幼い頃の私たちは、とても幸せな兄妹でした。
「泉、弁当忘れてるぞ!」
「あ、……わざわざありがとうございます、兄様」
 今思えば私達はなんて怠け者だったのでしょう。平穏を平穏と知らず、平和を平和と気付かずに。享受し、浪費し。何をしていたやら。
「お前さ、……実の兄に敬語はないだろ」
「これは私の性分です。どうぞお気になさらず、兄様」
「いや気にするなっつわれてもさぁ! っと、そろそろチャイム鳴っちゃうか」
 回想は、虚しい。優しい日々を思い返す私の目蓋、瞳には、今は“亡き”兄様の笑顔ばかりが浮かびます。嗚呼兄様、貴方の明るい笑顔は、色褪せたフィルムの中でもいまだ鮮やかに蘇る。なのに、__兄様は、私に隠していました。その苦悩もその悲しみも、私には見せていただけなかった。強い人は、折れてしまうのです。優しい人は踏みにじられる。そういう世界です、此処は。昔から。その因果は決して変わらない、
「なぁ泉」
「なんですか、兄様」
 誰かが一度壊さない限りは。
「今日も一日、__幸せに、行こうぜ」


 そこは狂気の沙汰だった。
 まるで空間そのものが漂白されてしまったかのよう。何もかも、白、白、白。壁も家具も床も天井も、一面に白、一面が白。それは塗りこめられた色でなく、__いや、無論実際には、上塗りされたに違いないのだが、__何かが、欠落した色だった。 “何か”? 否、何もかもだ。何もかもを失って最後に残った無の色だ。色はどこへ流れて行った、……まるで脱色。抜け落ちた世界。
「神、」
 拍動を飲み込んでようやく口に出した呼びかけは、唇の上でわずかに震えた。力ない私の声は部屋の奥の天蓋を揺らし、そこに臥す、唯一神の、眠りをどうにか妨げたらしい。神はゆっくりと身を起こす。一瞬見えた横顔は、すぐに窓の方を見やった。
「穂積クン。何しに来たの」
 黒い服を着てきたのでしょう。 神は、色の無い声で呟く。 僕の前に現れないで。僕の視界に入ったりしないで。黒は見たくない、黒は嫌い、その赤も嫌い、大嫌い、僕の目の色と同じで醜い。
「神、……この部屋は、一体」
「綺麗でしょう? 白くて」
 もうそれ以外見たくはないの。
 私はおぞましい物を感じて部屋の隅へと目を逸らす、__おぞましい。私が、神に?__割られた鏡が目に映った。切り離された銀色は私の姿をちぐはぐに映し、バラバラにされた私の身体は罵るでもなく沈黙する。よく見れば、縁に、血痕。
「白はね、あの子の色なんだよ」
 神は私に語りかけている、はずだ。私の方を見向きもしないが。その目は窓を見つめてらしてしかし、窓といっても、あれは……白く塗り潰された部屋。窓とて、例外ではなかった。神は一体何処を見てらっしゃる? あれでは空など見えるまい、あれでは樹々など見えるまい、あれでは街も、其処に住む、民も__「見たくはない」と神はおっしゃった。
「無垢な白。穢れない白。どんな醜さも飲み込んでそれでも美しく輝く色だよ、分かる? 穂積クン。君ごときでも。僕はほとほと愛想が尽きたよ、もう沢山、もう何もかも沢山。白以外なんて見たくない、あの子の色しか見たくない、黒、赤、灰色、オレンジ、緑、桃色、黄色、茜、紫、……なんて醜いの。価値もない。色とりどりに着飾って皆様ご苦労様だこと、蚯蚓がドレス着てるみたいだよ。ああ綺麗だなあ、そうじゃない? 此処は何処よりも綺麗じゃない? だってあの子の色だもの、……鏡は要らない。僕が映るから。僕はあの子の色をしていない、噫厭だ厭だこの赤い目! なんて厭な色! 大ッ嫌い、君の髪も同じ色だね、ふふ、あはは、抉りたくなるな。あの子の瞳は深いブルーで、__深海の色をしていたね。生も死も飲み込んでそれでも尚美しい色。そうか、青か、あの青が足りない、この部屋は何かが足りないと僕はずぅっと、__そっか。海か」
 ベッドの上に投げ出された神の四肢は、恐ろしく白い。生きている色では到底なかった。抜け落ちた、抜け落ちた、生命が? それとも、心が?
「穂積クン。今日はパレードだね」
「……はい。栞田様」
 私が俯いたままに返すと、神は私の顔を見て、笑った。 やっぱ汚いねその色は。
 声が。あまりに、無邪気で。
「ねぇ穂積クン。今日は僕からのプレゼントがあるんだよ。素敵な、クリスマスの贈り物」
「クリスマス、とは……?」
「ああそうか。きっと君は知らないね。くだらない異教の祭りだ、__でも、皮肉にはうってつけ」
 楽しみにしててね、穂積クン。

