Misery


 現実味のない足取りで、青年は病棟を歩く。青に灰が混じったような気分の重くなる壁は、嫌に高くそびえていて、ある種の絶望を匂わせる。まどは天井近くに小さく長方形のものがあるだけ。横に伸びたその細い窓には鉄格子が嵌められている。青年はゆらり、りゅらぁと、浮き上がるような歩みを続けた。外の光が窓を通って、向かいの壁に鉄格子を映す。
 青年はパジャマを着ていた。アイスブルーの無地、何の変哲もない、ありふれた。彼が両腕をひしと固めて大事そうに抱いているのは、青い狼のぬいぐるみ。片目、片腕、片足、片耳。どれも?げかけている。目は缶バッチほどの大きさのボタン、例えるならば血液のような、まといつくような、紅蓮の赤。__そう、彼の瞳のような。
「ミザリー、」
 青年は立ち止まり、ぬいぐるみをぎゅうと抱きしめた。青年の顔は俯いていて、何だか……腕の中のぬいぐるみに、話しかけてでもいるような。
「きょうは会いにきてくれるんでしょ?」
 青年の顔はよく見えない。照らされていないからだ。真白な光が照らしているのは首筋と、それから口元。彼の首筋はひどく細い。うなじにかかる髪先は黒でもなく茶でもなく、__銀のような白髪で。毛先がぴょんと跳ねた髪型はともすると娘のようだ。血色の悪い唇が嬉しそうに緩む。青年は、楽しげに続ける。
「ミザリー、ぼくは君が好きだよ」
 窓がびりびりと鳴り始めた。外で風が吹いている、どこからか水滴の、ポツ、ポツ、落ちる音がする、ガラスが割れる音が響いて、階下で騒ぎ声がする、悲鳴と、怒声と、狂人の喚き。……それら全てが収まった瞬間、彼はもう一度口を開いた。
「君はぼくのものだよね?__」


「響真」
 柔らかい声に目を覚ます。冷たいものに頭を叩かれ、俺は仕方なく上体を起こした。生身の温度ではない、……金属製の、義腕の手。
「終礼中ずっと寝てたね。もう皆帰っちゃったよ」
「……うるさいよ“人喰い”」
 嫌悪を込めて呟けば、彼もまたわずかに顔をしかめた。クラスメイトの誰が彼のこんな表情を知っているだろうか……今の俺の表情だって、人のことは言えないだろうが。苛立ちを含んだ瞳はやがて嘲りに染められる。悪意の塊のような声音で、彼は俺のことを嗤った。
「こんなに寝ちゃって大丈夫なの? 今日は×さないのかい、“人殺し”」
「……余計なお世話」
 取り繕う必要もない。人喰いと、人殺し。俺らは同じ穴の狢だ。偽る必要なんてない。剽軽者の俺なんざ演じなくても構わない、同族嫌悪であるからこそ俺は彼を良く知っていて、彼もそれは同様に、いや、「分かっている」が妥当か、どちらにせよ俺達は、近いがゆえに忌み嫌う。__これは皮肉なことなんだろうか。
「最低の目覚めをありがとう」
「どういたしまして殺人鬼。じゃあね響真、また明日」
 最後まで皮肉たっぷりに、優等生は教室を出る。その後ろ姿を見届けてから、一言だけ。俺は厭味を投げ返した。
「__食人鬼に言われたくないね」

