「響兄」
 名を呼ぶ声に振り返る。俺をこう呼ぶ人間は、俺の知る限り一人しかいない。
「音瀬。どーした、何か用?」
「用って程のもんじゃないけど、今日仕事入ってる?」
「いや?」
「そ。じゃー響兄今日は早く帰ってきなよ。音羽がご飯作るってさ。」
 おぉ、と思わず声がもれる。給仕さんが作ってくれる料理ももちろん美味いんだけど、家族が作ってくれる料理って、やっぱ特別だ。幸福感で満ちている。特に音羽は料理が上手い。軽く想像したら、もう腹が減ってきた。
「おーマジか! だったら俺ダッシュで帰るわ」
「三秒で力つきるんじゃない?」
「兄の体力バカにしすぎ」
 そんなもんでしょ、響兄の体力なんざ。小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、かわいくない妹は素っ気なく教室を去った。小さくため息をつき、教科書をカバンにつめなおす。 じゃあ今日は出来そうにないな。
 犯人、探そうと思ってたのに。

Hello,hello.

「やぁ響真、これから部活?」
「おーアクト! いやーこのまま直帰ですねー」
 廊下でばったり鉢合わせたのは、同じクラスの鴫原だった。
「アクトは部活?」
「ううん、僕も直帰。たるいじゃん部活とか。」
 アクトは退屈そうに窓の外を見やった。くい、と軽く眼鏡をあげる。レンズが外の景色を映した。
 廊下はオレンジ色で染め上げられている。マーマレードの瓶のように、床に近付くにつれて濃く、強く。深い緑の掲示板。薄茶色の古ぼけた校舎。あつらえたかのような景色。
「一人で帰んの?」
「おう。音瀬のヤツ、もう帰っちまったっぽいし。」
「音瀬? あぁ妹さんか、あの飛び級の。」
 アクトの言葉に頷きを返す。音瀬の頭は出来がいい。年齢的には中三なのに学年は俺と同じで、高二だ。
「出来のいい妹って厄介だぜ?」
「かもね、見下されそう。」
「そーなんだよ! 本当かわいくなくてさ……その点お前は頭いーもんな、羨ましーぜ優等生!」
 ばしっと大きく背中を叩けば、背の高くない同級生は、少し嫌そうに顔をしかめた。 やめてよね。
「僕は頭はよくないよ。頭なんてよくなくても優等生にはなれるんだし。」
「そこは否定しねーんだ?」
「あんまり謙遜してもあれでしょ。」
 にま、と笑うと、鴫原は一歩身を引いた。バイバイと小さく手を振る。 そろそろ、僕は帰るよ。
「おう、じゃあなーアクト。」
 帰る方向が同じなのは知ってた。特に仲良くもないとはいえ一緒に帰っても不自然はない。それでも別々に帰ろうとしたのは、無意識のうちに気付いていたからかもしれない。俺らは互いに一人が好きだ。 俺らは互いに、“人気者”だから。


 あ、ヤバイ。
 疼きを感じて立ち止まる。ポケットから左手を抜き出せば、ほんのわずか震えていた。自分にしか把握できない微かな震え。知っている、震えはじき止まる。代わりに疼きが肥大して堪え難いまでに苦しめる。そうなる前に、発散しないと、
「__しゃーねぇな、殺ってこようか。」
 ポケットから果物ナイフを取り出す。 さて、今日はどなたにしようか。


 刺したナイフをつっかえにしてずるずると死体を引きずる。血は残さない、額ぶっ刺しただけ。血なんて垂らさない、証が残る。
 二日前に作った死体はまだ見つかってもいない。様子見がてら同じ場所に捨てよう。死体で遊ぶ醜い犯人の、手がかりに、なるかもしれない。
 静かに廃校の門をくぐった。錆びた黒色の重厚な門はところどころ塗装が剥がれて、蝕まれた体内を晒している。グラウンドは灰色で、時々有害そうな砂埃が舞った。今にも崩れそうなコンクリート。欠けて鉄骨を見せつける壁。ひび割れて、廃れた空間。終わっていくだけの存在。この救いのなさが心地よくて、俺はついつい入り浸ってしまう。安堵する、終演の匂いのする場所。
 廃墟。
 死体を引きずり三階を目指す。随所随所から、かつて小学校であったというこの場所の名残が垣間見えた。けれどもそんな見知らぬノスタルジアに浸ってるほど暇じゃない、俺は足を止めずに理科実験室に向かう。
「__ん?」
 足を止める。音がする。ひどく異質な……血なまぐさい音が。
 血の香り、好きじゃない、気味が悪い、すごく嫌いだ。 この音はなんだ? 聞き苦しい。
「何、__なんてなぁ。」
 大ウソ、俺は分かってる。 この音を聞いた瞬間に俺にはもう分かりきってた。
 ずるり、ずるり、歩き出す。音の元凶へ。 第二理科実験室へ。
 もう少し、あと少し、戸が見えた、開いている、音がする、匂いがする、近付いた、ほら、……踏み込んだ。

 彼は死体を喰らっていた。

 実験台の上に死体を座らせ、抱きつくようにかぶりついてる。首元に歯が食い込んで、鼓動のないその身体から静かに血が流れ出た。くちくちくちくち、皮膚が噛み切られ、千切られ、口に入れられ、咀嚼される。実に気持ち良さそうに、何度も何度も噛み締められて。
 その死体は紛れもない、俺が二日前に殺した少女。二つ結びの金髪が自身の血に塗れている。制服は肩の辺りまで脱がされていた。歪に齧り取られた身体。 美しくない。
 彼はようやく俺に気付いた。肉を飲み込み死体を手放す。その上に乗ったまま、彼は思い切り口元を拭った。いつもと違ってレンズ越しでないその瞳が、悪意たっぷりの色味で緩む。
「ハロー、人殺し。 覗き見趣味でもあるのかい?」
「悪いね、人喰い。 最中だとは知らなかったよ。」
 笑みを歪めつつそう返せば、優等生は愉快げに笑った。

「君だったんだね、紫雪響真。」
人殺しの響真くん。

2011/01/28:ソヨゴ
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