ブルーシルエット


 夜、こっそり家を抜け出すことがある。ひんやりと湿った空気に身を浸しながら街を歩く。そうして夜空を見上げれば、済んだ星が光ってたりして、雲がブルーを帯びていたりして。街灯だけがついている。白くて冷たい蛍光灯の灯り。
 まるで、湖の中のよう。そんな素敵じゃないけれど……想像してみる。私は今水の中にいて、湖の底を歩いている。ちょっとした疑似体験。現実に空を見上げればそこには水面も波紋もなくて、すぐに違うって分かっちゃうけど。
 この世で一人きり。
 そんな気分になる。誰もいない誰も通らない、人影のない夜道。何かあって皆死んでしまって、私一人だけ生き残った。寂しいような、さっぱりするような、そんな錯覚。独りぼっちは心地いい。私はそんなに、嫌いじゃない。
「嫌いじゃない……のに、ね。」
 なのに今夜は勝手が違った。形のない不安が、ざわざわと心を乱す。薄い色した煙のように私の心を覆っていく。靄がかかって見えなくなる。ほんの少し、怖い。
「何故かしら。」
 コツ、コツ。靴音は、私の好みの音色なのに。星は美しく、空は遠く、空気は冷たく、ねぇ、何故かしら。どうしてこんなに不安になるの?失いそう、なんて。………一体何を。
 もう、いい。帰ってしまおう。これ以上外にいても不安定になるだけだ。どうしてかしら、何だか、おかしい。昔と今と、何が違うの。
「___あれ?」
 ふと何かを感じて立ち止まる。靴音だ、スニーカーの音。ざっざっざっと地面を蹴る音は軽快かつ一定に、少しずつ近付いてくる。こんな夜中に誰かしら。
 もしかしたら暴漢とか。一瞬そう思ったけれど、何だか違うような気がした。足音の持ち主を知っていたような気がしたから。だって少しも怖くなかった。私が武道を心得ていて、並みの相手なら襲われても平気………というのも、あったかもだけど。
 段々と姿が見え始めた。同年代の男の子だ。悪い方の予想が外れて私はほっと息をつく。彼は斜め下を俯き、重さのない足取りでランニングをしていた。動きの節々から俊敏さが見て取れる。日常的に運動している人の動きだ。濃いめのグレーのパーカーを着ていて、フードのせいで顔はよく見えない。無地のグレーに黄緑の曲線。恐らくは、イヤホンのコード。
「___あ、」
 彼と私の間の距離がだいぶんと縮まった頃。 ようやく気付いた。
「あれ……御影?」
 彼はその場で立ち止まり、気怠げな、それでいてよく響く柔らかな声を発した。その声は私が、最もよく知る人物の声。___唯一愛している人の声。
「和弘?」
「やっぱ御影か。」
 先程よりも速いスピードで彼は私に駆け寄ってきた。 こんな夜中に何してんの。
「お散歩。和弘は?ランニング?」
「うん。日課って訳じゃないんだけどさ、急に走りたくなって。」
 ふっと息を吐きフードを外す。イヤホンを片手間に取って、彼は音楽機器を止めた。見慣れた横顔はいつになく汗をかいていて、常に気怠げな彼を知ってると、何だか物珍しいというか。額から雫が流れ、瞼を避けて伝っていく。ぽたりぼたりと顎の先から汗が数滴落ちていく。さらさらとしたストレートのつややかな黒髪は、いつもより少し湿っていた。
 男子にしては___というより、女子にしたって長い睫毛。大きすぎる訳ではない、だけど目を引く形のいい瞳。肌はひどくきめ細かくて、女子の私も羨ましい。少し不安になる白さ。整いすぎてアンバランス。何だか怖くなる、というのは、前にも本人に言った気がする。じっと見つめていると何だか、足下がぐらぐらしてくる。完璧はこの世にないのに、あまりにそれに近すぎる。美しすぎるモノというのはなんにせよ恐怖をもたらす。あの翡翠の男もそう、目の前の彼もそう。ただ和弘を見てて感じるのは、“恐怖”ほど強い感情じゃない___私にとってはもっと怖い___“不安”。じわじわと崩れる不安。徐々に足場が溶け出すような、心許なくなる感じ。
「危ないよ。」
 女の子が、こんな夜中に。彼は横顔を見せたまま呟く。 私の方が強いじゃない。言ってしまおうと思ったのだけど、和弘が気にしてるのは知っているのでやめにした。身長も、ね。抜かないようにしなくちゃ。
「和弘こそ。美少年は狙われるわよ。」
「そっちの人に?」
「そっちの人に。」
「……大丈夫だよ、僕は。」
