兄様の話をさせてください。

A Monologue.


 紫雪響真。紫雪家第二十五代当主。私の、たった一人の兄です。最も兄と言いましても、戸籍的血族的に言えば彼は兄ではありません。正確に言うと彼は従兄弟です。とはいえそれはもう幼い頃から共に育って参りました。兄妹、と申しましても語弊はないかと思われます。彼は私の、たった一人の、大事な大事な兄様です。
 先程「幼い頃から」と申し上げました。というのも兄様と私、それと姉の紫雪音瀬は、別々の屋敷に住んでおりましたから。3歳になるまでは会ったことすらなかったのです。私たちの家はとても広く、敷地内にはお屋敷が二つ三つ建てられております。本家の屋敷と分家の屋敷、私達はそれぞれに分かれ て暮らしておりました。長男であり跡継ぎである兄様は無論本家の屋敷、私達女姉妹は小間使いとともに分家の屋敷。それゆえ私は親代わりである大奥様と旦那様のことを、よく覚えておりません。正直な話お顔すら。養子である私はまだしも実娘である音瀬姉様もお二人には滅多に会えず、彼女がまだ幼い頃などは、よく慰めていたものでした。私は養子の身の上ですから欲張ることはできませんでしたが、音瀬姉様には少なからず、兄上様への嫉妬の念があったようでございました。仕様もないと思います。何も知らない幼い子供が、兄に両親を“独り占めされた”、そう憎らしく思うのは、むしろ当然のことでありましょう。
 朧げな、微かな微かな、幼少の頃の記憶を辿ると、浮かんでくるのは兄様の酷く寂しげな笑顔です。恐らく今の兄様からは想像もつかないような、__兄様は、とても儚げな方でした。ごく稀にお会いできる時などは、いつも哀しげに微笑んで私に話しかけてくださった。今の明るく朗らかな兄様の様子を見ていると仲々気付けないのですが、兄様はとても麗しい、お綺麗な顔をしてらっしゃいます。今でも時々あの頃のように、儚げに佇んでいらっしゃることがあり、私はそれを目にするたびに総毛立つような心地がします。怖いのです。そのまま霧が晴れるかのごとく消え去ってしまうような気がして。思わずその身に抱きついて、どこへも行かないでくださいと、そう叫びたくなるような。もちろんそのようなはしたいないこといたすことはありませんが。それにもし抱きついたとて、それこそまるで霞のように消え去ってしまう気がして。錯覚とは分かっていてもやはり怖くてできません。いえ、もしかすると私は心のどこかで、それが真実であるのだと信じ込んでるのではなかろうか。確かにそこにいるのだと、それを確かめようとしてしまえば、幻想のように夢幻の中へ戻っていってしまわれるのでしょう。だから愚かな真似はいたしません。兄様が虚像であるなら触れようとしてはいけないのです。時々ふっと、霞の中から、手を伸ばしてくださるのだから。私はその手を待っていればよい。触れていただくのを、待てばよい。
 話が逸れてしまいましたね、脱線ついでに、大奥様と旦那様のお話もさせていただきます。お二人ともすでに亡くなってらっしゃって、しかもお二人が亡くなったのは兄様が十の時、つまりは私達が七歳の時の話で、私達二人には益々思い出とやらがございません。お二人の葬儀はひっそりと行われました。私も、姉様も、ただただ呆然としてしまって、喪失感を味わう間もなくお別れをしてしまいました、その時の兄様のお顔は、忘れようにも忘れられません。
 もとより幼い頃の兄様は、得体の知れぬ暗いものに纏わりつかれておりました。影と言いましょうか、陰と言いましょうか、どう形容すればよいのか私には分かりませんが。けれど、あの日の兄様は、__あの日の兄様はまるで、夜闇のようでございました。冬の夜闇です。いつもの儚げな、哀しげな雰囲気はどこへ行ってしまったのやら。黒々と陰の濃い、恐ろしいような空気を纏って、兄様は立っておられました。あの勝ち気な姉様が口を閉ざしてしまったほど、兄様のお顔には何の気配もございませんでした。瞳はどこを映しているやら、表情はなく、何も発さず、かといって何も考えてないでもないようで、私は背筋がぞっとしました。何かある。何か、何か恐ろしい想いが兄様の中に渦巻いている。けれど、分からない。分からない。兄様が纏っている陰、煙のようでありながら墨のような黒さを持って、絡めとるような重さも感じる独特の暗い影。一度捕われてしまったら二度と抜け出すことは叶わず、足を取られてずぶずぶと覆われていってしまう。そんな気がいたしました。捕われて、囚われる。恐ろしくなりました。あの陰に捕われたらと考えるだけで身の毛がよだちます。では、影そのものである兄様は、どうなってしまわれたのか。
 屋敷に広がる噂によれば、兄様は大奥様に虐げられていたのだそうです。信じたくはないことですが、言われてみれば、思い起こせば、__幼い頃の哀しげな陰、あの日の暗く重苦しい影__それは真なのではないかと疑いたくなってしまいます。噂は、噂でしかありません。しかしながら兄様に何か、普通に幸せに暮らしていたなら起こりえない惨劇が振りかかったのは確かでしょう。兄様は葬儀のすぐあと、一年間ほど入院なさいました。肺炎が原因だ、そう私達は伝えられましたが、それも真であったか否か。兄様が壊してしまったのは、肺でもなく他の箇所でもなく、……心であったのではないか。私はこっそり勘ぐっております。無論姉様にそのようなこと申し上げるつもりはございません。「賢い人間」というものは往々にして裏のあるものですが、姉様は違います。姉様はとても純なお方です。人を疑うことを知りません。少々斜に構えてらっしゃる節もあるにはありますが、それも所詮ポオズでしかなく、彼女はとても純真なのです。兄様は、隠すお人です。姉様がそれに気付かないならばきっとその方が正しいし、幸せだ。私はそう思っているのです。