 ぼくは君が好きだよミザリー。君が居なくなってしまったらぼくはいったいどうするんだろう? ぼくがぼくはぼくでぼくだけどぼくはどうなっちゃうのかな、君はどうなるかな、君が君は君で君だけど君はいったいどうなっちゃうかな、ぼくらおたがいにどうなっちゃうかな。
 君はいつでもぼくの傍にいるね、いるけど会いにきてくれない。さびしいよミザリー、ぼくは君をぎゅってしすぎて君は壊れかけてしまったよ、はやく君がきてくれないと君が壊れちゃう君が君が、どうしよう、君が壊れたらぼくもさ、せんせいはぼくのこと壊れてるっていうけれどぼくは君にくらべればずっとまともだとおもわない? ねぇそうでしょぼくはまともだよ君にくらべれ、ばずっと、ずっ、と、なんで君は外にいるのにぼくはココにいるのかなぁ君の方がずっとおかしいよずっとずっとずっとずっとでもいいよ、ぼくはいいよ、ねぇミザリー会いにきてよ、ぼくが引きずり落としてあげるよ、君はぼくとずーっと一緒、昔みたいに、ね、また二人きりになっちゃおうよ。
 君はぼくのものだよね? 響真。

 あなたも律儀ね。顔なじみの受付は呆れたようにそう言った。俺はそれには答えず、無言のままに名前と時刻とを記す。 面会者、紫雪響真。時刻、17:45。
 患者名、榊永一。
「013号室ですよね」
「え? あぁそうよ、変わってないわ」
「ありがとうございます」
 まだ特別病棟のままかと、答えを聞きつつぼんやり考える。013号室、0号館の13号室。整数でありながら自然数でないその数字は、簡潔に“異常”を示す。そこはとびっきりの気狂いのいる場所。 俺の、親友の。
 下を向きつつ歩を進める。真新しい病棟はかつての同じに甥がしていた。……クリーム色の床、壁、ねじの砕けた人々が歩き、どこかで罵声、どこかで悲鳴、医師も看護士も間抜け面。温かな蛍光灯は狂人達の笑顔を照らす。
 俺が過ごした一年間は何よりも壊れていたけど、結局何よりも居心地が良かった。非常口の緑のランプが廊下を陰気に塗り替えて、病室は気味の悪いほど白く、点滴と、血液が、俺らを縛り付けていた。その頃に比べればいくらか優しく偽られているようだが、根っこは何も変わっちゃいない。完璧なまでに廃れた世界。ここは、俺と永一が、共に歪んでいった場所。
 表の病棟を出て奥の方へすすめば、建て替えられた他の病棟とは明らかに違う建物が、__打ちっぱなしのコンクリートには一面蔦が絡み付いている__重苦しくそびえ立っていた。晴れた空さえ灰色に汚して、雨の日のような湿り気で辺り一面を包み込んでいる。俺は誰もいない出入り口へ歩み寄った。壁に付けられた錆びたプレート、__『0号館』。
 君はどこに居るのだろうか。


 僕が訪ねた時、彼はキャンバスを用意していた。アクト、と呼びかけてきた彼はその瞬間にバランスを崩し、僕は慌てて彼に駆け寄る。大丈夫? そう声をかけると、かがりは人の良い笑顔を浮かべた。 大丈夫、なんてことはないさ。
「か、かがり。絵を描くのかい?」
 恐る恐る尋ねたつもりだったが、嬉しさが滲み出ていたかもしれない。また彼の絵が見れるのだろうか、その家庭を考えるだけで僕の胸は高鳴って、……僕はかがりの絵が好きだった、かがりが絵を描いているところも、絵を描いているときの彼が一番輝いて見えたから。 僕は、かがりに憧れていた。  凡庸で異常な僕は、特別で正常な彼に憧憬を抱いている。人喰い、食人鬼。彼奴が僕をそう呼ぶたびに僕は思い知らされる。異常で歪んだ彼と、同じ。 僕らは同じ穴の狢だ。
「……うん。久々に、何か描いてみようかと思って」
 昔のようにはいかないけれど。 彼は、少し寂しげだった。胸がぎゅっと締め上げられる、荒縄の感触がした。僕が失ったのは所詮「右腕」という物質一つ。かがりがあの時失ったのは物質一つなんかじゃない、もっと尊くて、意味のあるもの。彼の全てだったのに、……あの事故は、奪ってしまった。
「昔のようにじゃなくてもいいよ。新しく、始めてしまえば」
「俺もそう思ったんだ。いつまでもこんな廃墟で__ここと一緒に朽ちてしまっては、宿命のようで気味が悪いだろ」
 そんな宿命に、囚われるなんて願い下げだよ。
「……どんな絵を描くつもりでいるの?」
「あ、そのことなんだけど……アクト、君を描かせてもらえないかな」
「僕?」
 僕なんか描いてどうするのだろう。頭に浮かんだ疑問符をそのままに投げかけてみれば、困ったように照れ笑い。 どうするって、訳でもないけど。
「ただ、描きたくなっただけ。__だめ?」
「いや、構わないけど……」
「そう? それじゃ、そこらに立ってくれ」
 軽く頷いて、キャンバスの前に立つ。鉛筆を握った彼の瞳は暗く沈んでいて、__僕には。
 どこか、後ろめたそうに思えた。


