わずかに金属音がする。音の発生源に目を向ければ、“彼”は至極真面目にノートを開いていた。さっき出た宿題もうやってんだ。クラスの優等生に感心しつつ、そこで気がつく。__そっか、義腕なんだっけ。
 どういう仕組みになっているのか、その金属製の右腕は彼の思う通りに動くらしい。さすがに字を書くとか紙を折るとかそういった細かい動作は左手じゃないと無理みたいだけど。そんな訳で、彼は右腕を失ってから左利きに矯正し直した。元々右利きだったんだから、相当な苦労だったろう。
 そして。当然、湧いてくる疑問。
「……なぁ、アクト。」
「ん?」
「いやその__」
 どうして君は腕を失くしたの。
 事故だと誰かが言っていた。でもどんな事故かは知らない。事件だと誰かが噂した。でも事件の全容は掴めない。つまるところ、誰も知らないんだ。どうして彼が義腕になったか。
 だけど。
「__やっぱ何でもない、忘れて。」
「どうしたんだよ、気になるじゃん。」
 面と向かって尋ねるのは憚られる事柄だ。聞けない、聞ける訳がない。それで彼が傷ついたら俺はどう責任を取れば……その時流れる沈黙は、想像に難くなかった。
「いや本当気にしないで、」
「だから気になるんだって。」
「……ごめん、悪かった。でも本当、大したことじゃないんだ。」
 謝るほどのことでもないけど。いぶかしげな口ぶりで、アクトは静かに目を逸らす。俺はいくらかほっとしてそのまま横を通り過ぎた。帰りの支度、してしまおう。


 一つ歩を進めるたびに、かしゃんかしゃんと妙な音。もう慣れ親しんだ音ではあるけど、狭い路地には大きく響いた。少し不安定になる。僕はロボット? いいや、人間。僕は人間? __どうだろう。
「……着いた。」
 立ち止まって空を仰ぐ。水色を邪魔するようにそびえ立つ、高い鉄塔。この廃工場に彼は住んでる。僕の、たった一人の親友。
 朽葉かがり。 僕が腕を失くした、“理由”。


 アクトと俺が出会ったのは小学校三年の頃。頭脳明晰で有名だった彼と絵しか能のない俺じゃ話が合う訳ないと思ったが、隣の席になった彼は俺をことの外気に入ったらしい俺の絵も、好いてくれていた。
「朽葉君の絵、すごく素敵だよ。」
「そ……そう、かな。」
「うん。何だか、惹き付けられる。」
 純粋な瞳でそんなことを言っては彼は俺の絵を覗き込んだ。深い眼差しで、見透かすように。それが少し怖かったけれど、俺と話してくれる人なんてアクトしかいなかったから。毎日話しているうちに、俺にとってアクトは唯一の友達になった。唯一の、大事な親友。 きっかけなんてそんなもんだろう。

 事件は中二の冬に起きる。

 俺とアクトは同じ中学に進学した。眼鏡だった俺がコンタクトになるのと同時に、彼は何故だか伊達眼鏡をかけた。似合うけど、何か変だよ。恐る恐る口に出してはみたが、そうかななんて人当たりのいい笑顔で返されるだけだった。上手くはぐらかされてるな、なんてことを思いつつ、俺達は中二へ進級した。
 アイツは相変わらず頭良くって、いつも学年で三本の指に入ってた。俺も相変わらず絵ばっかり描いてたが、細々と続けていたのが成果になり始めたのか、俺の絵は段々と評価されるようになっていった。いくつかコンクールに出して、その内のいくつかは賞も貰って。幾度かつけあがりそうになったが、その度俺は踏みとどまった。何だかんだ一番嬉しいのは、やっぱりアクトの言葉だったから。
「あ、また新しいの描いてるの?」
「おーアクト。そうそう、春のコンクールに出そうと思って。」
「そうなんだ。__うん、やっぱ素敵だよかがりの絵。」
「照れるって、」
「冗談とかじゃないよ? 本気で。僕は君の絵が好きなんだ。」
 君の絵は、人を惹き付ける。アクトはいつもそう言ってくれた。君の絵が好きだなぁ、僕は。俺が評価される前からずっと、俺が描くたびそう言ってくれた。アクトの言葉は知らない内に俺の心まで染み込んで、気付かぬ内に何度も俺を救ってくれた。アクトの言葉があったから、俺は絵を描く楽しさを見失わないで突き進めたし、驕ることもなくやってこれた。賞を貰おうが予選で落ちようが彼は平等にいい絵だと言った。賞を取ったからいい絵じゃなくて、取らなかったから悪い絵じゃなくて。それは俺の家族や先生は絶対してはくれないこと。絵の価値が分からないからと適当言ってる訳でもなく(実際画家や名画の話で盛り上がった夜が何度もあった)、お世辞やおべっかでもなかった。そんなヤツ、アクトしかいなかった。
 だけど。
 今でも思い出すだけで背筋が凍る。正直、俺は死ぬんだと思った。あぁ、これで終わりなんだなと。なぁ人生が終わるって、ここで命が尽きるって、実感したことなんてある? 俺はあるんだよ、あの日俺は実感したんだ。あの日俺は死の間近にいたんだ。死ぬってこんな、冷たいことなんだ。

