兄はしばしば俺を黒猫に喩える。雰囲気が似てるんだそうだ。前触れもなく、突拍子もなく、いつも唐突に彼はこう言う。お前、猫みたい。よく似てる。それから愛おしそうに微笑んでpussy cat、と俺を呼ぶ。猫に喩えられること自体は嬉しくも悲しくもないがpussy catと呼ばれるのはいやだ。けど、そんな呼び方をする時の兄は大概酔っぱらってるか上機嫌かで憎まれ口を叩いてもあまり効果はない。楽しげに、素直じゃねぇなと笑うだけだ。俺は、やや苛ついて、無言で兄の臑の辺りを蹴る。
「いって、」
「変な呼び方しないで」
「んだよ。昔っからそう呼んでんじゃん」
 兄は拗ねた風に口を尖らせて、そのままソファーに倒れ込んでいった。ふらついてなのかわざとなのかは俺には判別できなかったが、問題なのは兄が俺の服をしっかり掴んでいたことだ。道連れにされた形の俺は、兄の上に墜落する。ウイスキーの香りがした。
「酔ってんの?」
「おー。酔ってんぞ」
 帰ってくるのが遅いなあとは思ってたんだ。やっぱりか。兄はまた三人で長いこと飲んでいたらしい、__同僚のキースさんと、エドワードさん。名前だけ知ってる。どんな人達なのかは知らない、その人たちの前で、兄が、どんな人物であるのかも知らない。兄には兄の繋がりがあるのだと思うと少し、……寂しくはない。断じて寂しくはない。ただ、ちょっとつまんないだけ。
「何杯飲んだの?」
「覚えてねぇ」
「酒は程々にしときなよ」
「ほどほど?」
「ちょうどいいぐらい」
「ちょうどいいってどんぐらいだよ。俺ぁ知らねぇぞ」
 そういえば。兄は料理が不得手なのだった。レシピにはつきものの『少々』とか『適量』とかそういった類いの記述が理解できないらしい。彼は、そりゃあもう繊細さやらデリカシーに欠けた男であるから、曖昧で、どうとでも取れる表現が苦手なのだと思う。普段も、遠回しだったり匂わせてたり皮肉だったり厭味だったり、つまりは意図を隠したような物の言い方に出くわすと、一瞬まぬけな顔をする。ぽかんと。バカ正直に生きているからね、婉曲表現が苦手なの、きっと。
 とはいえ。今、俺達は同じ屋根の下で暮らしてる。兄が湖の底まで落ちて拾い上げた弟、もしくは俺は、会話に厭味を挟まないではいられない生き物であるから、兄貴は最近隠された意図を読むことに慣れてきたらしい。文脈理解が可能になったということだ。進歩だね。
「兄貴もさ」
「あ?」
「マシになったよね」
「何が? 頭の出来が?」
「そう。まぁサルだって学習はするしね」
「俺の知能はサル並みか、こら」
 おお。酔ってても察せましたか。
「さぁね。そうかもね」
「憎たらしい、」
「憎たらしい? 憎い?」
「バーカ。憎かねぇよ、弟だからな」
こんな些細な一言に、嬉しくなっちゃう、自分が嫌だ。
「__ねー、兄貴」
 酒臭い彼の吐息を頬に感じながら、俺は、言ってしまってもいいかもと思った。酔っぱらい相手だし。どうせ朝には忘れてんだろう。足の裏で肘掛けを推して、彼の面(おもて)に少しだけ迫る。少しざらついた、コットンの、グレーの生地と、くるまれたクッション。慣れ親しんだ感覚を土踏まずに受けながら、彼の鼻梁を眺める。本当、口さえ閉じてりゃ思慮深げ。
「どした、アーニー」
「あのね、……あの、さ」
 今日の朝、戯れに見てたニュース番組の星座占いは射手座が一位だった。確か、ラッキーアイテムは『素直になること』。それアイテムっつーか行動じゃね? と思ったことには思ったけれど、それにもうすぐ今日という日は終わってしまう訳だけど、そもそも星座占いなんてのはその番組のスタッフが毎朝適当に考えているのが常でこの前なんかラッキーアイテムが『水玉のスカート』でそれ男はどうすんだよ履くの? めくるの? とか思ったけれど、けど、けどけど、たまには、いいかな。乗っかっちゃってもいいかな。
「好き」
 一度口に出してしまえば、大したことのない響きだった。
「……好き?」
「うん」
「そっか。好きか」
 兄貴は、自然なキスをした。酒の匂い。酔っぱらいの匂い。酔っぱらいはあまり好きじゃないけど兄貴だからまあいいや。
「居酒屋の味がする」
「嫌なキスだな」
「兄貴のせいでしょ」
「アーニー、もっかい」
「なんで」
「酒。酒呑むと甘いモン、欲しくなんだよ。お前知らない?」
 肯定を得る前に、困った人、もとい俺の兄貴はもう一度口づけてきて、俺はしょうがなく目を閉じながら兄の言葉を分析する。甘いモンがほしいってことは俺とのキスは甘いんだろうか、自分の唇の味なんて自分じゃさっぱり分からないけどそういや今日の昼食は買ってきたフルーツタルトだったっけ、よるまで味が残る物だろうか、兄貴の好きなオレンジもフルーツタルトには入っていたけどオレンジは甘いというより酸っぱいよね、甘酸っぱい、語彙の乏しい彼の辞書にはそんな言葉はないのかもしれない、さすがに馬鹿にしすぎかな。そんなことを考えてる間に上睫毛は無事下睫毛と出会い両者が交差すると同士に世界は暗転する。
 おしまい。

やまなしおちなしいみなし。

2012/06/09:ソヨゴ
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