 そう簡単には襲われないよ。返して、額の汗を拭う。腹の辺りに縫い付けられた大きなポッケに両手を突っ込み、和弘はやっと私を見つめた。
「君、パジャマのまま出てきたの?」
「そう、面倒だったから。」
「足寒くない?こんな真冬にワンピースなんてさ。」
 もう春じゃない。わらって返すと、そうだけどさと拗ねた返事。 寒いことには変わりないでしょ。
「まぁ確かに。少し寒いかな。」
「ほら見ろ。やめなよ、風邪引くよ。」
「でも風邪を引いたら、貴方が看病してくれるんでしょ?」
「………当たり前。」
 呆れたような声音に微笑む。優しい風に気がついて、同時に煙が去ったことも知った。もくもくとした冷たい不安は、はて、どこ行っちゃったのかしら。
「___ふふ、そういうこと。」
「、は?」
「気にしないで。」
 昔好きだった孤独感。この世に一人きりのような、世界が静まり返った感覚。寂しさと同時に纏わりつくのは全能感だった。そう、昔はそれでよかった。でも今は怖くなる、だって私は残念なことに、ひどく残念で幸運なことにもう一人ではないのだから。雑多で邪魔な人混みの中から、私は見つけ出したのだから。愛する人を。隣にいる、貴方を。
 見えなくなってしまう気がした。失ってしまうような気がした。だから無性に怖くなったのだ。貴方が見えなくなっちゃったら。考えるだけでぞっとする。貴方なしでは、もう、無理よ。貴方を失いたくなんてない。一人は好き、でもそれ以上にあなたが好き。あなたは私の傍にいて頂戴。ずうっとずっと、永遠に。私を置いて行かないで頂戴。
「ダーリン、愛してるわ。」
「いきなり何。」
「何だっていいじゃない。」
 腕を絡め、突き飛ばすように抱きついた。一瞬よろめく彼の身体にほんの少しの危機感を抱く。下手すると私の方が重そう。和弘は細すぎる。
「迎えにきてくれたんでしょ?」
「はぁ?」
「一人で取り残された私を。」
 一人でいるのは怖くない。また一人になったっていい。だけど貴方を失いたくない。一人はちっとも怖くない。貴方がいなくなることが怖い。でも、私は知っている。貴方は私を置いて行ったりしない。私がどこへ行ったって、必ず迎えにきてくれる。 こんな風にね。
「相変わらず意味不明だね君は。」
「分からなくていいわ、私だけ分かってればいいの。」
「…ふぅん。」
 気に喰わない。
 むっとしたような独り言。どうしてかしらと戸惑っていたら、ちょっと強引にキスされた。絡めていた腕が離れて手の平が頭を掴む。押し付けるように唇合わせて、しばらくしてからぱっと放す。舌は、入ってこなかった。
「御影は僕の彼女だろ、なんで御影だけ知ってんのさ。」
 そんなのずるい、僕だって知りたい。 大人っぽいキスの直後に和弘はそんなことを言った。子供のような膨れっ面。実際、まだまだ子供だけれど。
 いつだってそう。振り回すようで振り回されてる。
「ごめんねダーリン、愛してるわよ。」
「____僕だって。愛してるよ、ハニー。」
 家まで送るよ。さらりと言って、和弘はまた手を突っ込んだ。元の通りに腕を絡めて、擦り寄せるように頭を預ける。細くて心許ない身体。なのに、どうして落ち着くのだろう。
 汗の匂いがする。男の子の匂い。いつもは中性的な彼の空気は、今日だけ少し男っぽくて。何だかどきどきする。悟られたら負け、からかわれちゃうわ。
「………ねぇ、御影。君の家族はみんな寝てるの?」
 突然に立ち止まり、和弘は私にそう尋ねた。私は疑問符を浮かべつつ返す。
「え、えぇ。多分。」
「ふぅん……そっか。」
 ね、御影。耳貸して。 和弘の言葉に大人しく従う。すっと耳を近づけると、彼はほんの少しだけ身を屈めて。 吐息たっぷりの声で囁く。

「それならさ、____えっちなことする?」

 へっ!?  耳を抑えて飛び退けば、珍しい笑い声。 冗談だよ。 白々しい台詞。どうせ、気付いていたくせに。
「本当にしたっていいけどね。」
「お断りよ、からかったりして。」
「あはは、ごめんごめん。」
 下から軽く睨みつければ適当な返事を寄越す。ごめんね、なんて。毛ほども思ってないくせに。


 全くもう、貴方って人は。  

久々のかずみか。公式バカップル。

2011/03/18:ソヨゴ
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