 何が起きたのか分からなかった。
 背面に衝撃。床に叩き付けられた俺は刃の鋭さに悲鳴を上げる。切り裂かれる感触。愛用のナイフはしっかりと“彼”の手に握られて、俺の左手首の下を、深々と突き刺している。病棟の柔らかな床はナイフの先端を飲み込んで、からかうように笑っていた。
「ミザリー、きてくれたんだね」
 永一は顔面に花を咲かせた。羽根を思わせるほどにたおやかなその笑みとは裏腹に、ナイフを握る左手は力がこもって震えている。自らの血液が髪を濡らすのを感じながら、俺もまた、笑みを浮かべた。 久しぶり。
「元気そうで安心したよ」
「響真ぁぼくまってたよ、まってたまってた、うれしい、響真きてくれてうれしい」
「そう……よかった。俺は永一が嬉しくなるなら、どんなことだってしてあげる」
「ほんと? じゃあ一緒にシんじゃおう?」
「構わないよ」
 俺が微笑んで答えれば、彼はナイフを引き抜いて俺の喉元に突き当てた。俺は目を閉じ、軽く仰け反る。ナイフの先が少し肌に埋まる。つぅと赤が流れ出し、あぁ本当に、このまま、彼に、その手で殺してもらえたならと、叶わぬ未来を夢想して、それが叶わないことを、俺はすっかり知っている。
 左手首の傷からはどくどくと何か湧き出ている。それは白いYシャツを染めて、袖口どころか肘の辺りまでシャツを纏わりつかせていた。錆び付いた、匂いがする。何故か心休まる香りが。
「……永一」
「どうしたの?」
「このまま、殺してくれるのか」
「コロす?」
 純真無垢な瞳を見せて、永一は首を傾けた。彼の濁りのない瞳は深海の影で満たされていて、そのままじっと見つめていれば、溺れ死んで、しまいそう。
「コロす? コロしてなんてあげない、響真はシんじゃダメだもん。」
 すっとナイフが退いていく。光る切っ先は振り上げられて、今度は右肩、鎖骨の下を、深々と切り裂いた。首筋を電流が走る。すぐに血液が溢れて、赤々と、黒々と、視界が歪み、ピントがぼやけ、あぁどうやら血が足りない、こうして眠りに落ちたならずっと目を覚まさずにいられるだろうか、永一、君は許してくれるか、俺を、僕を、__死なせてくれるか。
「シなせてなんてあげないよ響真。そんなの許してあげないよ、そんなの望んであげないから、君は一生ぼくに縛られて一緒に一緒でずーっと一緒、ねぇ、ぼくは君のこと、ぜったい赦してあげないよ」
 やはり君はそう言うんだね。でもね永一、分かってるだろ? もうとっくに狂いきっていてそれでも君は知っているだろ? 僕らは、終わらせてしまいたいんだ。君だってそうだろう、ちゃんと分かっているんだろう。けれどそれは叶わない。だって僕には、僕には、僕には、____

「ねぇ響真、早く殺せよ」

 それだけは、できないのだから。
死ぬなら貴方が先でしょう?

2011/06/24:ソヨゴ
inserted by FC2 system