俺と和弘の中というのは色々と遠慮がないので、悪戯はしたりされたり、少々度の過ぎた冗談も、お互いを知っているがゆえ言い合ったりしているのだが、昔、どうしても一つだけ、出来なかったことがある。多分、今やろうとしたって俺には出来ないことだろう。
 昔と言っても最近だ。一昨年の、夏の日のこと。

World and The other world

「あ、和弘」
 夏も中盤に入った頃だった。今はいわゆる初夏だから、時期で言うともう少し先……八月の、初め辺りだろうか。
 その日はひどく暑かった。しかし暑かろうが寒かろうが雨が降ろうが人が降ろうが空手に休みはなかったので、和弘は俺のことを道場で待つことにしたんだ。ちょうどその日から、和弘の家に三日間泊まる約束になっていたから。
「……寝てんの?」
 午前の部が終わり、昼飯も食べてしまった俺は、ぶらぶらと和弘を探した。初めこそ練習を眺めていた彼だったがやがて飽きてしまったようで(ものの五分でそうなった。本当に、こらえ性がない)、広い広い道場内を一人探検に出かけていたんだ。どうせどっかで迷ってるだろうと、俺は予測した訳である。
 案の定、というか何というか、和弘は道場にある小部屋の一つで眠りこけていた。道場ないで一番涼しい場所がここだから、きっと居心地が良かったんだろう。……そこは、小さな茶室だった。
 灯りもついてない畳の上で、和弘はすやすやと寝ていた。元々暑さには、__寒さにも、だけど__強い方ではなかったから、その眠りは深そうで。しばらく障子の縁に手をかけ彼を眺めていた俺だったが、やがて閃くものがあり、隣の書斎へと急いだ。
 書斎から油性ペンを持ち出し、俺は茶室へと帰ってきた。そう、俺のひらめきはただの悪戯だ。 日頃の仕返しに、瞼に目でも描いてやろう。
 きゅぽ、と音を立てキャップが外れる。悪戯を仕掛ける時の、あの独特の高揚感を心の奥で感じつつ、俺は和弘を覗き込んだ。__そして。
 あぁ、無理だ。 そう思った。
 アイツの寝顔をまじまじと見る機会なんてなかったから、あの時が初めてだったろう。間近で彼の顔を見た時、俺は……とてもじゃないが悪戯なんて出来ないと、そう思った。汚せる訳がないと思った。
 俺はその瞬間まで、「完全」なんて陳腐な言葉をちっとも信じちゃいなかったけど、それが確かに存在することを、俺は認めざるを得なくなった。綺麗な顔とは、思っていた。けどまさかこれほどまでに……触れられない、と思った。完全に整った顔はあまりにも整いすぎてて。何か一つでも手をくわえたら、たちまちに、あっという間に……崩れてしまう気がしたんだ。それがたとえ傷でなくても、風呂に入れば落ちちまうような他愛ないものであったとしても。取り返しのつかないことに、なってしまうような気がした。
 縫い付けられたような睫毛も、高くすっとした鼻筋も、絹のように真っ白で日焼けを知らない細やかな肌も、男のものとは思えない、林檎色の唇も。 何もかもが完全で、完璧で、不安定だった。あんな些細な悪戯でさえ出来なくなってしまうほどに。和弘の美しさは、柳さんのそれとは違う。あの儚すぎる美とは違う。柳さんの美しさは、触れたら壊れる__消えてしまう美しさだ。そもそもここに在るのかどうかさえ、あやふやになってしまうような。和弘は、違う。あいつはちゃんと“そこ”にいて、確かな強さで美を保つ。けれど、けどこの完全さは、いつ崩れるか分からない。上手い比喩が見つからないが、トランプタワーみたいなもんだ。ふとした瞬間いなくなる。そんな予感が、してしまう。俺は途端に恐ろしくなった、……俺がアイツが居なくなることを、他の何よりも恐れているから。
 慌てて、身を引いた。自分の汗がアイツの顔に落ちることさえ怖かった。外で長は蝉が喚いていて、__和弘、お前分かってんのかよ。自分がどれだけ綺麗かなんて本当に分かってんのかよ。お前、どこにも行くんじゃねぇぞ。そのまま“そこ”にいてくれよ。俺のいるここじゃなくていい、この世界じゃなくていいから……「向こう側」には、行くんじゃねぇぞ。
 昼休みが終わっても、俺は動けないままでいた。やがて彼の瞼が開いて、その赤すぎる両目が俺の姿を見据えたとき、ようやく、俺は戻ってこれた。アイツのいる、“狭間”から。俺のいるこの世界へと。
 なぁ、和弘。本当は、本当は……お前は。



 この世界にいること自体、奇跡なんじゃないだろうか。
柳の美しさについて延々書くことはあったけどそういや主人公放っといてたな、ってことで。
虎の目線で書いていたので、あんまり深く描写できなかったw 寝顔だったから、瞳の描写が出来なかったのよね。
和弘の一番の魅力は、目です。

2011/07/14:ソヨゴ
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