 音羽はよく分からないヤツだ。幼い頃から共に過ごして、性格もよく知っているつもりだが、それでもやはり掴めない。沈黙は金、とでも言おうか、俺は寡黙な妹の考えがよく分からない。何を思っているのだろう、何を察しているのだろう。俺にはよく分からない。あいつは何を知っているのか。全て見透かされているのだろうか。それとも何も知らないのだろうか。音瀬とはまるで違う、やはり血の繋がりは薄い、分からない、掴めない。秘密など全て知っている上で俺に微笑んでいるのだろうか。慕われているのは分かる、しかし、……分からない。音羽はひどく遠くにいる。彼女は俺の、何を見透かしているのだろう。
 俺は人殺しだ。そのことに関して、俺自身は何も感じちゃいない。どうでもいいことじゃないか。男だ、女だ、理系だ、文系だ、そのような分類と、何が違うと言うのだろう。俺は男で、A型で、十七歳で、人殺しだ。それだけだ。その程度のこと。何を感じろと言うのだろうか。鴫原だって同じことだろう。あいつも男で、B型で、十七歳で、人喰いだ。相容れないのは確かだが、嫌悪ほど強い感情はない。醜い、とそれだけは思う。汚いものは好きじゃない。だから人も、あまり好かない。
 俺にとって重要なのはただ一人の存在で、それ以外のものは全ていつ消え去っても構わない。勿論、俺も。いついなくなったっていい。むしろ俺は死んでしまいたい。この世のどこが美しいのか。なら何故生き存えている?問われても、何故そんな馬鹿げたことをと思うより他ないのだが。永一の為に決まっている。彼以外の存在には何の価値も有りはしないが、あいつは、__生きている価値があるのはこの広い世であいつだけ。彼は生きていなくてはならない。けれど皮肉に、残念なことに、彼は俺なしで生きられない。何という侮辱だろう。だからこの世が嫌いなんだ、何故、なんで、俺が、俺のような醜い生き物が何故崇高な彼に必要なのか。俺が居なければ生きられないなど、皮肉でしかないだろう。俺は直ちにこの世から消え去るべき人間なのに。他の者どもも同様だ。生きていいのは永一だけだ、けれどそれは叶わない。俺が死んでしまったら永一は、後を追ってしまうのだろう。彼は壊れてしまったのだから。確かな依存がここに在る。どうしようもない現実が。
 彼が壊れてしまったのだって、元はといえば俺の所為であって、余計に俺は死ぬ訳にはいかない。何故俺だったのだろう。せめてもう少しまともで、頭のしっかりした、死にたいだなんて思わないようなそういう人に依ってくれれば。仮定の話をしたところで意味はないとは分かっている。分かっているが、それでも。それでも。
 この世は永一が生きるには、汚らしすぎたのだろう。俺ですら見捨てたい世界で、永一が生きていける訳がない。けれど生まれ落ちてしまった。命を絶つというのは即ち存在を絶つということで、それは、それだけは認められない、永一が消えてしまうのはどうしても認められない。そうでないなら死んだっていいんだ。彼が望むなら心中したって、だがそうはいかない、死んでしまったら、榊永一という存在はどこにもいなくなってしまう。そんなこと認めてたまるか。世界そのものよりずっと美しい彼がどうして世界に消されてしまうのか。だからせめて、俺は護らねば。この醜い世界から、彼を遠ざけてあげなくては。俺しか居ないというのなら、俺のような醜い手なら、これ以上穢れたところで何が変わるというのだろう。触れなくてもいい、そこにいるだけで、俺と関わらなくてもいい、それでも触れたいというのなら触れてくれて構わない。触れられる資格がないなど、俺が勝手に思っているだけ。彼が触れたいと願うなら俺には何も言うことはない。永一、君の好きにしていい。
 もし、もし身勝手なことを願ってもいいのなら、俺は永一に殺されたい。そんな酷なこと頼めやしないが、言うだけだったらタダだろう。これ以上醜い姿でこの世に居るのはいたたまれない。消えてしまえたらどれほど安らかか。願わくば、最期くらいは、誰よりも清らかなその手で終わらせてほしいと思う。叶わない願いだからこそこんな簡単に口にできる。俺は永一の命が尽きるその時まで、傍にいる。どうか殺してくださいなんて、どの口で言えというのだろう。だから、構わない。こんな阿呆らしいささやかな願いは、胸の内に仕舞っておこう。誰よりも大切な、彼の手を汚すわけにはいかない。信じている。そして、依っている。俺もきっと依存している。別にいいだろう? どうせ彼が居なかったなら、消えていた命なのだから。

 断じてこれは愛ではない。俺が何らかの愛を抱いているとしたなら、それは、__×に向けてだけ。
紫雪兄妹の独白。ちょっと太宰風に。

2011/04/15:ソヨゴ
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