 それが俺と彼の交わした、最初で最後の会話だった。


 白い子猫が道をゆく。早朝の大通りには人影も車も見当たらない。朝日が夜空を染め上げる中、子猫はしっかりと地を踏みしめる。子猫は喪ったばかりだ。誰を?__あれは、誰と言うべきなのだろう。子猫にとって彼は兄であり、親であり、友達であり、……そしてその内のどれでもなかった。子猫は何も知らなかったが、それでも彼を「飼い主」と呼ぶことだけはしたくなかった。そんな続柄で済ませたくなかった。彼は子猫にとって、恐らく、一生忘れることのない大事な人であったから。
 今日、子猫は家を出た。一緒に暮らしていた女(ひと)はこれで一人ぼっちになった(しかし彼女は無言のうちに「独りになりたい」と願っていたから、悲しいのは子猫の方だが)。彼女は、相棒を失ってしまった。空色の瞳を持った、黒髪の、美しい青年。目鼻立ちが特別に整っていた訳ではないが、彼は澄んでいて、とても綺麗だった。もっとも彼自身は彼のことを「醜い」と、思っていたけれど。
 子猫は「うしなうこと」に慣れていた。慣れていたって悲しいがそれでもやはり慣れていた。子猫はみんなが恋しかった、また会いたい、撫でてほしい、足にじゃれついて一緒に遊んで、……だがもうそれが叶わないことを子猫はなんとなく察していたのだ。取り戻せないものは、ある。二度と帰ってはこないものも。永久に巡り会うことはない幾つかの温かいものたち、__一度うしなってしまったものを振り返るのは猫の信条に反する。だからこそ、子猫は歩く。留まっているのは人間だけだ。
 しかし。
 気配に気付いて顔を上げると、子猫の視界に何かが映った。懐かしい二つの人影。 手を繋ぐ、金髪の双子。
『『あ』』
 二人もまた、子猫に気付いた。二人は子猫に駆け寄って、子猫は姉に抱き上げられる。
『久しぶり、ベル』
『久しいね、ベル』
 弟は笑顔で猫の背を撫でた。子猫は久方ぶりの温もりにごろごろと喉を鳴らして、甘える。尻尾がゆらりゆらりと揺れる。
『ベルも独りになっちゃった?』
『僕らも二人ぼっちだよ』
『寂しいね』
『寂しいよ』
『二人と一匹なら楽しいかな?』
 姉弟は顔を見合わせ、くす、くす。子猫はとぼけ顔で見上げる。姉が、子猫をぎゅうと抱きしめた。子猫は不満そうに鳴き、弟はさらに笑顔を深め、
『いいこと教えてあげるよ、ベル』
 
 今日で世界は終わるんだ。

『どんな世界になるかなぁ?』
『ね。素敵な世界だといいね』



2011/12/25:ソヨゴ
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