キッチンから鼻歌が聞こえる。
 果物が切れる音に混じって、彼の澄んだ声が届いてくる。私はソファーに座りながら彼が戻ってくるのを待っていた。その心地よい音色に、静かに身をゆだねながら。
 何を歌っているのかと私はぼんやり思案する。聞こえてくるのは品のいい、クイーンズイングリッシュ。その麗しい発音は、私とは違う彼の生まれをそれとなく思い知らせてきた。彼の先祖は英国人。私の方は、米国人だ。
 歌詞の雰囲気やメロディからして、童謡なんじゃないかなと思う。童謡、……遠い遠い昔、国というものが無くなったとき、童謡も伝統もそれと同時に消えてしまったと、私は思い込んでいた。でも、彼は知っているんだ。 誰かが歌い続ける限り、歌は消えることはない。
「お待たせ」
 しばらくすると鼻歌が途切れて、レンドが姿を現した。手にはガラスの器、そして色とりどりの果物。オレンジ、チェリー、アップル、グレープ……“旬”も何も無いけれど。食べられる時に、食べておかないと。
「ありがと。あー美味しそう」
「温くなる前に食っちまおうぜ」
 向かいのソファーに座った彼は、テーブルに置いた器へとその長い腕を伸ばす。私も同じく腕を伸ばして、オレンジを摘もうとする、彼の指を、この手で押さえた。
「え、なに」
「ねぇレンド、さっきなに歌ってたの?」
「さっき? あぁ、」
 Nursery Rhymes.
 彼はまた、美しく発音する。
「ナーサリーライムズ?」
「そー。童謡みたいなもんだな」
 食べていい? と尋ねる彼にまだダメと答え切り捨てる。少し不満げな顔は無視、私はさらに、問いただす。
「その歌教えてよ」
「教えるって何を、」
「歌詞とか、発音とか」
「発音も何も。お前も英語しゃべれるだろ」
 憮然とした表情にこちらもやや不機嫌に返した。 だって、何か違うじゃない。
「あんたの言葉と、私の言葉は」
「そうかぁ? 一緒だと思うけど」
「ちーがーうーの! 何かこうレンドの英語は、もっと綺麗で、スマートで……」
 彼の声のせい、かもしれない。レンドは顔もそこそこいいし、スタイルだって悪くないけど、でも一番魅力的なのは、やっぱりその声だと思う。透き通っている。どこまでも。透明が折り重なって、遠く遠く、果てしない。 空。それは彼のイメージ。 声もまた同様で、それは突き抜けるように青い。涼やかに凛と響いてくる、心地いい、空の声。そのまま溶かしてくれそうな青。
「教えて、って言われてもねぇ……俺早く食べたいんだけど」
「教えてくれたら放してあげる」
「えっなにその無茶な要求」
「別に無茶なんかじゃないでしょ。何をもったいぶっちゃってるワケ?」
 挑発するように鼻で笑うと、レンドはむっとしたようだった。はぁっ、と大げさにため息をついて、__悪戯っぽく唇を歪めた。
「あーそう。そこまで言うんだったら、」
 I'll tell you,queen.
「え、」
 彼は私の手首を掴んで、手の平にキスをした。珍しい不意打ちに私が戸惑っている間に、彼は唇を押し付ける。ほのかな体温、湿り気、くすぐり。心拍が早まっていく。脳味噌はこんがらがる。
「レ、レンド、あのどういうつもりで、」
『教えろっつったのはお前だろ?』
「そう、だけど……だってこんな、さぁ、」
 レンドは私の戸惑いを無視して目を伏せる。仄かに温い、彼の皮膚。唇の温度はさらにほんのわずかだけ熱く、そこにばかり意識がいって、ほかの部分の神経は、まるで仕事をしてくれなかった。くすぐったい。むずがゆい。逃げてしまいたくなったけど彼の手からは抜け出せそうにない。温かさばかり、感じてしまう。細められた目、青みがかった黒、いつもと違う、いつもと違う。 何で、どきどきしているの。
 やがて彼の唇が動いた。

I like little pussy,
  僕は子猫が好きなんだ。
her coat is so warm,
  毛皮はとても暖かいし、
And if I don't hurt her she'll do me no harm;
  僕が意地悪しなければ、彼女も僕に逆らわない。
I'll not pull her tail, nor drive her away,
  僕だってしっぽをつかんだり 払いのけたりはしないもの、
But pussy and I very gently will play.
  僕らはいつも仲良くして、一緒に遊んでいるんだよ。

 直に伝わる唇の形。時々感じる舌先、滑らかさ。その細やかな動きの全てが、私の身を震わせる。柔らかな感触、くぐもった声は、いつもより甘く鼓膜を揺らした。芯が、疼く。彼の瞳が私を映した。からかうような、妖しい視線。 あんたこんなカオできたっけ。
「Do you understand?」
 やけに丁寧に彼は尋ねた。 あぁ、悔しい。馬鹿にして。
「__ぜーんぜん、分からない」
『せっかく歌ってやったってのに』
「教え方が悪いのよ」
 あえて日本語で言い返すと、彼は軽く肩をすくめて。憎たらしいヤツ、普段はこんなこと絶対しないくせにさぁ。いいよ、だったら、私だって。
「レンド、もっとちゃんと教えて」
『これ以上、どうしろっつーの』
「手の平じゃ分からないわよ」
 彼は目を丸くする。彼の手から逃れた右手で、私は私の唇を示した。 ほら、ねぇ、ここ。
「教えてよ」
 一瞬の静寂。彼はテーブルに膝をつき、向かいの私に覆い被さる。彼の左手は背もたれをついて右手が私の襟元を、ぐっと引き寄せて、強引に。私がそのまま瞼を閉じれば彼は私の喉元へ、軽く噛みついて、舌を這わせて、ざらついた赤は弧を描く、吐息が漏れる、彼の手が、私のうなじへ差し込まれ、撫でるような手つき、不意に、指は私の首筋を掴んだ。 彼は私を覗き込み、青を緩ませ、笑ってみせる。
「As you wished,queen.」
 そうして、私は空に呑まれた。

(お望み通りに、女王様。)
色っぽいレンドくんを書いてみたかったんだけど何かがおかしい。夜中の一発がきはダメね。
ちなみにナーサリー・ライムズってのは俗に言うマザーグースのことです。レンドが歌ったのは、「I like little Pussy(子猫が好き)」。

2011/06/26:ソヨゴ
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