 俺の家は工場をやってた。鉄鋼業。そりゃ裕福なんかじゃないけど、画材くらいならギリギリ買える、そんな家。俺はそこで慎ましくも幸せに暮らしてた。 その日までは。
 あれは事故だった。
 スローモーションのように克明に焼き付いている。落ちてくる鋭い鉄片。上を見上げる俺の目にちらちらと光を送って。天井から降ってくるその大きな刃はわずかに俺の頭を外れて、そのまま、__右腕を切り落とした。
 あまりの痛みに昏倒した俺はそこから先の記憶がない。ただ赤だけは覚えていた。仰向けに倒れた俺から少しだけ離れた位置に、切り落とされた俺の右腕。直前の形のまま、固まって、動かない。取り残されたようだった。右肩から血が流れ出し煤けた地面に広がっていく。ルージュを溶かしたようだった。映画のワンシーンのような。そうだったら、良かったのに。

 病院で目が覚めた俺は真っ暗闇の中にいた。無事で良かったと抱きつく声にまるで反応することができず、ただ暗闇だけ見つめていた。白い蛍光灯の光は俺の未来まで照らしてくれない。真っ暗だった。もう、絵が描けない。俺の右腕は動かない。もう二度と。永遠に。 絶望とはあの暗闇のことなんだろう。
「__かがり。」
 見舞いにきたアクトは、かける言葉が見つからなかったらしい。名を呼んだだけで口をつぐむと、花を生けて果物を剥いて、あとはずっと座り込んでいた。俺の頭を撫でながら、ずっと、ずっと、長い間。その手は小さく震えていた。あの時の俺にはそんなこと、気にかける余裕なかったんだけど。

 学校に久方ぶりに登校して、俺が真っ先に行ったのは、キャンバスを壊すことだった。
 春のコンクールに出そうと思って。そうアクトに答えた絵。もう、書けないのだから。この絵は永遠に完成しない。辛くなる前に壊してしまえ、そう思って、ぶちまけた。黒い黒い塗装用のペンキ。絶望と同じ色をした。
「あは……あははっ……はは……」
 自嘲するような笑いが漏れる。何だか無性になきたくなって、笑いながらぼろぼろ泣いた。もう描けない、もう二度と描けない、俺は明日から何をすればいい?俺には絵しかなかったのに。ほら真っ暗闇、どこへ行こう、どこへも、道なんて、何も見えないよ、俺はここに留まり続けて真っ暗闇で朽ちていく、__怖いよ。誰か助けてよ。アクト、アクト助けて、助けて……
 美術室で泣き崩れた俺を探しに来たのはアクトだった。アクトは俺を見て、ついでキャンバスを瞳に映して、悔しそうに表情を歪めた。駆け寄って俺に抱きついて、かがり、かがり、また名を呼ぶだけ。俺は彼に縋って泣いた。泣くくらいしか、することがなかった。

