這われる感覚で目が覚めた。いつの間に落ちていたのか、外はすっかり日暮れである。麻の浴衣は寝汗を吸って少し重たくなっていた。夏の眠りから覚めた時の、あの独特の倦怠感が、瞳と思考を曇らせる。それが徐々に晴れていった後、俺はようやく「それ」を捉えた。
 毒蜘蛛。
 手の平ほどの大きさの「それ」は胸の辺りに鎮座していた。視界の端、八本の脚。身を起こしてまで眺めようとも、振り払おうとも、思わない。俺は再び天井を見つめる。
「なぁ、毒蜘蛛。俺の肌など這って楽しいか」
 口をついたのは問いかけであった。無論、毒蜘蛛は答えない。俺は瞼を閉じて、それから、その姿を思い浮かべる。短く硬い毛に覆われた体躯。案外つぶらな蘇芳の瞳。薄茶の毛の生えた太い脚。 黒い牙。
 かち、かち。牙が鳴る。合わせて俺の瞼の裏に結ばれた像も牙を鳴らした。鋭く尖った黒い牙、そこには毒があるだろう。蜘蛛が、また肌を這った。俺は自分でも分からないほどに小さく、小さく反応する。生きているモノの生温さが俺の肌を撫でていった。毒蜘蛛は俺の肌を蹂躙するように駆けていき、首筋の辺りで止まる。吐息が、漏れる。皮膚の薄い首筋は八本の脚を敏感に捉える。毒蜘蛛の息にすら、感じてしまいそうだった。気味の悪い快楽、__しかし。
 汚されているのは俺ではない。
「毒蜘蛛。俺の肌など、這うもんじゃないよ」
 無垢な毒蜘蛛、君は知らないのだ。俺がどれだけ汚れているのか。このまま肌を這い続ければ汚されるのは君の方。俺を犯したとて同じこと。 毒されるのは、君の方。
「だから、なぁ、こんな輩は……刺し殺してしまいなさい」
 その毒牙で皮膚を破って。血液にほら、注ぎ込んで。君の毒はどんな味がする? 甘いか、それとも苦いだろうか。石榴のような酸味であろうか。色はどうだ、濁っているか? それとも清く透き通っているか。緑か青か、はたまた白か。ガラスのように透明か。どうであれ美しいに違いない。 俺ごときに、比べれば。
 毒蜘蛛はやはり答えない。代わりにまた脚を動かし、首筋から、胸、腹、内股、足の甲へと、ゆっくりと。ぞわぞわとした感触が俺を内側から犯す。蜘蛛は足先へ辿り着いた、あぁ、……言っておいたのに。
 蜘蛛は俺の足先から、ころりと床へ転げ落ちた。彼は仰向けに転がって、そのままぴくりともしない。俺は深く短く嘆息した。そうして蜘蛛の亡骸を、いつまでも、いつまでも、翳った瞳で見つめていた。

