話。

2011/10/02:ソヨゴ
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