 今、冷静になって考えてみるに……俺はもしかしたら、とても残酷なことをしてしまったんじゃないだろうか。アクトは俺の絵を好いてくれていた。俺が描く絵を楽しみにしてくれていた。俺は彼が好きだと言った絵をめちゃくちゃに壊してしまった。俺自身の手で塗りつぶしてしまった。もし、もし俺が右腕を失くして、もう絵が描けなくなってしまって__もう俺の絵が観れないと彼が悲しんでいたんだとしたら。俺はアクトの心を傷付けてしまったんじゃないだろうか。たった一人の親友だ、真っ暗だなんて目の前で泣いて……それは彼の心を抉るには十分すぎる出来事だったんじゃないか。今そんなことを思っても、あまりに、遅すぎるのだけど。


「かがり、邪魔するよ。」
「ん、アクト。来るなら言ってくれればいいのに。」
 親友はそう言うと、儚げに笑って立ち上がった。着物の片腕、右の袖が、宙ぶらりんに揺れている。当たり前だ。そこは空洞。
「ほうじ茶でいい?」
「なんでもいいよ。」
 ジュース、ちょうど切れちゃっててさ。かがりは気さくに笑う。僕はその辺に腰掛けながら自らの義腕を見つめた。 切り落とした日のことを、僕はよく覚えている。

 独りぼっちにしたくなかった。ただそれだけのことだった。独りぼっちで暗闇に置き去りにされてしまった親友。彼を救い上げたかった。でもそんな力はなくて、だから、だからせめて、__せめて、二人ぼっちになろうと。
 自分の腕を切り落とすのはもちろん容易なことではなかった。けど、幸い母が薬剤師なのでそういった知識はあって、ネットから麻酔を入手するのもそんなに難しいことじゃなかった。あとは切り落とす刃物だけ。僕はお手製のギロチンを作って。
 麻酔を打って台をセットし、紐の端を握ったとき、僕はかつてないほどに心臓がうるさいのを感じた。脈拍が直接脳味噌を揺さぶるみたいで。僕は十二回深呼吸をし、それから、目を閉じて紐を引っ張った。何のよどみも引っかかりもなく、刃物は綺麗にすとんと落ちた。僕の右腕は、綺麗に切られた。
「何でこんなことしたんだよ!」
 僕がかがりを訪ねに行くと、かがりは大きく声を上げた。僕の肩を掴んで強く揺さぶって。 何で、どうしてこんなこと。何でこんなことしたんだよ。
「お揃いだよ、かがり。これで君は一人じゃない。」
 僕は微笑んでそう答えた。かがりは一粒涙を零すと、俯いて口を閉ざして。分かってしまったのかもしれない。僕がかがりの思いは承知で、それでも腕を切り落としたって。もしくは恐れられたのかもしれない。 狂ってるって。

「アクト、お茶。」
「ん、ありがとう。」
 受け取って笑顔を見せる。かがりは僕の隣に腰掛けて、左手で茶を飲んだ。
「急にどうしたの。何か用事?」
「いや、別に。ちょっと会いたくなっただけ。」
 学校で。クラスメイトのあの子は、僕の右腕を見つめていた。そのせいか、何だか疼いて。ないはずの右腕が。僕は自分で食べちゃったのに。味は仲々の美味だった。ランチなら許せる感じ。
「そっか。俺もちょっと会いたかったんだ。」
「本当?すごいね、テレパシーじゃん。」
「テレパシーって言うのか?これ……まぁそうかもな、親友だから。」
 湯のみは温かい。もちろん感じるのは左手。僕の右腕は金属だから。生身の腕は、食べちゃった。
「……手、繋げなくなっちゃったね。」
 ぼそり、呟く。 これは僕の誤算だった。同じ腕を切り落としちゃったら、隣には立てないのに、手を繋ぐこともできないのに。うかつだった。僕の失敗。
「__そうだな。」
 でも。
 彼は意味深に言葉を切る。でも、何? 尋ねると、彼は冗談めかして答えた。でもさ、アクト。



「ダンスなら踊れるよ。」

Shall we dance?


親友のかがりくん。

2011/03/26:ソヨゴ
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