Summer

 向日葵を見ると思い出すことがある。他愛ない夏の思いでだ。幼少の頃、僕は毎年夏になると祖父母の家に預けられていた。祖父母の家は、天ノ宮よりもさらに田舎にある。家の周りにはそこら中、向日葵が咲いていた。広すぎるほど広い庭には畑と、牛舎、それから鶏小屋があって、食べ物は全てまかなえていた。 何とも退屈な場所である。
 でも。じゃあ幼少期の夏は退屈だったのかと問われれば、そうではないと僕は答える。僕の夏はそれなりに有意義なものであったから。家は、つまらない。祖父母もつまらない。僕だってつまらない奴だ。けれど夏、あの家にいたのは、その三人だけではなかった。
 鴫原葵。
 僕の従姉妹に当たる人物で、僕とは八歳差であった。僕の「他愛ない夏の思い出」は僕が七歳の時の話で、つまり葵姉さんが、十五歳だった頃の出来事だ。顔はよく思い出せないけれど、かなりの美人だった気がする。
「アクト、」
 当時、僕は葵姉さんにすこぶるかわいがられていた。葵姉さんにしてみれば。僕はいい玩具だったようだ。何も知らない哀れな子供。からかうにも、教育するにも、僕はうってつけの弟。
「おいで。絵本読んだげる」
「うん!」
 一歩、僕は葵姉さんに憧れを抱いていた。葵姉さんはその当時、僕にとっては一番身近な「大人の女性」であったから。彼女に対する思いには甘酢っぱいものが混じっていて、今思えばあの感情は、僕の初恋であったかもしれない。
 葵姉さんはよく、デニムのショートパンツを履いていた。そうして畳にあぐらをかいて、素足に僕を乗せるのだ。あまり日の当たらない、暗くてひんやりとした和室で、いつも絵本は開かれた。彼女が読み聴かせる物語は例外なく凄惨であった。それは日本の物語だったり異国の物語だったりしたが、挿絵は常におどろおどろしく、黒ずんだ赤が多用されていた。幾人も人が死んでいった。残虐な方法で、彼ら、彼女らは殺される。鍋の具にされ、首を斬られ、埋められ、捨てられ、吊るされて、開かれた臓腑の一つ一つが丹念に描かれる、__僕は人体の構造を隙間なく覚えている。その情景は絵本の挿絵と、彼女の湿った声音によって、僕の脳味噌に刻まれた。
「ねぇアクト、鉄の味は好き?」
「え?」
 ある日のこと。彼女は僕にそんなことを尋ねた。唐突な質問に幼い僕は動揺し、実につまらない答えを返して。
「……分かんない。食べたことないから」
「血の味も、知らない?」
「うん」
 そう。 彼女は翳りある微笑みで、人差し指をがりりと噛んだ。僕はまたどきりとする。彼女は血がぽたり、ぽたりと、垂れ落ちる指先を、黙って僕に差し出した。相変わらず薄暗い部屋でその赤は陰気に輝いて、畳に落ちた数滴は、僕に死を連想させる。彼女は目を逸らさない。
「じゃあ舐めてご覧、アクト」
 きっと美味しいよ。 彼女の声は遠くで響いた。その時僕の鼓膜を揺らしたのは喧しい蝉の鳴き声と、風鈴と、向日葵のざわめき、それから僕らの息遣い。僕はじっと指先を見つめた。これは「いけないこと」だと、思った。だけれど僕は強烈に彼女の血液に魅せられていた。赤、暗い赤、赤赤赤。官能的な血液の赤。僕は彼女の思惑通りにその指先へ吸い付いた。 舌にふわりと広がった味を、僕は今でも覚えている。
 あまり形容したくはない。あの味は、あの陶酔は、僕だけの思いでだ。濃密な血液の香り、生命そのものの輝き、ぬらぬらと、妖しく光る果実の潤い。僕だけのものだ。僕だけの。 十五歳の乙女の、血の味。
「__美味しい?」
 くすっ、と彼女は悪戯に笑って、いつの間にか彼女の手を掴み無心で舐め続けていた僕を、酔いの中から引きずり出した。僕は惚けた心地のままに彼女の指から唇を離し、彼女の瞳を、ぽうっと見つめる。彼女は冷えた指で僕の火照った右頬を撫でた。
「美味しかったでしょ、アクト」
「……うん」
「当たり前だよ。だって私は、“美味しいモノ”ばかり食べてるんだから」
 彼女は秘密を匂わせる笑みを浮かべてそういった。あの時の僕にはその意味が理解できていなかったが、今、思い返してみれば__と、言っても。七歳の少年に、当時ニュース騒がれていた連続猟奇殺人と、目の前にいる従姉妹とを結びつけろ、という方が、無茶な話のような気もする。
 そして僕の思い出は彼女の死によって完結する。
 その日は特別に暑かった。虫取りに出掛けていた僕は当然すぐに飽きてしまって、まだ日も沈んでいないのに、陽炎の中を駆け抜けていた。森から家まではそう遠くない。僕は一度も立ち止まることなく、家へ辿り着き、縁側で止まった。そして大きな声で一言、ただいま、と叫んだのだ。
 すると妙なことが起こった。
 誰も出迎えにこなかったのだ。いつもなら祖父か、祖母かが、真っ先に出迎えにきて、もう帰ってきたのかいなんて呆れたように小言を言って、それから葵姉さんが、おいでアクト、遊ぼう、と……得体の知れない胸騒ぎ。僕は虫取り網を投げ捨て、ついで虫取り籠を投げ捨て、ゆっくりと、家の中へ入った。
「__誰か居ないの?」
 家屋が僕の声を吸い込む。誰からの返事もない、向日葵の揺れる音がする。僕は迷子になったかのような不安とともに足を進めた。ぺたり、畳が足に貼り付く。ねぇ本当に誰もいないの?……もう少し、奥へ行ってみよう。おばあちゃんとおじいちゃんは、畑へ出掛けているのかもしれない。そうだよだからいないんだ、それで姉さんはきっと部屋にいるんだ、姉さんの部屋はうんと奥だから、僕の声が届かなかったんだ。きっとそうだ、きっと、……そうして僕はとうとう見つけた。
 葵姉さんの死体を。
 四肢は切り離されていた。それから肘と、膝のところも。首は繋がったままだった。九つに分けられた身体。世界がしん、と静まり返る。蝉だけが鳴いている。あぁ背後で蝉が喚いている。彼女の肢体を縁取るように色の濃い血液が、なんて勿体ないことを、あんなに“美味しい”赤なのに。彼女の長い黒髪は血に浸って艶めいている。僕は切り口に目を向けた。喉が自然と、唾を飲み込む。なんてそそる赤、桃、白色。その肉を噛み千切ったなら。舌にのる滑らかさはどうだ、噛んだ時の柔らかさは? 口に広がる血液の、至高さ。__突然に喉が渇きを覚えた。食欲、そうかおやつの時間だ、ねぇお腹が空いたよ姉さん、姉さん、喉が渇いちゃったんだ、だから、ねぇ、いいでしょう? 貴女は許してくれるでしょう?
 貴女を喰らっても、いいでしょう?


 葵姉さんと僕の祖父母は猟奇殺人の餌食となった。姉さんが死んでしまった以上真相は闇の中だけど、僕はあの時の姉さんと、__“同じこと”をしている気がする。葵姉さんの死体は、今でもまだ見つかっていない。七歳の少年が隠した場所を、警察は未だに見つけられないでいる。葵姉さんの両親は葬儀を行おうとはしない。もう、分かっているくせに。人間ってとても哀れだ。僕も、それから姉さんも。あの夏は僕だけの物だ。僕以外、誰も知らない。 彼女はもう死んでいることを。

 そして彼女の細腕が、大層美味であったことも。
一夏の思い出。

2011/08/09:ソヨゴ
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